18



 僕とクガイは同時に薬を飲み干した。



 じきにゆるやかな眠気を感じ、意識を失い、目覚めた。

 そして今、少しだけ開けた廊下の扉の前に並んで、血がまき散らされ、耐えがたい悪臭を放つ柔らかな桃色の何かがこびりついた暗い空間を眺めている。

 そこは秘色屋敷の面影を残した別の場所だった。空気はよりいっそう冷たく、闇は濃く、廊下の奥には翼を生やした何ものかの影がひらりと舞う。

 あと大広間のほうから騒々しいわめき声が聞こえる。


 SAN値がピーンチ。


 僕はそっと扉を閉めた。


「帰りたい」

「そうかい? うちの実家はこんな感じだよ」


 クガイが憂鬱な情報を教えてくれる。僕と同じく扉を背にしたまま地べたに座っていた。そして、おもむろに煙草を咥えて火をつけた。


「お前が言っていたクトゥルフ神話ってやつ? あれは要するにオタクの引きこもりが仲間内で回覧してた気持ちの悪い創作小説ってことだよな」

「君って本当にカーストの下のほうの文化に理解がない、典型的な陽キャ男子だよね。あのね、彼の場合はただの妄想家じゃなく、世界観を多数の作家と共有したことで宇宙的恐怖という概念を神話というべき域に……いいやもう。サイコロを振ってから考えよう」


 いったいなんでこんなことになってるんだろう?


 いや、それはわかりきった話だ。

 僕は招待状を握りしめた。

 一年に一度だけ開かれる交霊会、田舎の屋敷、怪しげな執事に訳アリの招待客。これだけそれっぽい雰囲気をお膳立てされていて気づかないほうがアホだ。クトゥルフ関係の何かだと断定する狂人ではなかったことだけを心のよりどころにするしかない。

 封を切っていない封筒の中には、例のサインが描かれた紙きれがある。


 エルダーサイン……。


 それは怪奇小説家、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが生み出した超有名創作神話小説に登場する《サイン》、別名、《旧神の印》だ。

 残念ながら彼の著作や、それらを元にこの世に生み出された有名TRPGルールブックは高級品で地方都市の古本屋には並ばないため、僕の知識は《三分で誰でもわかるクトゥルフ辞典》的な出典の怪しいペーパーバック程度しかない。しかし、それでもマークを見た瞬間、これから何か嫌な目に遭いそうだと理解できる程度にはでかいコンテンツだ。

 ただし、この世界にとっては異世界に当たる世界の娯楽だけど。


「おそらく、天恵としてクトゥルフ神話にまつわる何かしらを手に入れた誰かが、その図像を招待状に記したんだ」

「それだけにしては、この状況はそいつの世界観にピッタリすぎじゃないか?」

「架空の小説だ、創作なんだよ」


 女王国には神がいる。決して人の前には姿を現さない、世界の裏側で奇跡を担保する神々が。けれどもラヴクラフトが創作した邪悪な神々は、あくまでも創作物でしかなく、その列には加わっていないはずだ。


「ずいぶん出来のいい創作だな」


 クガイは溜息を吐いて、ライターの炎をあちこちにかざした。

 客室の壁や扉は、波打つグラデーションが特徴的な、冷たい石――縞瑪瑙に変貌している。

 クガイが記したシンボルや、バリケードは見当たらない。

 廊下みたいに汚れてはいないが、室内は……ちょっとサイコロを転がしたくなりそうな光景が広がっていた。

 居間と寝室にいたるまで、無数の寝台が置かれている。家具の間を縫い、置けるだけの寝台が、部屋に押し込められているのだ。

 そしてその一台の上にかけられた敷き布が、まるでその下に誰かが眠っているかのように盛り上がっていた。胸のあたりが上下運動して、健やかな寝息を立てていることを知らせてくる。


「リリイちゃんを連れてきて正解だったな。ここで何が起きるのかを推定できるのはリリイちゃんだけだ」

「ここはたぶん……ドリームランド。選ばれた人間だけが行き来することのできる、夢の中だけに存在する土地だ。そして、そこには古い神々が隠れ住む縞瑪瑙の城がある。人間にはたどり着けない領域だけど」

「ああ、だから睡眠薬が必要ってわけね。誰かが物語を模した空間を作り出してるってわけだ。あるいは……邪悪な神々が実在しているかどっちかだ。神の実在を論じるよりも、一人の孤独な男を狂人に仕立てたほうが楽そうだけど」

「だから、創作じゃなかったら大変なんだよ。人間は彼らに蹂躙されるだけの存在なんだ。これからひどいことが次々に起きて、僕たちは徐々に正気を失っていくんだ」

「ひどいことって?」

「それは――、つまり――…………死体とか、流血とか、おぞましい化け物とか…………」


 具体的に考え始めると、妙に冷静になってしまう自分自身がいた。

 僕は過去に異常な存在に全身を食われ、意識がある状態で何度も繰り返し自身の死を体験したことがある。四トンダンプ並みにでかい竜に襲われたこともある。ドロドロに溶けた重金属の吐息で蒸発寸前だった。それから生きたゾンビに仕立て上げた人間をゴーレムと組み合わせて、鳥や巨大な人形にして襲ってくる魔女とも戦ったことがある。あと、一つの体に二つの精神が存在する稀有な状況にも陥った。

 ほかにも辛かったことや、精神的にヤバかったことを数え上げるとキリがない。

 それにくらべたら、神話生物がなんなんだ? 今更、タコやらイカやらが出て来たからって、これ以上精神が崩壊する余地があるか?

 むしろ、神話生物を目にすることで僕の正気度が失われるというのなら、それはまだ自分自身の実在や人間らしさを信じられる素敵な出来事な気がした。


「よく考えたら、恐れる必要は何もないな」


 僕は寝台の海に埋もれたテーブルの上に、何喰わぬ顔で置かれたベルを手にした。

 シーツの下で誰かがうめき声をあげたが、あまり怖いとは感じなかった。

 全く感じないというとウソになるのだが、恐怖:その他大勢って感じだ。

 ベルを鳴らすと同時に、廊下側の扉が開かれる。

 廊下に立っていたのは件の金髪執事だ。


「来たな、トマス・オルニー。ノーデンスはどこだ」


 ルニスはパッと顔を輝かせる。


「ああ~~やっぱりだ。若者は話がはやくて助かるなァ~~~~」


 理由不明だが、やけに嬉しそうだ。

 緑の瞳は爛々と輝いている。


「ていうか君はなんなの。実はナイアーラトテップだとか言い出したりする?」

「そうだったら苦労はしないし、こんな事態になってないのですよ。正体を説明してやりたいけど、自分から話すのは禁じられてましてね」


 ルニスはにこやかに笑ったまま、首輪を示した。

 よく見ると彼は血しぶきの散った顔で、両手も赤黒く汚れている。


「その恰好は……?」

「失礼、仕事中でして……お亡くなりになったお客様を処理していた最中だったのです。まあ、処理する直前まで生きてらしたんですけど。何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」

「酒」


 クガイが何の躊躇いもなく挙手する。

 やっぱり、段々と帰りたくなってきた。

 神話生物を目にしても正常の範囲でいられる自信はあるけど、僕の中身は慎重派の常識人だ。素面で狂える魔女や魔術師どもには敵いっこない。

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