12 二十二時十四分発、銀朱市中央駅行き深夜特急
海市中央駅。硝子張りの天井の向こうに夜がある。
真夜中でも明かりのあるビル街の暗闇の海を、巨大なバルーンがゆうゆうと空を泳いでいた。地上から見えるのはオレンジ色の腹の下の部分だ。ビルのどれかに登れば、巨大カボチャのギザギザの口やニンマリと笑う目が見えるだろう。
バルーンとビル影、その間の隙間を縫うように金色の紙吹雪が舞い散り、ホームにも少し降り込んできた。今頃通りは人でごった返しているだろう。
七日後は《魔女夜》の祭日だった。
ケルトの魔術師どもが言うところのサウィン祭。魔女と魔術師と化け物どもが歩き回る狂夜の祭りだ。
そのことを少し思いめぐらせながら若者は天井を見上げた。
金色の紙吹雪の一枚に気をとられたのだが、しかし、それは何かしら本人の意図しない予感めいたもの、宿命とか運命とよばれるものが糸を垂らして顎を引いたかのように見えた。
長めの黒髪の隙間から、緋色の瞳が覗く。
その瞳は、いきなり硝子天井が破裂するのを捉えた。
粉砕されたガラスが放射状に広がり、雨のように降ってくる。そして少ない乗客に悲鳴を上げさせた。
その落下地点にいながら、青年は眉ひとつひそめなかった。
あたかも《この世界には何一つ恐れるものはない》といった風情で、純銀製のシガレットケースを取り出し、安物の紙巻きたばこを咥えさえした。
大量のガラス片があたり一面に撒き散らされている間に火をつけて、天井をぶち破った落下物がホームにぶつかり跳ねるのを見た。
くゆらせた煙のむこうにある冷たい視線。《死んだだろう》という予測があったからだ。しかし、それは予想を超えて起き上がった。
それは青いドレスを着た女に見えた。ドレスはあちこちが焼け焦げてボロボロだ。ドレスだけじゃない。靴は片方が脱げ、手袋にも穴が空いていた。
他の誰にも、そう見えただろう。
だが青年にだけは、それは違うとわかっていた。
魔術師にとってものごとは単純に見えている形だけではない。
魔力が放射されるのを感じたのだ。
金色の光だった。月光のように鋭くて、それでいて複雑な波長。
青年はうずくまった女に近づく。
ほとんど同時に、ホームに列車が走りこんできた。
*
ドアを潜った瞬間、どこか宙へと放り出された感覚があった。
この感じ、覚えがある。
キヤラ五人姉妹の末妹、ガレガの罠にハマったときのアレだ。
「またか!」
思いっきり叫んだ瞬間、視界いっぱいに美しい摩天楼の風景が広がる。
わあ、絶景だ。夜景って、素敵だな。
ただし、視界の下へと広がっている、命と同じ値段の夜景だけど。
オレンジ色のカボチャの形をしたバルーンもフワフワしてて、何かのお祭りらしい。金色の紙吹雪が周囲に舞い散っていて、それが夜なお輝く摩天楼の明かりに照らされ、キラキラ反射してて美しい。星の海のようだ。あまりにも素晴らしくて泣きそうだ。
「あ~あれってもしかしてハロウィン? こっちの世界にもジャックオランタンなんてあったんだぁ~! なんて……言ってる場合かっ!」
一拍遅れて、自由落下運動が始まる。
もはや叫ぶ気にもならない。恐怖と混乱と、理性的なフリをしてこういう目にキッチリ遭わせてくるリリアンという存在への、怒りで。
でかいジャックオランタン型バルーンにぶつかって、また真っ逆さま。
この状況で魔術が使えるのかは謎だが、呪文を唱えたと思う。でなかったら、もの凄い衝撃とともにコンクリに叩きつけられた時点で死んでる。
でも死んでたほうが楽だったかもしれない。
大きく跳ねてまたぶつかる。
激しい痛みが、思考と視界を一瞬で焼き尽くす。
少しだけ、戦いの感覚が戻ってくる。
ここからは逃れられないんだぞ、というあの忘れ難い焦燥感が。
上下左右の別もなくすくらいの困惑が。
実感として手のひらに収まるあの堪らない感覚が。
「《
呼吸もままならず混乱し、うずくまる僕の耳元で、深くて落ち着いた声が聞こえる。大きな手のひらが背中を抱き上げる。
体がじんわりと温かい。魔法の、癒しの力だ。
誰かが応急処置してくれたみたいだ。
誰だ?
