33


*****


 碧玉のように輝く湖面に、ばらばらになった肉体が浮いている。

 赤い血を引きながら揺蕩う水面に沈んだり浮かんだりしている桃色の内臓や真っ白な骨のかけら。湖面にそっと両手を差し入れて、それらのゴミくずをかき集めながら、マージョリーは苦しげに顔をゆがめている。


「どうしたらいい? オルドル。苦しくて苦しくて仕方がないの。わたしは正しいことをしているのに、何故みんなが拒否するの?」


 湖面に浮かび上がった赤い瞳が、波に揺られてぐるりと回転しながら、俯くマージョリーの悲痛な表情を見つめてる。

 日長椿は現実世界で、そこが現実でしかないという事実に打ちのめされて、思考を放棄し立ち竦んでいる。

 青海文書は共感の世界だ。読み手は常に登場人物たちと共感することによって重なり合う感情を頼りに魔術を行使する。それなのに今の彼は空っぽだ。

 告げられた真実に対処できずに考えることをやめれば、そこに感情は生まれない。

 そうなればいかにマージョリーに天賦の才があったとしても、莫大な魔力があったとしても、感情が存在しなければ青海文書は物語の牢獄と化す。脱出したところで、魂だけでここにいる彼女には自由になる肉体は存在しない。


「あなたも彼も、どうしてわたしに歯向かうの?」

「バカだね、マジョ子……」


 粉砕され、下顎だけになった顔のあたりから、オルドルが声を発する。


「はじめから人間は理解不能なものだ。理屈では勘定が合わないとわかってるのに、あえて非合理な選択をしたがるものなのサ」


 魔人の正体を知ってしまったとき《日長椿》は選択をやめた。彼だってマスター・サカキの死やさらなる混乱を望んでいたわけではない。ただ、自ら選択し、その結果に責任を負うことを拒否したいだけだ。

 人は滅びたがりだ。

 そして積極的に後悔したいものなのだ。

 マージョリーはその微妙な加減というものを見誤った。

 人が徹底的に感情を塞げば登場人物たちは物語に閉ざされる。それが絶望だ。だからオルドルはいつだってある程度、《日長椿》の意志を尊重してやらねばならない。

 だけど魔術的には溢れんばかりの富を手中にしているマージョリー・マガツがそれを理解することはない。人の浅ましさも、物語の奴隷の思惑も。

 人に正しさなど通用しないのだ。


「さあ、顔を上げて。ちょっとは狂ったにしろ、キミには最後の仕事があるんだロ。例えツバキくんが気がつかなくても……マージョリー、知る術すらなくても、キミにはやらなければならないコトがある。他の全てのコトは愚かな行いであっても、キミが最後に抱いた願いだけ、この世の誰も理解せずとも、このボクは支持する」


 湖面が光輝く。ばらばらになった肉体が集まって、湖は清浄さを取り戻した。

 元の人の姿に戻ったオルドルがマージョリーに手を伸ばす。


「バカだね。またキミを泣かすなんて、ツバキくんは。いまのキミは生と死の極致において、まさしく運命そのものなのに」


 二人の手が重なり、何かの約束のように握り合わされる。



*****



 頭上から果てしの無い圧力を感じる。

 たとえ魔術の素養が無くてもはっきりと感じられる熱量だ。

 見上げると、海上の一点が朱に染まっていた。真昼の中天に掲げられた星のように、莫大な熱量がそこから放射されている。魔力は無数の、万を越える針となってこの海市を包もうとしていた。

 赤い点から光線が発生した。それは空というキャンバスを焼き切りながら這い回り、魔法陣を形成していく。まもなく花開かんとする、まさに花弁のような形の魔法陣を描いていく。

