22 薔薇騎士の緋と白


 真っ黒な夢の中にいた。

 自分でも夢とは気が付かないような夢の中だ。

 誰かがその夢の奥のほうにいる。

 息をするのさえ必死に堪え、身じろぎもしないでいる。緊張が空気を伝わって肌を微かに刺激してくる。

 僕は必死に闇の中に手を伸ばした。

 今、その手を掴めば何かが変わる気がした。

 もう誰も目の前で消えて行ってほしくない。現在と過去と未来のすべてを諦めてほしくない。

 指先が柔らかい布と、その奥にある肉体の気配を捉える。

 でも彼女は震えて、どうしようもないほど震えて、身を固くして拒む。

 その拒絶が言葉になる。



 おねがい、もう殴らないで。




 *****



 目覚めたとき、僕は知らない景色の中にいた。

 薄暗さや寒さは使用人通路にいたときと同じ。

 でも周囲には一面の本棚があり、体の上には薄い毛布がかけられていた。

 長椅子の上で体を起こす。

 頭がズキズキして、視界が上手く定まらない。近くから男の話し声と、嗅いだ憶えのある紅茶のにおいがどこからか漂ってくる。

 背後の壁には、肖像画が掛けられている。

 この館の主、イキシアが描かれているのは広間と同じ。でもその傍らには緑の目をした男が連れ添っている。ルニスだ。肖像画に描かれたルニスは、今の彼とは少し違う。どこか表情に色がある。なんだろう。自信とか、そういうものだ。

 イキシアは反対に無表情で、現在のルニスに近い。

 もちろんそれは僕の主観でしかないけれど。 


「おはようございます、お客様」

「うわっ!!」


 耳元で囁かれて、のけ反る。

 銀色の盆にティーセット一式を載せたルニスが僕の傍らにいた。


「――――ルニス……クガイは?」

「コチョウ様とお話し中です」

「そうか。でもそれより、今は君の話だ」

「なんなりと。お客様」


 平板で変わらない顔に向けて、僕は人差し指を突き付ける。


「やっとわかったよ。君ってもしかしなくても《イスの偉大なる種族》だよね」

「イエスともノーとも言えませんね」

「いやいやいや、だってもう、それしかないだろ」


 イースの大いなる種族、或いはイスの偉大な一族とは、地球の歴史の遥かな太古、宇宙からやって来て栄えたという知的生命体だ。

 一番大事なのは、彼らが肉体と時間を超越した特殊な種族であるということだ。


「僕に招待状を届けられるのは、イスの一族しかいない。それに、さっき意識が一瞬とんだけど……勝手に僕の精神と君のを交換したんだよね」


 目の前にいる美男子は、ただの人間に見えるけれど、本当はちがう。正確には、中身が――その精神が、別ものだ。

 イスの一族は精神生命体なのだ。

 宇宙のどこかにある本当の体から自らの精神を切り離し、人間の精神と取り換えることで地球に来訪する。交換は強制的に行われ、しかも時間さえも超越するという凄い種族だ。

 ルニスが彼らの仲間なら、未来にいる僕に招待状を届けることができる。


「仰ることはごもっともです」

「いきなり精神交換するなよ、とか言いたいことはあるけど……いきなり食われるとかよりはマシだから、まあいいや。もしかして、君、リリアンの体を乗っ取って、僕のところに招待状を届けに来たりした?」

「ご慧眼に感服いたします。流石は私が選んだお客様です」


 ルニスは全く表情を変えない。

 今度は僕が驚く番だ。


「三大魔女だぞ」

「レディ・リリアンは人形であり、精神的に脆弱です。これは魔術的に言うと、かなり無防備な状態なのです。これ以上は彼女に怒られるので言いませんが。それに私たちの精神交換は《強制》であり《必ず》で拒否権はありません。我々はそういう《登場人物》で、そのようにのです」

「……自分が物語上の存在だっていう自覚があるのか」


 僕は少し驚いた。


「君の青海文書と同じことですよ」

「青海文書のこと、どこで……」

「貴方を館に迎えるにあたり、過去と未来のほとんどすべてを調べ上げました。ただ、移動できる範囲は翡翠女王国に限られていましたので、異世界での……あなたにとっての本当の故郷の出来事までは存じ上げません」


 今度は、少しどころではない。

 もちろん、イースの偉大なる種族である彼にとっては当然のことなんだろうけれど……リリアンやマージョリーのような特殊な力、それも天性の才能でなければ成しえない過去視や未来視を、平然と行うなんて。


