28


 破壊された扉から、魔人が悠々とした足取りでやってくる。

 その全貌が露にならないうちに、僕はマスター・サカキに飛び掛かって、頭部をマントでぐるぐる巻きにする。本来の僕はあまり反射神経がよくないほうだが、最近、生き残ることにかけてはものすごい性能を発揮するようになってきた。


「なにするんです?」

「い、いや、こ、これにはちょっと理由が!」


 だっておかしい。

 向こうの部屋にはイチゲとヒギリと、サカキの教え子たちがいる。

 なのに、魔人はそれを突破した。

 倒せないまでも、足止めくらいはできる実力の持ち主たちがあいつを易々と通したのだ。

 僕は薄目で魔人のほうを見る。

 真っ黒な両脚の向こうで、竜鱗騎士たちが倒れてる。

 全員、生きてはいる。大してけがもしてない。それでも、全員が地面に伏せたまま立てないでいる。

 何とか起き上がろうとしながら、イチゲがこっちを必死に見つめてる。

 私のことはいいから、逃げろ、と視線が言ってる。

 そうだね、君はそういう子だった。

 本当は誰の事も道連れになんかできないんだ。


「ま、マスター・サカキ、こっ、この部屋を封鎖することはできますか!?」

「なんで声が震えてるんです?」

「い、いいから! い、いますぐ、ここここの空間を閉鎖して! 一分の隙もなななななくっ! て、ててて天才なんでしょっ!!」


 僕の呂律は急速に回らなくなってきてる。

 なんでなのかは明らかだ。

 魔人はまた《模倣》した! それは《縞瑪瑙の館》に巣くっていた邪悪なものたちの力、《恐怖》だ。

 クガイは屋敷で、彼らの力が魔術によるものに見える、と言っていた。

 僕にとってあれらは異世界の邪悪な物語の力だが、この世界に持ち込まれた時点で奴らは何らかの《魔術》に変換されているのだ。

 竜鱗騎士は強い。だが、彼らは感情の無いバーサーカーなんかじゃない。

 彼らにも感情がある。

 感情があるなら、恐怖を増幅させることだってできる。

 そして残念ながら、僕にも感情がある。


「いいいいいいま、僕は魔術がう、うまうまうまうまくつ、使えないんですっ」

「なんだかわかりませんけど、まあ、いいでしょう。あまり防御魔術は得意ではないんですが、ここは私のテリトリーですんで」


 頭部がぐるぐる巻きのまま、サカキは杖を手に取った。

 両手に抱えられるほどの黄金色の宝石が嵌め込まれた杖だ。

 それと同時に、破壊されて床に散らばった無数の裸石ルースが共鳴し、震えはじめる。魔力が増幅され、再構成されていく。

 部屋の向こうの風景が細かく裁断され、複写され、天地左右の全てを覆い尽くしていく。

 サカキの研究室を煌めく黄金の結晶構造が包囲していた。

 クヨウの部屋で見たやつに似てる。ただし、これはほぼ完璧な規則が支配する結晶構造だ。

 ここは完全に閉じられた空間になった。

 僕らも出れないが、魔人も出れない。外の空間に向けて魔術を使うこともできない。サカキの魔力が切れるまでは、そうだ。

 今度は僕の番だ。

 魔人にサカキを殺させちゃいけない。

 感情ではなく――心ではなく、そう思う。それが一番はやく、誰も傷つかない選択だったとしても、そこに流されたら、大事なものを失ってしまう。

 だから、ここで魔人を止める。もうクガイに誰も傷つけさせない。


「リ、リリアン……魔人をもう一度、鏡に封じることは、で、できる?」

「あなたが望むなら……不可能ではありません」


 リリアンは無感動にそう言った。


「それが本当の望みなら」


 僕は近づいてくる魔人に金杖を向けた。

 恐怖の魔術をかけられたら、オルドルの魔術は使えない。


 だから、オルドルの魔術は使わない。


 両目を開けて、魔人の姿を見つめる。

 闇の中から紅の魔眼がこちらをじっと睨みつけていた。

 その瞬間、目の前がスパークして激しい感情が押し寄せる。

 正体がわからなくなるほど強すぎる感情が脳みそと体全体を揺さぶる。何もわからないのに涙があふれ、鼻孔からは鼻水が垂れ、口の端からはよだれが零れ落ちた。

 精神が思考を凍らせ、肉体をもおかそうとしている。


「むむむむむ、《昔々、ここは偉大な魔法の国っ》!」


 顔面ぐちゃぐちゃになりながら、呪文を唱える。

 そのとき、僕の手にあったのはオルドルの金杖ではない。鈍い骨董色アンティークカラーをした大きな《鍵》だ。


「《その名は幽閉のスケラトス。閉じ込める者の名であり、永劫の鍵である》!」


 それは紛れもなく、シスター・ルビアが使った青海文書の魔術だった。洞窟に閉じ込められ、狂気を発現させた兄弟の、その兄のほうの魔術だ。

 僕にはルビアの気持ちはわからない。

 きっと永遠にわからないままだろう。

 だけど魔人が強制的に想起させる強すぎるくらいの《恐怖》は、スケラトスに届く。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」


