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 イチゲとヒギリはコチョウの専属医から治療を受けることになった。

 そして僕とリリアンが広い居室に通された。

 海市の夜景が三百六十度見渡せる厭味ったらしい部屋で、真ん中には白いテーブルが用意されている。

 テーブルのむこうにいる正装した男は、もちろん星条コチョウだ。

 僕を見ると露骨に舌打ちをした。


 テーブルの上には白い皿に茶色いチョコレート色をした焼き菓子が置いてあり、給仕がどこからともなく現れて暖かい飲み物を置き、再び映像を投影した扉を通って去った。

 リリアンは皿の上のものを変わったものでも見るみたいにじっと観察している。


「我が愛娘が《気紛れに手作りのケーキを焼いたので食べてください》などと珍妙なことを言い出すから何事かと思えば、これだ」

「ウソをつくときは一割の真実を混ぜるとよい、と聞いたことがあります。なので、このケーキを……手ずから焼いた、というのは本当のことです」


 父親の嫌味を、その意味がわかっているのかいないのか、冗談とも本気ともつかないコトバでかわしながら百合白はテーブルに頬杖を突く。

 今日の百合白は白を基調としたワンピースをまとい、一段と可愛らしい。


「ね、先生」


 何気なく首を傾げる姿を見ていると、目眩がしそうだ。いろんな意味で。


「僭越ながら、少しばかり時間稼ぎをさせて頂きました。先生のために、ですよ。その間にリリアン様に貴方を迎えに行っていただいたのです。そうしないと、お父様はまた都合よく国外に逃亡して、何もかも煙に撒いてしまったでしょうから」

「都合よく大迷惑姫から逃げ出したのは君のほうだろう」

「あら、うふふ。あの騒がしい方たちを迎え撃つのはあくまでも紅華の仕事です。それとお兄様のことについては、まったく筋がちがうというもの。先生には事の顛末を聞く権利があります……」


 コチョウは眉間に深い皺を刻む。


「そのために、なぜ君が労力を使う必要があるのだ」


 コチョウの疑問は僕が抱く疑問と全く同じかたちをしている。

 今回の一連の出来事に、百合白は全くといっていいほど《噛んで》いない。


「好奇心です。ただの……ここにいたら、面白そうな話が聞けるんじゃないかな、という」


 それは意外過ぎる回答だった。


「お父様のところにリリアン様がいらっしゃったと、人づてにそのことを聞きました。鏡のことはお兄様から聞いていましたから、きっと、そのことだわ……兄と、そして鏡の所有権を持つ父のあいだに、何か起きたのだと思ったの」


 一を知って十を知るどころではない。その言葉が本当なら、意味のわからないすさまじい勘と行動力だけで彼女はここにいることになる。


「まあいい」と、コチョウはちっとも良さそうには思えない声で告げる。「こちらも、マスター・ヒナガに訊ねたいことがある」


 そしてテーブルの真ん中に一冊のノートが置かれる。

 そのノート、どこかで見た覚えがある。本当にうっすらとした記憶だが。


「もしかして……それはミクリがアマレのために持って来たやつじゃないか……?」


 白い指先が頁の中ほどを開く。

 開いた頁は切り取られ、魔法陣が焼きついていた。


「この魔法陣は何だ、マスター・ヒナガ」

「何……? どういうこと?」

「見覚えがないとは言わせないぞ」


 強い口調で詰問されるが、全く覚えがないので何とも言えない。


「この魔法陣に込められた魔術がコチョウ氏を攻撃したのです。そしてそれが、本物の《ファウストの鏡》を損耗させることにもつながりました。その場に私も同席しましたので、確かです」


 リリアンの捕捉説明に、コチョウはさらに重ねて詰問してくる。


「魔術が込められていたのはノートだけではない。こちらの呪具にもだ」


 見せつけられたのはコチョウが手首に巻いた腕輪だ。

 髪の毛を結って編み上げたもの。僕と初めて会ったとき、コチョウはそれを使って魔術を使ってみせた。


「この呪具に触れられたのは、状況として貴様しかいない」


 僕が?