 出来上がったのは血錆の色で描かれた五連に連なる薔薇の花束だ。その瞬間、青空は血が滲んだような紅色に染め上げられていく。竜の出現と同じだった。

 両肩を直接押さえつけられているかのようなこの迫力と威圧感は、銀華竜に頭上から睥睨されたときの感覚に似てる。


 もうじきマージョリー・マガツの預言は全面的に的中することになるだろう。


 竜卵による攻撃が海市に落ちれば、市域全域が壊滅する。

 天市も無事でいられるかどうか。あまり甘い夢は見ないに越したことはない。

 そして、状況は十分によくわかっているはずなのに、僕はただ呆然と見上げているだけだった。

 この竜による桁外れの大規模魔術の落下地点には自分の見知った人間たちがいて、自分に親切にしてくれた人たちがいて、そして自分が親しくしたいと思った人たちで……そんな理屈は容易く理解できているはずなのに、心は枯れた荒野のようで何の感慨も浮かばない。

 後悔するだろうと思っている自分と、それで構わないと断定する自分自身がどちらもはっきりと存在している。

 五つの光線でできた花の、それぞれの中心点に不意に莫大な熱量が帯びる。

 何が起きているのか、にわかには理解できない。

 ニュース映像で見た攻撃は激しい光の柱のような熱線が降り注ぎ、一瞬で地上を蒸発させた。でも目の前のものの形はあまりにも違いすぎる。

 魔法陣の形も、その数もだ。

 唖然としている間に七色に輝く光線が五条、放射される。

 予測したものよりはずっと細く、か細い。だが数が多い。

 それは運悪く海浜公園方面にも向かってきた。

 もちろん光の速さで。


「五の竜鱗ッ!! 《氷晶竜吐息ブレス》ッ!!!!」


 僕の目の前に、巨大な質量が落下する。それは透明で艶やかに輝く、見上げるほど大きな氷の塊三つだ。光線は氷の壁に遮られ……ることなく、ある程度歪んだ程度で、瞬時に蒸発し熱された水蒸気となって襲いかかってくる。

 あれを浴びたら、死ぬまでに全身火傷でしばらく苦しむことになる。

 突如として出現した新手の絶望に、軽めの衝撃を受ける。安楽死が拷問死に変わったら、誰だってこうなると思う。

 しかし瞬時に僕の視界は暗く遮られた。


「あーっ、やばっ、やっぱなし! なしだったわこの作戦!」

「だァから、採用する前に《夏休み子どもナゼナニ不思議相談室》に電話してからだって言ったんだよ俺はっ!!」

「煩い。今は夏休みではないし、私たちは子どもじゃない」

「じゃ、あたしたちただの大人のバカだねっ。おもしろーい!」


 蒸し焼きになる手前で、騒々しい三人組が僕を取り囲み、それぞれの魔術で防御のための竜鱗を瞬時に周囲に組み上げ、バリケードを作り上げたのだ。


「先生、うずくまってなるべく小さくなっててねっ!」


 イチゲが微笑む気配がし、竜騎装の硬質な感触が僕を地面に押し付ける。

 出血のせいで濡れた感触がする、と思ったのはほんの一瞬だ。そんなちっぽけな五感のことなど何かのまちがいだったみたいに、強い光が視界を奪った。それどころじゃなく、続いて爆音と衝撃、そして爆風が全てを奪った。

 絶叫はどこにも届かず、自分がどこを向いているのかもわからない。

 熱線が竜鱗の防護壁を襲い、突き破る。残る衝撃と爆風とを、ナツメとヒギリ、そしてイチゲが展開している竜騎装が受け止める。

 わけもわからない混乱が全身を、つま先から頭までを駆け抜けていく。

 ナツメとヒギリが順番に吹き飛ばされ、イチゲに抱えられたまま僕も地面に叩きつけられる。

 衝撃と悲鳴を必死に飲み込み顔を上げると、そこは何もかもが奪い去られた大地になっていた。空気が熱で熱い。

 直撃した地面は大きく抉れ、木々は消失して灰と化した。鉄柵は折れ溶け、タイルは剥げて地面が露出し、高温を発しながら焦げ臭いにおいを放っている。

 周囲を見回すと市街地の方角から四つの炎と煙が上がっている。

 頭上を見上げると依然として魔法陣はそこにある。

 それだけで絶望的な光景だが、地獄にはまだ続きがあった。

 僕が見つめている先で五つの花弁がぐにゃりと曲がり、融合して一枚の巨大な花びらとなる。そして一枚の花弁から、中心点を同じくした同形の花びらが、放射状に時計回りに形づくられていく。一枚、二枚、三枚。形状と残りスペースから、完成まで残りはあと九枚だ。地獄の時間を計測している時計って、あんなものかもしれない。なんて途方もないカウントダウンなんだろう。