「何故、そこまでして僕に招待状を送りつけた? この館に呼び寄せたのは何故なんだ?」

「もちろん貴方が異界からの来訪者で、我々の物語を知っているからです。優秀な魔術師はほかにもいるが、この条件を満たせるのは他にいなかった。なのでリリアン嬢の体を使い、手紙を届けました」


 だから、僕の部屋に届いた手紙は二つあったのだ。


「きっと、リリアンはそのことをものすごく怒ってるんだろうな……で、この館に招待した理由は何?」

「マスター・ヒナガ。血と勇気の祭典の勝者であり、賢人オルドルを従えし者、そして女王紅華の薔薇騎士よ」


 その呼び方、久しぶりだ。

 ルニスが僕の経歴を知っているのは間違いない。


「秘色屋敷を破壊していただきたい。徹底的に、完膚なきまでに。貴方なら、このくだらない宴を完全に終わらせられる。そのためならいくらでも力になる」

「でも君は、秘色屋敷の執事で、しかもクトゥルフ神話の世界の住人じゃないか」

「どう生まれたかなど問題ではない。私が何者なのかは、私が決める」


 そう言い切ったとき、ルニスの瞳にはじめて感情らしきものが宿った。それはどこか必死で、切実で、声は言葉にならない激情を抑え込んでくぐもっていた。

 それとは別に、彼の表情が苦し気に歪み、ティーセットが滑り落ちて床の上で砕け散る。


「ルニス!」


 とっさに崩れ落ちる体を支える。

 長い指が首輪を外そうと、その白い首筋を引っ掻いている。首輪がひとりでに喉を締め上げているのだ。


「おい、執事。どこで何をしている!?」


 聞き覚えがある声が、階段を上がってくる。それが中二階になっていることにはじめて気が付いた。

 書棚の向こうに現れたのは、この禍々しい空気の下でも白銀に輝く存在だった。


「――――リリアン、ウィクトル商会が何故ここに」


 桃色の瞳が僕を見て、そのファンタジックな色合いとは裏腹に、思いっきり嫌そうに顰められる。僕も嫌だよ。

 もちろん、そこにいたのは星条コチョウ。

 今の姿よりも少し若く、結い上げた長い銀髪も、少し長い。

 アマレのようにほっそりとして儚く、百合白さんのように少女めいた容貌の、でもやっぱりコチョウなのだった。


「残念ながら、人違いです。見た目はソックリだけど」

「何を言っているかわからないが、その執事に用がある」


 お前は黙ってろ、それが当然だ、とでも言いたげな口調だ。


「おい執事、答えろ。晩餐は既に終わっているはずだ。何故、秘色屋敷の秘儀が顕現しない?」


 苦しんでいるルニスに、居丈高に訊ねる。


「――――答えられるワケないだろ、首が締まってるんだぞ」


 いい加減腹が立ってきた。でもプライドの高いコイツには、子犬が吠えてるようにしか見えないんだろう。

 ルニスの首についた錠前を見下ろすと、フンと鼻を鳴らし、後ろに目線をやる。


「おい、クガイ。お前の魔眼で解析しろ」


 階段の下から、クガイが現れる。その表情は難しく、何か別のことを考えこんでいるようでもあった。

 クガイはルニスの傍に片膝を着くと、じっと首輪を見つめる。

 その瞳が赤く輝く。


「――魔術というより、呪いの類だな」

「解除できる?」

「難しい。こういう呪いは術師が一方的にかけるものではなく、本人の感情や行動と紐づけて強化する」

「難しくてよくわからない」

「魔術をかけるとき、対象になる人間には抵抗する力がある。この抵抗を破るのは難しい。つまり誤解を避けずに言うなら、呪われることを本人が望んでいる、自家中毒のような状態ということだ」

「症状を和らげることはできないの」

「呪いをかけているのがここの神々なら、少しくらいは」


 クガイはルニスに黄色の瞳を向ける。

 次第に呼吸が穏やかになっていく。


「晩餐が既に終わっている、というのはどういう意味?」


 僕はその傍らでコチョウに訊ねる。

 まともな返事は期待していなかったが、コチョウは苛々しながらも


「――――こいつら館の住人は、魔術師たちを餌にしているのは知ってるな。しかし例年の晩餐にはメニューがあり、デザートまで行き着けば終わるはずなのだ」


 それが長く繰り返された行事で、多大な犠牲を払って行われていることを無視すれば、わりと希望のある発言だった。


「デザート……さっきルニスが運んでたやつか」


 そうなると、今、この館に残っている魔術師たちは《生き残り》ということだ。

 けれど、館を支配する魔性の気配は消えていない。

 何も終わったようには思えないのだった。

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