 降って湧いた冤罪に戸惑いしかない。


「僕じゃない。何のことだかわからない」

「とぼけるのは止めたまえ。この女王国のどこに、マスター・ヒナガ……君以外に銀を操る魔術が使えるのだ」


 翡翠女王国では魔力を含んだ天然鉱石を用いた魔術が一般的に使われている。

 しかし金と銀だけは魔力を取り出すことができないとされている。

 だが、青海の魔術師であるオルドルにはそれが可能なのだ。

 どういうことだ。謎の詰み方をしているぞ、僕。

 混乱して二の句を継げないでいると、コチョウは愉快そうな表情になる。


「沈黙は肯定という意味かね」


 僕のことを容易い獲物だと判断したのだろう。

 彼が優位を確信したそのとき、鋭い音が室内に響いた。

 がしゃん、とか、そういう音。

 音の発生源は、百合白だ。

 彼女がテーブルの、水が入っていたグラスを取り、おもむろに床にぶつけたのだった。


「手が滑ってしまって。まあ……たいへん」と彼女は微笑みながら言う。「それで――鏡の損耗、というのは、いったい何のことでしょうか?」


 音に驚いたことでコチョウは一瞬気を取られ、そして、百合白の質問は受け入れられた。

 絶対に偶然ではない助け船だった。本当に、今夜の百合白さんは僕の味方をするつもりのようだ。

 リリアンは布に包まれた《鏡》を取り出して全員の目に晒した。

 鏡面が一部、欠けた手鏡だ。


「あら、まあ。欠けた破片はどこに?」

「まだ見つかっていません」


 コチョウはリリアンを睨みつけるが三大魔女は平然としている。

 こっちは、第三勢力というか、誰の味方でもないという風だ。


「《ファウストの鏡》は魔術的にも歴史的にも貴重な品。鏡の破片はどこに行ってしまったのかしら……」


 そう言って、百合白の瞳が僕を見つめた。

 割れた鏡の欠片……鏡が破壊されたとき、小人たちは解放される。そう話していたリリアンの言を思い出す。


「あ……もしかして、魔人?」

「どうなさいました? ヒナガ先生」

「尖晶屋敷跡で、僕らは真っ黒な……何か気持ち悪いものに覆われた、赤眼の男に襲われたんだ」


 僕は屋敷で起きたことを語った。

 魔人の襲撃を受けて、そして魔人がアマレの作り出した《小人》……マツヨイの鏡像を破壊したこと。

 それがアマレ消失の引き金になったことを、だ。


「魔人が来ること、そしてその魔人がマツヨイを殺そうとすることを、アマレは知っていたみたいだった」

「そして魔人の正体は……それは、マツヨイ様のお兄様。《尖晶クガイ》……違いまして? ここからは少しだけ推測を述べてもよろしいかしら」


 百合白の発言に驚いたのは僕だけじゃない。

 コチョウもどこか青白い顔をしている。

 百合白は、今回のことに少しも関わっていない。なのになぜ、それがクガイであることに気がついたのだろう。


「最初に申し上げておきますが、お父様の若い頃の交友関係はすでに調べ上げています。お父様が乙女お母様の騎士であったことも、そして騎士に選ばれた三人のうちの二人が消えたことも。水を操る希代の大天才、菫青ミズメと、尖晶家最強の《魔眼》……いかなる魔術をもうつしとり、自分のものにしてしまう《模倣》の力を持つ尖晶クガイ……」


 普通、父親の交友関係を《調べ》たりするだろうか。もちろん、彼女が普通ならあり得ない。

 場の流れを仕切っているのは、今やこの小さな体の少女だ。

 誰もが固唾をのんで、その言葉を待つしかない。


「いずれも乙女様の騎士を務めるのに十分な才覚です。竜鱗騎士に比べても遜色ないでしょう。このふたりが突然行方不明になるなんておかしいな、と前々から思っていました。お父様は確かに非凡な魔術師ではありましたが、二人のような傑出した《天才》ではない……彼らは、おそらく、お父様の謀略によって姿を消したにちがいありません」


