30 満たされざる者


「存在を写したときに角を所持していたのが尖晶クガイで、そして角とクガイが何らかの事由により切り離せない状態にあったのなら、鏡像のクガイと一緒に角が複製される。長年、角の効果に触れていれば汚染は深刻なものになりますね」


 収蔵庫管理人の口から新しい事実が語られる。


「リリアン、君は顧客の味方ではないのか」

「貴方は重大な契約違反を二度もおかし、その上事態の収拾を他人の手に委ねたのですよ。すなわち魔人と化して手に負えなくなったクガイの鏡像を、再び鏡に封じたのはこの自分です」


 コチョウのしたことは恐ろしいことだ。目の前の美しいひとりの男が抱いた野心が、巡り巡ってマツヨイを狂わせ、アマレを消したのだ。

 ひとりの人間の、ひとつの未来を。

 テーブルに着く前に応急処置を施してもらった手の傷がひどく疼いた。


「くだらない。アマレもアマレだ。どだい無理な話だったのだ」


 コチョウは吐き捨てるように言う。


「マツヨイの魔眼の能力は《破魔》だ。どこまでも甘い計画に縋りつくしかないとは。出来損ないに相応しい愚かな結末だ」


 僕は百合白に訊ねる。


「破魔、って?」

「みずからにかけられた魔術を無効化し、打ち破る力のことです」

「それじゃ、アマレの魔眼の力は……」

「打ち消されてしまうでしょう。長くは保たなかったはずです」


 そうか。そういえば、マツヨイの瞳はときどき黄色にもどっていた。

 あれは……彼女がみずからの力でアマレの支配と洗脳から逃れていたからだったんだ。

 すると、アマレが自分の能力でマツヨイの瞳を別の種類のものに変えたのは、魔人に抵抗するためだけじゃない。破魔の力を取り除き、《理想の母親》を演じさせるという明確な理由があったのだ。

 アマレは必死で繋ぎ止めていたのだろう。

 マツヨイを。

 理想の母を。

 何度も何度も何度も何度も拒否されながら、必死に縋りついていたんだ。

 そう気がついたとき、僕は何とも言えないような曖昧な感情を感じた。


 これは……きっと、可哀想、だ。


 そしてその感情と同じものを、目の前にいる野心家にも抱いている。

 

「そこまでして、貴方が欲しかったものが……理解できません」


 自分の息子を、妻を、それほどみじめな境遇に追い込んでまで、この男が欲しがったものとは何なのだろう? 人をひとり一瞬で消し去るに値する何かが、この煌びやかな空間のどこかにあるのか?


 問いに、コチョウは真正面から答える。


「貴様にはわかるまい。持たざる者の心の内など……」

「持たざる……者……?」


 言葉の意味がわからない。星条コチョウが持たざる者だと?

 他人を蹴落としてまで、金も、名誉もすべて手にした男がか?


「学院の最年少教官などと誉めそやされている貴様には、天賦の才能を与えられた者たちを指を咥えて見ていることしかできない私の心の内など想像もできまい」

 

 それは地の底から響くような、憎悪も怒りをも超えた薄暗い感情の塊を煮詰めた声音だった。

 コチョウはなおも続ける。


「何の努力もなく、研鑽もなく、全てを与えられた《魔術の大天才》たちの影で、この俺にあるのはくだらない家柄と美貌だけだった。たかが女の関心ひとつ、たったひとつの愛情さえ買えないならば、ただ齢をとって老いさらばえ無能の凡人と呼ばれて過ごし、死の恐怖に打ち震える苦悩の日々が待っているのだ。その恐怖を他人に理解なぞできようはずがない……!」


 唖然とした。

 こいつが何を言っているのか、全く理解ができない。

 異常だ。生まれながら、ありあまる富に囲まれて暮らし、それなのにまるで自分が《不幸な人間》かのように振る舞う。

 金が無いからこそ苦しんでいる人間は山のようにいるのに。

 たかだか魔術の才能がないだけで、無能の凡人だと?

