29 愛だけがすべて




 マージョリーの愛は僕から思考を奪っていく。

 僕を支配していた感情があっという間に塗り替わる。

 強い怒りが僕のことを足先から燃やしていく。

 対象のない、純粋な怒りだ。魔人が強制的に恐怖を感じさせるように、その感情だけが湧き上がってくる。

 あまりにも感情が強すぎて、眩暈がする。涙や鼻水は止まり、かわりに心拍数が上がって呼吸が速くなる。


『ツバキくん、もう時間切れだよ』


 水筒越しに聞こえてくるのはオルドルではなくマージョリーの声音だ。


『あなたはもうわかってるのに、これを終わらせる方法をわかってるのに、つまらない時間かせぎはやめて』


 時間稼ぎだって? 僕はちゃんと戦っている。


『ウソ。あなたにはぜんぶわかってる。ひとの心のいちばん弱くて柔らかいところがどこにあるのか。ねえツバキ、わかってるでしょ? お父さんはあなたを選んではくれないのよ』


 息が詰まる。

 僕の中にある形のない怒りすべてが、波のようにざわめくのを感じる。


『過去に渡っても、あなたに気がつきもしなかった。尖晶クガイが愛しているのはあなたじゃない。あなたの家族でもない。別のひとなの』


 ちがう、父さんなんかじゃない。


『じゃあどうしてなの? あなたに特別な才能があるのはどうして? なぜあなたは《見た》だけで完璧に他人の行動をトレースすることができるの?』


 そんなの、わかるわけない。

 それは生まれつきだ。人間の限界を飛び越えるようなものじゃない。


『うそ。あなたはクガイとの特別な結びつきをかんじてる。でもそれはあなただけ。あなただけなんだよ』


 呼吸が止まりそうだ。

 やめろ、と叫び出したかったが、開いた唇から出て来たのは別のものだ。


「《昔…………》っ!」


 勝手に、僕の声が発せられる。

 魔術なんか使いたくないと思っているのに、唇が勝手に青海の呪文を紡ぐ。

 あらがえない。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》……!!」


 オルドルの幻術が発動する。魔術はオルドルのものでも、使ってるのはマージョリーだ。オルドルの意志が全く感じられない。


 オルドル、いったいどうなってるんだ、答えて。


 返事はない。

 マージョリーは一瞬でサカキの姿と僕のを取り換える。

 スケラトスの魔術が消え、それと同時に《恐怖》による幻想の僕が消えて、魔人が振り向いたときには準備は整ってた。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」


 魔術が勝手に発動する。今度は僕の魔術じゃない。

 マージョリーのでたらめな力が金杖を介して放たれて、内側から空間を閉じていたサカキの結界を破壊する。繊細で緻密な魔術がバラバラの石片になって崩壊していく。サカキは僕の顔で、こっちを責めるように見ている。

 僕じゃない。だけど、そのことは伝わらない。

 これまでオルドルが何度かやったように、完全に自分自身のコントロールを失ってる。

 次の瞬間、閃光が室内に飛び込んでくる。

 竜騎装をまとったヒギリが弾丸になって、魔人の体に組み付く。

 即席の恐怖対策だろう、目隠しをして視界を完全に塞いでいる。


「捕まえたぞ!! オラッ!! 死んでも離してやらねえからなッ」


 視界を封じているため、死んでも離さないどころか、それしか活路がない。

 魔人がまとう影は装甲の薄い箇所を選んで忍び込み、串刺しにする。

 ヒギリは血を吐き、それでも宣告通り魔人を捉えたまま離さない。


「ヒギリッ!!」

『どうするの、ツバキくん。このままじゃ、あのこ死んじゃうよ……?』


 だめだ。

 それだけはさせない。

 この戦いにほかの誰も巻き込めない。


「サカキ、このまま外に連れてくぞッ!!」


 叫んだヒギリの背中を、魔人が掴んだ。そのまま魔人は黒い閃光となって全身串刺しのヒギリを壁に叩きつける。壁は崩落し、二人はそのままもつれあいながら学院の外へと飛び出して行く。


 マジージョリー、どうして……?