 コチョウが百合白に向けている視線は、親子の域を超えたものだった。

 はじめ、ふたりの間にはアマレとは感じられなかった親密さがあった。

 でもそれも嘘だったかのように激しい憎悪を感じた。


「ですが、二人が同時に消えたならば、流石に疑いの矛先はお父様を向く。そんなことはなさいませんね。かといって、ひとりずつ手にかけたのではもう片方に警戒されてしまいます。そこでお父様は《ファウストの鏡》を使ったのだわ。鏡で二人の《鏡像》を作り上げて、アリバイを確保して誰からも疑いがかからないタイミングで再び二人を消す……」


 そして……。

 本物の二人を女王の夫という役目から外した。

 世間の目は《鏡像》の二人を見て、なんの疑問ももたなかった。まさか偽物が大手をふって歩いているだなんて、誰も思わなかったに違いないのだ。


「貴族は不老の魔術を使うことが多く、老いないことなどは誰にも不思議には思われませんし、そんな大胆で杜撰な手をお父様が使ったとはついぞ誰も考えなかったことでしょう。どうです?」


 確かにコチョウの目には怒りが滲んでいた。

 しかし、それで簡単に取り乱すような人格でもない。

 彼はすぐに穏やかさを取り戻し、鷹揚に椅子の背に身体を預け、娘を見据えている。


「名推理だ。証拠は足りないがな」

「いいえ、この魔法陣を先に出してしまった時点で、お父様の負けです。魔人の正体は尖晶クガイなのです。そうですね、マスター・ヒナガ」


 桃色の瞳のまなざしを受けて、僕は頷く。


「あの赤い双眸には《模倣》の魔術の力があった。何よりマツヨイが魔人を兄だと呼んでる。それに、あれがクガイだったからこそ……魔人はマツヨイを殺したんだと思う」


 魔人はなにも語らなかった。だから、その行動が何のためだったかは推測しかできない。でも、殺すことでマツヨイを自由にしたんだとは考えられないだろうか。

 マツヨイはコチョウへの恨みを抱いていた。

 百合白と同じようにコチョウがクガイを殺したのだと思い込んでいた。

 だからこそ自分自身の息子であるアマレを愛することなく、ずっとその憎しみを抱き続けていた。その、マツヨイの鏡像。

 魔人は生きている限りずっとアマレを苦しめ続けるホムンクルスを、壊すことで自由にしたんだ……。


「ただ、二人のホムンクルスが本物になりかわるだけでは、お父様がただひとりの勝利者としてこの国に君臨することはできませんから、再び二人にはアリバイのある完璧なタイミングで消えてもらうほかないでしょう。しかし、こういう大胆かつ雑な策略が長くもつとは思えません」

「《鏡像》のホムンクルスは、左右反転するんだ。魔人とマツヨイの内臓は全て左右を入れ替えたようになっていた。先天性の異常体質だとしても二人同時は珍しい」

「そもそも女王の騎士に選ばれた時点で、そういった問題については調べられているでしょうね」

「それにクガイを覆っていたあの闇のようなもの……あれは何?」


 魔人はとてもではないが、人とは呼べないような見た目に変貌していた。

 リリアンが答えて言う。


「《黒い一角獣の角》の汚染と思われます。コチョウ殿、貴方が正しい持ち主から盗み出した、角ですよ」


 僕の頭の中で、全ての物語が繋がる。

 リリアンが言うことが正しいならば、かつてコチョウとクガイは魔術学院の教官から角を盗み出した。

 そしてそれを使って《異世界の扉を開けた》。

 そして、戻って来た。


 でも本当は戻って来なかったんじゃないだろうか。


 恐ろしい想像に頭の奥が痺れ、体が震えそうになる。

 コチョウは角を使って《扉》を開けて、クガイとミズメを異世界に放り出した。

 そしてファウストの鏡を使って二人の姿をうつし取り、何食わぬ顔で翡翠女王国に戻って来たんだ。


「お父様……あなたは、成功と引き換えに友人を差し出したのです。家名のため、事業の成功のため、そして人生に勝利をもたらすため、それだけのためにです」


 百合白さんはテーブルの上の銀色のフォークを手にとり、手作りのケーキとやらに差し込んだ。割れた部分から真っ赤なベリーのソースが零れだす。

 それがあたかも流れ出した血のように思え、吐き気が湧き起った。


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