ここはどこだろう?
体に振動を感じ、気がついたら僕は別のところにいた。
クラクラする。視界が揺れて吐き気もする。
それらの諸症状が収まり、視界が揺れているような気がするのは足元から来る振動のせいだということに気がついた。
狭い個室……列車の中だ。固い椅子の上に寝かされていた。
「……どこ、ここ」
つぶやいた声に真面目に応対する声がした。
「二十二時十四分発、銀朱市中央駅行き。一等個室。付け焼刃の医療魔術だが、手順はあってるはずさ」
さっきの呪文と同じ声。
煙みたいな声だった。苦くて深く、そして捉えどころがない。
対面式の座席の向かいに、たばこを咥えた青年が腰かけて……は、いなかった。
彼もまた、座席に寝そべって長い脚を窓枠に起き、視線だけをこちらに寄越していた。
僕はその姿に、ぼうっと見入った。
わざと長く伸ばした前髪と眼鏡との間から、緋色の瞳が僕を見てる。
真っ赤な、血の色だ。
ただの瞳じゃない。一目で惹きつけられる。目が離せなくなる。
魔性の瞳だった。
「尖晶……クガイ……?」
クガイは皮肉っぽく笑い、座席に身を起こした。
「俺のことを知ってるとは、光栄だ。まあ、たぶん、いい噂じゃないんだろうけど」
緋色の瞳は思いのほか人懐っこく見えたけど、不意に感情を消してしまう。
どうやらリリアンの術は成功したのだ。ここにいるのは、過去のクガイ。
僕は目の前の《彼》の様子をそっとうかがう。
さすがに女王の伴侶に選ばれるだけあって、顔立ちはモデル並に整ってる。でもそれはコチョウのような華やかさとは無縁だった。
コチョウが女性的で光の華やかさだとすると、均整がとれた体つきのクガイはあくまでも男性的で、しかも夜の住人だった。
普段は光の影にじっと潜んでいて、目立たない。自ら輝くのではなく、だれかが気がついて、光を当てたときにだけ思いがけない美しさが現れるような存在。
魔人としてのクガイよりずっと若くて、正直に言うと面影があまりない。けど、学生ってわけでもなさそうだ。
もしかすると……まだ、魔人にはなっていない《写し》のほうなのかも。
「瀕死の君を連れ込んだのは俺だよ。あのままだと野次馬がわんさと集まってくると思ってさ。ま、勇気をふりしぼった割には、まぬけな結末だと思うかもしれないけれど……。どうだい? せっかく拾った命だと思って、相談事とかしてみてもいいかもしれないんじゃないかなぁ……」
僕はしばらく、自分が何を言われたのかを考えていた。
「あ、いや、自殺とかじゃないです」
一瞬、沈黙が下りる。
クガイはぽかんとした顔で僕をじっと見つめる。
どちらかというと切れ長で、理知的でかっこいい感じの瞳が、じんわりと丸みを帯びる。
それで、不意に身を捩って笑いはじめた。
「…………悪い! 勘違いだった!」
唾が顔にかかって気分が悪い。
しかし、笑い顔が思ったよりも人懐こくて、咎められない。
「だれが見てもそう言うと思います……」
どう考えても、空から人が降ってくる理由は事故か自殺だ。
勘違いも仕方がない。自殺のほうが、過去に戻る術を使って空中に投げだされるケースより多いはずだ。
「悪い悪い、てっきり。着地の瞬間に、魔術が発動したのが見えたんだ。一瞬だったけど。術者の意志から離れた術式だったからさ、死にたくても死にきれなかったんだろうって……あ、これ。君の持ち物だろうから、返す」
彼は笑いながら、傍らから茶色のトランクを持ち上げ、こちらに寄越した。
どこかで見たことがある……。いや、これは、間違いない。
リリアンが携えていたカバンだ。
リリアンの姿はないが、カバンだけがある。いやな予感。
「……あの、変なこと聞くけど、僕はどんなふうに見えてますか。その、服装とか」
クガイは笑うのをやめ、まじまじとこっちを見つめてきた。
「青いドレスを着た美女に見える」
最悪だ。
今の僕は、僕じゃない。ヒナガツバキではなくリリアンなのだ。