 僕の声が聞こえた。魔人の歩みが止まる。

 魔人の足を銀色の茨が一筋、貫いていた。

 魔人の背後に《もうひとりの僕》がいた。

 ここで地面に座り込み、恐怖に身を竦めて全身を震わせている僕ではない。オルドルの幻による僕でもない。スケラトスの魔術により、ルビアが《支配の魔人》を顕現させたように、僕も恐怖の対象をこの《密室》に生み出したのだ。


 それは――だ。


 オルドルの魔術を使い、憎悪に心を燃やしながら、自らの肉体を犠牲に魔術を使う醜く愚かな自分自身。嘘つきで、誰の役にも立てなくて、守れなくて、救えなくて、結局最後は傷つけてしまうくそったれな僕自身!

 魔人は突然現れた第三者に向けて、黒い雷や矢をを放った。

《僕》は魔術を展開しながら後退する。魔人の魔術は幾枚もの盾の表面で砕け散る。

 逃げ回りながら、茨を大量に生やして魔人の足を止め、クガイを包囲していく。

 スケラトスによって現れた《僕》がオルドルの魔術を使っても、代償を支払うことはない。支払いが必要なのはスケラトスへだ。

 オルドルと違い、スケラトスが欲する代償は《傷》。

 実は秘色屋敷でも僕はカミーユに対して同じ魔術を使ってた。

 こっちに戻ってきたとき全身が血だるまになってたのは支払う《傷》が足りなかったからだ。たぶん、ペナルティみたいなもの。

 スケラトスを使うのにどれくらいの代償が必要なのかわかってなかったけど、結構、大量に食うみたいだ。

 こうしてる間にも、あっという間にペナルティで食らった分の傷が消えていく。

 魔人を見つめながら、震える手でリブラからもらった護符を外した。これがあると傷が自動的に治癒してしまう。スケラトスとは絶望的に相性が悪い。

《僕が》巨大な黄金の剣を生成し、魔人に向ける。

 魔人もまた、同じく漆黒の剣を作りだし、二つが空中でぶつかって崩壊していく。

 その欠片を手にとり、僕は意を決して腕を刺し、決死の覚悟で刃を横に引いた。


「うううっ!」


 スケラトスの魔術を維持するための傷が足りなさすぎるのだ。


「り、リリリアン、ま、魔人を封印する方法ははは!?」

「よろしいのですか?」


 リリアンは無表情に訊ねた。


「再び封印しても、よろしいのですか? 尖晶クガイを。光の届かぬ鏡のなかに」


 僕は自傷行為を続けながら、恐怖の狭間でそのことについて考える。

 クガイを……。

 あの、尖晶クガイを。

 偽物だとわかってた。

 本当の尖晶クガイは、僕の世界に今もいる。

 ここにいるのは、そして僕と秘色屋敷にいたのは、人間ですらない。

 そうだとわかってた、わかってたけど。


 僕には、僕にはできない。


 僕には……。


 天藍みたいに、ルビアを殺すこともできなかった。

 誰かを守るためであっても、できない。

 サカキを守るためであっても、何一つ選べない。


「いいんですよ。あるべきものをあるべき場所に帰すだけです」


 そう、サカキが言った。


「ちがう、ちがうんだ」


 サカキとクガイの命を天秤にかけているのではない。

 そうじゃない。

 ただ……。

 傷つくことを選べないだけだ。

 こんなに傷ついて、傷つけられたのに、自分で自分を痛めつけたのに、まだそれを選ぶことができないでいる。


 どうしたらいい?

 いったい、僕は、どうしたら?


 わかってたんだ。

 それを、思考を、決断を放棄したら、後に待ってるのはろくでもないことだって。



 ツバキ。


 あいしてるわ。


 魔女の声が聞こえる。

 優しく囁き、髪をなでて、何もかもを奪い取っていく愛が語りかけてくる。


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