 コチョウには、確かに人が羨むような才能はなかったかもしれない。それでも魔術を使っていた。一度は僕をやり込めたじゃないか。


「先生、あの人は、《満たされない人》なのです」


 百合白さんが言う。

 父とは呼ばずに、《あの人》と冷たい口調で切り捨てながら。


「彼は、ありあまる富がありながら。何もかもを手にしていながら、それに心が安らぎ、満足を覚えることがなかった人なの」


 そして自分に《無いもの》ばかりを見つめていた……。

 彼にとっては、それが《魔術の才能》だった。


 クガイの魔眼や、ミズメが持っていただろう、菫青家の連綿と受け継がれる魔術師の血。


 それを、ずっと、欲しがっていた。

 そして自分には《無いものがある》という理不尽な事実を大人になってからも受け入れられなかった。

 アマレが理想の母親を求めたのと、皮肉にも構造は同じなのだ。

 決して手に入らないものを求め続け、自分は不幸な人間だと思い込む。

 そして他人の人生まで台無しにしたんだ。


 なんて、愚かな。


 気がつくと、視線がテーブルに置かれた銀色のフォークに注がれていた。


 きっと今、僕は魔法を使えるだろう。


 きっと、この男を殺すことができるだろう。

 一瞬で……。

 ただ、激情のままに。

 邪悪な獣のように振る舞うことができる確信がある。

 頭の奥の痺れが弾けて、白い熱を感じる。

 心の底からそうしたいと願っている。

 その願いに、オルドルは呼応するだろう。


 けれど――。


《戦わなければ何も得られない》


 はげしい感情に揺さぶられ、過去の記憶が意識の表層に誰かの声を連れてくる。


《だが、私はいつも戦いでは救われないもののために剣を振るっている気がする》


 僕ではない、誰かの心をそばに感じる。

 いつも救われないもののために。

 愚かな者たちのために戦っている気高い心。

 その声を頼りに、必死に平静を保ち続けていた。



*



 ミクリにアマレのことを報告しに行けたのは結局、全てのごたごたが終わって何日か経った頃になった。

 怠惰な学生たちは相変わらずファストフード店の目立たないテラス席で、怠惰な午後を浪費していた。

 僕は淡々とその輪に混ざった。

 そしてアマレは学校に復帰しないこと、説得にも失敗したこと、授業料は支払いが済んでいるから籍は残り続けること、八年は在籍できるが彼にその気は無さそうだ、というような話を何気ない調子で語った。

 彼が魔眼によって魔術的に消失したなんて話を聞きたがる者は、ここにはいない。誰も知らなくていい。

 誰も、そのことで傷つかなくてもいい話題だ。

 ヒヨスたち三人は、「ほら、やっぱりな」という顔で、すぐにその件に興味を無くしてしまった。

 だがミクリだけは少し悲し気な顔で「そうですか」と返事をする。

 彼女は携帯端末に保存された写真を見せてくれた。

 それは放課後の、どこかの教室で。

 窓からは木漏れ日なんかが差していて。

 そこには。

 そこには……。

 自分自身にカメラのレンズを向けているミクリと、キャンバスに向かってふてくされた横顔を見せている少年……アマレの姿があった。


「どうして、写真を?」

「さあ……みんなが言う通り、そんなに仲がいいというわけじゃなかったのに、どうしてでしょう……。ただこのときは、こんなふうに形を残しておかないと、この人はどこか遠くに行ってしまいそうだな、と思ったんです」


 ミクリは微笑んでみせた。それは、どこか無理をしているような、角度によっては困り顔にみえる表情だった。

 そのかたわらで僕は気を抜くと氾濫しそうになる感情を堪えるのに必死だった。

 写真の中に閉じ込められたアマレは百合白やコチョウと同じ白銀の髪と、紫に桃色が滲んだ瞳をして、ぶっきらぼうな表情を浮かべている。

 僕が見たときと容姿が違う。何もかもがちぐはぐだ。たぶん自分の魔眼の力で、容姿を作り変えてしまったのだ。

 それとも変わりたかったのかもしれない。

 コチョウとはちがう何者かに。


 小さな画面の中には、失われてしまった全てがある。

 もう二度と戻って来ない人格の、戻って来ない日々が、過去が、未来が。

 願いが……。


 星条コチョウのもとを去るとき、最後に僕は百合白さんに訊ねた。

 何故コチョウと対話してくれたのか。まるで僕に味方するように振る舞ったのか、その理由を。

 彼女は頷いて言った。


「お兄様が家を出られるとき、尖晶屋敷跡を訪ねました。あの方の望んだ暮らしは長くは続かないだろうとも思いましたけれど……あなたがお父様のところに来て、そしてお兄様が《消えた》と耳にしたとき」


 また会いたかったな、と思ったの。

 そう、百合白さんは続けた。


「本当ですよ。ただそれだけなのです。父はあれだけのことをしておいて、お兄様を見殺しにして……そして、ただ自分だけは安全な場所で、過去の過ちを無かったことにするなんて、ずるいでしょう」


 百合白さんは、星明りの下で苦りきった表情をしていた。

 彼女の言葉は自分自身のことでもある。

 星条百合白は可憐で愛らしい矛盾の塊なのだ。

 元王姫としての百合白は、かつてひとりの人間に対する愛情ゆえに何十万という人命を犠牲にした。女王国に殺戮の嵐を吹かせた。

 それなのにアマレという孤独な人格に肉親としての情を抱いて、その矛盾さえ棚に上げてしまって僕の目の前にいるのだ。


「だから味方したのか?」

「そういうことです」


 そうするだけの何かがアマレにはあったんだ。

 彼自身は最後までまるで気づかなかったし、そのことに価値なんて見いだせなかっただろうけど、彼には《消え去る》こと以外の選択肢がまだ、あったはずだ。


 僕は写真から目を逸らした。

 そして、往来を見渡した。

 雑踏を。雑踏を行く人々を。


 ここは、ファストフード店だ。

 ここは、繁華街のなか。

 ここは、コンクリートの床の上。


 そして人が望みうるかぎりすべてが存在する、偉大な魔法の王国だ。


 ここには何もかもがある。富も、愛情も。

 もしかしたら、いくども神話の数々に描かれた楽園そのものかもしれない。


 けれど人々はそのことに気がつかない。

 満たされず、傍目には滑稽にも見える戦いを繰り返す。

 血を流し、涙を飲み込む。


 ここは楽園と地獄の重なり合った場所。

 人間が楽園に見出した、地獄のような場所だ。






 第二話『星と月とが迷い出て』――――了


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