「うううっ…………!!」


 イチゲが体を起こそうとして、呻き声を上げる。魔人との戦いですでに致命的な怪我を負っている彼女は、もうまともに動ける状況じゃない。


「イチゲ! なんで……なんで先に逃げなかった!?」

「だって…………だって、私ら竜鱗騎士なんだよぉ? 先生を置いて行けるわけないじゃん……!」


 はっとする。まるで今まで悪夢を見ていて、ようやく目が覚めたみたいだ。

 彼らは学生だが竜鱗騎士の卵だ。竜が女王国を襲うなら、先陣をきって戦い身を挺して人々を守るのがその役目だ。


「先生、まだ次の攻撃が、本当のやつが来るから……!」


 先ほどの攻撃は、地上に展開した軍や魔術師を焼き払い、本番の攻撃を確実に届けるものだ、とイチゲが口早に言う。つまり僕がニュースで見た例のやつはこれからなんだ。何も始まってはいない。何も終わってない。

 それなのに、この威力だ。

 イチゲは血まみれの顔で笑った。笑おうとしてた。


「先生だけでも先に逃げてよ。あたしは、あとから二人を連れて行くから。大丈夫っ、かわいくてつよぉいイチゲちゃんは、優しい旦那様と暖かい家庭を築くとゆう目標を達成するまではっ、こんなことで負けたりしないんだから!」


 イチゲはいつものイチゲを徹底的に演じてるが、無理がある。痛みと出血で半泣きだし、今にも意識が飛びそうなのを堪えてる。見ればわかる。

 僕は横たわったままのヒギリとミズメを見やった。

 防護壁を張ったとき、魔人戦での負傷が大きいイチゲをヒギリとミズメが庇ったのだろう。三人とも物理防御に向かない竜種だとは校内戦のときに聞いていたが、ふたりの竜騎装は爆風の直撃を受けて大部分が剥げ落ちていた。

 あくまでも僕が無事なのは、僕が戦わなかったからだ。

 そして、戦わない僕のかわりに、三人が戦ってくれたからだ。


「ありがとう、イチゲ。ありがとう……」


 自然と言葉が唇から漏れた。

 それは謝罪とほぼ同義の感謝だった。


『ツバキくん……。どうして? あなたは彼らを救いたいと思わないの?』


 びっくりした。マージョリーに言われるまでもなく、自分で自分に驚く。

 それでも、僕は、明確に

 ここまで、自分自身が愚かだと思ったことはない。

 自分はむしろ賢いほうだと思ってた。

 命の危険が迫れば、切り替えられる。過去の全てを割り切れる。

 こんなことをしてる場合じゃないんだって、理解できるはずだと。

 でも違っていた。


 尖晶クガイを殺したのは誰だ?


 頭の奥から僕自身の声がする。

 何故……。

 何故、イチゲたちが逃げず、僕を見捨てずに守りに来たのか、そんなこと考えるまでもなくわかってる。

 彼らは前回の《校内戦》で僕を裏切った。戦えなかった。人々を魔女の脅威から守るどころか、危険に晒すほうに回ってしまった。

 でもそれは仲間を守るためで……。

 もしも条件が揃っていたなら、卑劣な策略が無ければ、彼らも竜鱗騎士としての役目を全うできることを証明しに来たんだ。ここで、ここで彼らを守ることもできずに立ち竦んでるこの僕に証明するためにだ。


 騎士は……。

 竜に襲われているのが愚か者だとしても、竜を殺す。

 死ぬべきなのが僕だということが明らかだとしても、竜を殺すんだ。


 騎士の覚悟がわかるのに、僕は自分の意志では立ち上がれない。


 どうして……。

 どうして、と叫ぶ心が前に進むことを拒否する。

 答えはない、少なくともここにはないとわかっているのに、堂々巡りの疑問から一歩も進めない。

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