 君はなぜ、二つの命を天秤にかけて、容赦なくそのうちの片方を切り捨てることができる……?


 残酷な答えが返ってくる。


『それがわたしの愛だから』


 イチゲと、サカキ教室の生徒たちが、マスター・サカキを助けにやって来た。


「イチゲ、僕はこっちだ」

「サカキ、じゃない。もしかしなくてもヒナガ先生のほうか!?」

「魔人の核の位置がわかった。左肩だ」


 サカキ教室の子たちにはこのまま残ってもらうほうがいい。

 イチゲは軽々と僕を抱え上げ、小さな翼で飛び立つ。


「先生、やっとわかった。あいつ、魔力を吸収してるんだ。核の位置がわかっても、私たちの魔術じゃダメかもしれない」


 イチゲは必死だ。

 おそらく魔術を吸収しているのは一角獣の角の効果だ。

 不幸や不運を吸収する能力が、向けられる敵意や魔術をそれにカウントしてる。

 だから魔人は魔力切れを起こすことはなく、こちらの攻撃の威力は減衰する。

 まともに戦うには角の効果を排除しなければならない。

 だが、こちらにはマツヨイのように便利な破魔の力を持つ者はいない。

 核を壊さなければ勝利はない。


「勝算ってあるのかな? それともヒギリは無駄死にするかんじ?」

「ヒギリは、あとどれくらい保ちそう?」

「三十分……、いや、十五分っ!」

「わかった。それじゃ、僕たちは準備をしよう」

「準備?」

「仕掛けをする。魔人を必殺の罠にはめる」

「今度ばかりは、信じちゃうよぉ。期待させてよねぇっ」


 イチゲは僕の不調に気がつくこともない。

 竜騎装を展開し、全ての魔力を使って空を疾走する。

 飛行することそのものは得手ではない彼女でも、地上を疾駆するよりよほど短時間で目的地に到着する。

 そこは、いつかミクリと訪れた場所。

 内海に造成された人工島。ショッピングモールと高級住宅が併設されたそこに、僕は舞い戻った。

 今度はもう誰の機嫌もうかがわなくていい。

 例の超高級アパートメントのロビーに立った瞬間に目的は達成されていた。

 僕を待っていたのは、白銀の髪をなびかせた全ての元凶だ。



 コチョウははっきりとそう言った。

 普段のコチョウなら絶対に言わないだろう。

 腰を折ってお辞儀すらした。

 彼はコチョウなんかではない。外側はそうでも、中身は全くの別物だ。

 その中身を、今の僕はもう知っている。


、ここにいたんだね」

「ええ。この体に入り込むのは苦労しましたよ。この疑い深い男に接触するため、秘書の体に潜りこんで十年ほどでしょうか。誠心誠意お仕えいたしました。しかし、こう易々と再度体を明け渡すとは、たしかに魔術師としては亜流ですね」


 コチョウが聞いていたら怒り狂いそうなセリフだ。

 彼は普段から秘書を何人か使っていた。

 そのうちのひとりがルニスだったのだろう。


「それはイキシアの指示なら、感謝するよ」

「哀れなご主人様の意志は、意識は、あの館があるかぎりこの地上には存在いたしません。それこそがあの忌々しい青海文書の、サルイシアの魔術なのですから」


 イチゲは状況がつかめず、戸惑った様子でいる。

 でもこれは、リリアン・ヤン・ルトロヴァイユと同じく、過去と現在、そして未来の鎖を断ち切った種族であるからこそできる離れ技だ。


 これで、尖晶クガイは死ぬ。

 愛がこの世のすべてならば、愛のために死ぬだろう。


 もしも僕が望めば……。

 それが本当の望みなら。


 わからない。僕は怒っていて、いまは怒りの手触りだけが感じられる。

 ほかにも何かあったはずなのに、それが思い出せないでいる。

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