27 崩壊
急速に《現在》へと引き戻された僕は平衡感覚を失って硬い床の上にもんどり打った。これまで僕の精神はリリアンの体を動かしていたが、いきなり自分自身の肉体に放り込まれて感覚が狂ったのだ。
それとウィクトル商会の万華鏡の力で見た光景も衝撃的過ぎた。
あの場所にいたのは間違いなく尖晶マツヨイだった。
仮面の下で黄色く輝いていたのは、破魔の力を持つ魔眼の輝きだ。それ以外にない。
マツヨイはアマレの母親にしてコチョウの妻、そしてクガイの妹だ。
なんでカミーユと一緒に行動していたのか、秘色屋敷にいたのか、その理由はわからない。予測もつかないけれど。
そして……。
僕は床に両手を突いてゆっくりと上半身だけ起き上がった。
リリアンは万華鏡一式を鞄の中に収納し、スカートの両裾を持ちあげて恭しく一礼すると、背後に下がった。
視線の先で僕のことを見下ろしていたのは、車いすに腰かけたマスター・サカキ、その人だった。
僕は彼のことをどう見つめていいかわからない。
「あなたは」
僕は話しかけ、そこで言葉を切った。
喉の奥に巨大なわだかまりがある。何て声をかけたらいいのか、とてもじゃないが見当もつかない。
サカキは咳のかわりに短い吐息を吐いた。
「言ったでしょう? 私を殺せば、魔人は学院を去るでしょう。彼はコチョウを探しているが、殺したいのは私なのです」
それはあまりにも残酷すぎる台詞だった。
その言葉の意味するところはひとつ。
あまりにも信じ難く、途方もなくて、他の誰でもなく自分自身が狂気の淵に立っているのだと否応なく思い知らされる。
「あなたは、まさか菫青ミズメなの?」
サカキは微笑んでいた。それは生と死を超越した微笑みだった。
戦士たちが時折、戦いの最中に浮かべる表情。自らの生存を運命に委ねるときの、覚悟と諦念の表情だ。
「私は生まれつき体が弱く……母親の胎内から取り出されたときにはほとんど死んでいたようなものでした。医療魔術で何とか生き延びましたが、肉体はどんどん使い物にならなくなっていく」
サカキは淡々と言う。
確かに黒髪や瞳の色はちがう。
だが車椅子に預けたほっそりとした掌や顔立ちは、図書室で見たあの遺体そのままだ。
彼の肉体は菫青ミズメにそっくりなのだ。
はじめは何故なのかわからなかった。
女王陛下の三人の騎士と、学院のマスター・サカキ。そこが繋がるなんて思ってもみなかったからだ。
僕が言葉にしなかったのは、「あなたは、どうしてミズメにそっくりなの?」というものだ。とても口にはできなかった。考えるだけでどうにかなりそうだ。
「そこで父親は、代わりの肉体を見つけることを考えつきました。もちろん危険に満ちた方法です。当時、彼は魔術学院の教官でした。露見すれば逮捕され、すべてを失うでしょう。――――そこに、血相を変えて現れたのが星条コチョウです」
にわかには信じ難い話だが、コチョウは自殺をはかったミズメの遺体を学院で教鞭を取っていた恩師の元へと持ち込んだ。蘇生の望みに賭けたのだ。
死んだミズメが偽物であったというのはサカキの父親、マスター・ロカイにとって寝耳に水であり、僥倖でもあった。
何しろミズメの本体は異世界にあって、そこにあるのは精巧な偽物なのだ。消えたとしても元々いなかったはずの肉体で、罪の意識にさいなまれる必要はない。おまけにミズメは菫青家に連なる。精神は失われたが、魔術師として最適な肉体が残ってる。
そして偽物のミズメが死んだという情報は星条家と、コチョウの忠実なる友人・尖晶クガイが丹念に消してくれるだろう。
この醜聞が世に出ることはないのだ。
目の前にあるのは、闇に消える運命にある魔術師の完璧な遺体だった。
愛する息子を失う直前の父親にとって、これほどの逸材はなかった。
「だから、ロカイはリリアンを襲った……」
僕の声は震えていた。心の底から恐ろしかったからだ。
ただし、それは縞瑪瑙の館で目にしたたような、グロテスクな恐怖ではない。
万華鏡の力で過去に渡ったとき、僕の――いや、リリアンの体は高層ビルから投げ出された直後だった。そしてドレスには焼かれたような穴がいくつも開いていた。
あれは、鉱石魔術によるものだ。
サカキの使うものよりも威力は低いが、リリアンの体を空中に吹き飛ばすのには十分なくらいの。
ロカイは事が露呈することを恐れて、ただひとり正確に事態を把握しているであろうウィクトル商会の収蔵庫管理人、リリアンを殺そうとしていたのだ。
それは尖晶クガイの介入により防がれてしまったが、交霊会のどさくさに紛れて遺体を持ち出すことには成功した。コチョウは遺体を盗み出したのが誰か気づいていなかったに違いない。
何しろあのとき、彼は体をルニスに乗っ取られていたのだから。
「父は禁術を用いミズメの肉体に私の精神だけを乗せ換えて延命に成功しました。まあ予想外だったのは、ミズメが自殺するため用いた毒素が排出できず、死にかけには違いない状態だったことくらいでしょうか」
マスター・ロカイは研究の全てを息子に受け継がせ、引退をした。
彼がしたことは魔術犯罪に値するが、誰も疑いもしなかった。
「マスター・オガルは気付かなかったの?」
「彼は妾腹の子どもですからね。ミズメとは直接の交流はなかったのです」