リリアンの目で過去を見ている……。外側の器はリリアン、意識は僕。
それが彼女の《過去の覗き見》の魔術なんだろう。
「――――けど、中身は違うな。青いマントを羽織ってる……それは学院の教官服だ。俺も卒業して久しいが、しかしお前のように若い教官は見たことない。なのにその校内戦勝者に与えられる栄光の刺繍は偽物じゃない。だから妙だなぁ、と思ってるよ」
僕は緊張で体を強張らせた。
クガイは何とも言えない瞳でこっちを見てた。
感情の読めない瞳だ。冷たいとも思わないが、ほんの一瞬で何を考えているのかが全くわからなくなった。
コチョウが華やかさの裏側に冷酷さを潜ませていたように、クガイも心に影を持っている気がした。それも、誰にも触れさせない影だ。ミステリアスさと言い換えてもいいかもしれない。
「なんでそのことを……?」
リリアンの体で過去を覗き見る魔術なら、僕の姿がリリアンになっていてもおかしくない。けれど、中身がだれかなんてクガイにわかるはずはない。
「尖晶クガイの魔眼の能力は《模倣》のはずだ」
「そこまでわかっているなら、簡単」
クガイはウィンクの要領で片目をぱちりと閉じ、再び開けた。
眼窩には黄色の魔眼が収まっていた。
マツヨイの、彼の妹の魔眼だ。魔を払う魔眼。
「便利な魔術を使う術師がいたら、能力をコピーしてる。いろいろと便利だから。さっそく役に立ったな」
簡単な謎解きだけど、《最強》の魔眼の使い手にふさわしいやり方にはっとする。
さすが、女王の騎士。
やっぱり目の前の若者は尖晶クガイで間違いない。
僕は生唾を飲み込んだ。術が成功し、過去のクガイに接触できた。ここで僕は、探らなければならない。魔人の過去を……。奴の望みを。
「僕からも貴方のことを聞いてもいいですか」
「どうぞ」
促され、僕は疑問を口にする。
「…………なんで、毛布をかぶってるんですか」
そういう場合じゃないとは知っているのに、問わずにはいられなかった。
尖晶クガイは、毛布をかぶっていた。それも、安っぽくて薄っぺらな、擦り切れた毛布だ。
端的に言うと、薄汚い毛布を、まるで上着みたいに体に巻き付けている。あと、心なしか顔が赤く、額には冷えピタ的なものを貼っていた。
「うん、気になるかい? 気になるだろうな、俺でも気になる」
クガイはたばこを咥えたまま、苦み走った遠い目をした。
はるか千里を見ています、という目つきだが、見てるのはただの天井だ。
もしも僕がかわいい女の子だったら、「男の人には女にはわからない世界があるのよね」とか思ったかもしれないが、騙されたりはしない。
「毛布かぶってるのに、かっこつけても無駄だと思うんだけど」
「――――そんなに、俺のことが気になるのかな? お嬢さん」
ふう、と煙を吐く。
口調は甘く、ささやきかけるよう。意外とたくましい体つきをアピールするポージングで長い前髪をかきあげ、魅力のひとつでもある瞳を見せつけてくる……。待て。こいつ、自分の顔面偏差値わかってやってるだろ。
「やめてください、中身は男子です」
「ファンは多いほうがいいだろ」と、クガイはニヤリとする。「王宮でも学院でも性的魅力は武器だぜ。篭絡は魔女の特技だが、魔術師だって魔女の亜種みたいなもんだ」
確信犯かよ。コチョウとは違う意味で食えないやつだ。
「まあ確かにそこでかっこつけても仕方がないから白状すると……ありていに言うと、貧乏だな」
「貧乏」
「お前も魔術師なら、噂に名高い尖晶家の窮乏具合は知ってるだろ。外套を売り払ったんだ。あと、実は熱が三十八度五分ある。風邪だ」
「まぁまぁの熱ですね」
「というわけで、俺はもう寝るよ。銀朱市に到着したら、教えてくれ。その間に消えてくれても、なんにも問題ないぜ。好きにしな」
そう言って、クガイは毛布を頭からかぶった。
少しだけ鼻を啜る音がした。
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