「ああ、そう……」
ああそう、意外に言葉がない。
ほかに何て言えばいい? 僕にはわからない。
ここにいるのは怪物でもなんでもない。人間だ。人間が持つ純粋な怖さ、手段を選ばない悪意、脆弱すぎる倫理観、ただそれだけ。
「くそっ……」
この悪態は、サカキやマスター・ロカイへのものじゃない。
清潔だった床に赤い血が広がっていく。
これは僕の血だ。
体に異変が起きつつあった。
マスター・サカキの部屋に戻ってきたとき、僕の肉体は無痛で健康、むしろ快適そのものだった。
しかし今は違う。こうしてる間も見る間に手の甲に爪で引っ掻いたようなミミズ腫れができ、肌が崩壊するように崩れて血を流していく。あっという間に僕の体は傷だらけになり、血だるまになっていた。
秘色屋敷で使ったとある魔術の代償だった。
それから僕は今、別の問題も抱えている。
あいしている、と声が聞こえる。
青海文書の影響のせいだ。
マージョリーの意志を感じる。彼女は怒りを介して、何故か僕に魔人を殺させようとしている。
魔人に対する怒りは確かに僕の中にある。学院を滅茶苦茶にしようとしている怒り、コチョウの過去のおぞましい行いに対する怒り、そして破滅するとわかっていたのにクガイに対して何もできなかった無力さへの怒りだ。でも魔人はクガイなのだ。
「軽蔑しますか、マスター・ヒナガ」
「…………いいや」
「私は過去に何が起きたのか全て知っていたのですよ。それでも知らないふりをして、同僚としてあなたのことを欺いていた。はじめから自分の存在そのものが死者と生命に対する冒とくだということ、そしてこの世界にいてはいけない存在だということを知っていたのに……」
サカキが何を言いたいか、よく理解できた。
彼は後悔している。自分の命が他者の悲しみを基に成立していることを。
そして、僕にはわかる。彼は本気で命を投げ打とうとしている。
魔人は《鏡》に支配された妹を始末し、親友であるミズメのことも解放するつもりだ。つまり、サカキを殺して。
サカキがここで死んだなら、魔人は学院を襲う意志を失うだろう。
後はコチョウと魔人の問題だ。
そしてサカキはそうなってもいいと感じてる。それが償いになるのなら。
《いい子だ、少年。君は、他人に何か奉仕してやらないと、自分は愛されない存在だと思っているんだな》
皮肉たっぷりなクガイの言葉が思い出される。痛みで泣きたい気持ちではあるが、僕は考える。
感情というあやふやなものを押し込めて、必死に冷静になろうとしている。
「だけど、だからこそ。マスター・ロカイが貴方をこの世に留まらせてくれたからこそ、僕はキヤラに立ち向かえた。勇気を出せた」
僕の言葉はあまりにも脆い。
ロカイの覚悟も、決断も、狂気にさえも手が届かない。
寄りかかろうとしたら途端に崩れ落ちてしまう、砂の城みたいにあやふやで曖昧な言葉だ。
何しろ、僕の内側には、どうしようもない感情がある。
彼がこの世にいなければ、という感情が……はっきりと存在している。
ロカイが息子を生き永らえさせようとしなければ、魔人が誕生することはなかった。クガイとコチョウが秘色屋敷に集うことはなかった。クガイを救えずに苦しむことは無かった。
僕は血の滲んだ足を強く掴んだ。
わずかな間、痛みが感情を消してくれる。
「マスター・サカキ! 自由に生きていいんです! あなたの自己犠牲なんか僕はいらない! つぐないも必要ない!」
痛みを堪え、僕は叫んだ。
今までこの体に受けたどんな痛みよりも、痛くて辛かった。
「貴方が何者であっても、どんな生まれだったとしても、そのことで自分自身を犠牲にしなくてもいいっ! いいんです!! 僕は、そうではない貴方自身が見たい!!」
それはクガイの言葉だった。
皮肉の裏側にあったもの。彼が教えてくれた彼自身の《愛情》だ。
たとえどれだけ醜く歪んでいたとしても、己自身を破滅させようとも、彼は愛した。
そのとき、魔術の気配を強く感じた。
魔人の力だ。
おぞましい呪いの波動が激しく音を立てて閉じられた扉を打ち破る。
「《一の竜鱗》!」
耳元で聞こえたのはサカキの声だ。
それを最後に、視界が見たことある黒い雷と破壊がもたらす土埃によって覆われる。
次に目を開いたとき、そこには相変わらず床に這いつくばっていた。
彼は車椅子から離れ僕を庇っていた。体のあちこちに竜の鱗が浮かび上がっている。竜鱗魔術を使って一時的に肉体を強くし、防御力を上げたのだ。
病弱キャラだってことばかりが頭にあってすっかり忘れていたが、サカキは鉱石魔術の使い手であり、竜鱗騎士でもあるのだ。
しかし、移植された枚数が少なすぎる。
差し伸べた腕をいくつもの漆黒の刃が貫いている。
「本気じゃないでしょう。さっき言ったこと……」
サカキは言った。
苦しげで、でも表情は笑ってた。
「だからこそ、私は本心を偽って強がりを言う貴方のことが、ほんの少しだけ好きなんです」
孤独は恐ろしいものではない、と記憶の中のクガイが言う。
そういうお前を好きになる人間がいつか現れる、と。
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