27
キャシー捜査官は人間よりはるかに強靱で、竜鱗騎士みたいに負傷を自然に治癒させることができた。
だがマツヨイは閉じた瞳を開くことはなかった。
刺し貫かれた傷は黒ずみ、ひび割れのように広がっていく。
それが全身に達したとき、彼女の体は、鏡が砕ける音を立てて崩れた。
崩れたのだ。
ぼろぼろの、黒い破片になって。
アマレは《ファウストの鏡》を懐から出し、床に叩きつける。
激しい音響を立てて、それは壊れてしまった。
「ずっと、ずっとわかっていたことだった。母さんは僕を愛さない。絶対に……何があっても……コチョウの息子であるこの僕を愛したりなんかしない……」
何よりも残酷なことが、この一瞬で起きた。
誰かが手を伸ばさなければ、本当に大事なことが指先が滑り落ちてしまうだろう。
でも、どんな声をかければいい?
魔法でも救えないのに。
「聞いて。君を受け入れてくれる人たちが必ずいる。それは君の母親ではないけど、君がほしがってたものに手が届く瞬間が必ずあるって、僕はそう信じてるよ」
だから、差し出した手を、救おうとする手を拒まないでほしい。
彼は僕を見た。その、悩ましげな紫の瞳で。
口元は歪んでいる。嘲笑に似ている。
「やはり変な人だ。こうなることが、貴方の望みだったくせに」
「……僕の? 僕の望み? 何の話だ」
アマレが抱いていた《歪み》は、確かに受け入れられない。
でも、僕は善悪を決める立場にも、裁く立場にも立っていない。
彼の境遇を想えば、無理もないことだったと理解している。
「もしかして気がついていないのかな。それとも……彼女は、このことを知らせていないのかな。そうだとしたら間抜けすぎるね」
「待って、だから、それはどういう意味なの」
「マージョリー・マガツ――すべては、彼女の《願い通り》だってこと。全天の魔女が描いたシナリオ……その筋書きに星条アマレは必要ない」
「どうしてここで、君が、その名前を出す……!?」
さあね、とアマレは苦痛を刻んだ表情で告げた。
あくまでも、彼は現実から距離を置き、そこで起きていることを直視しないつもりなのだ。彼を徹底的に傷つけ、何もかもを奪い去った現実を……。
偽物の母親さえも自分を拒み、この世界に彼を繋ぎ止めるものは完全になくなってしまった。
「この先に、星条アマレは必要ない。さよなら、マスター・ヒナガ。僕はあなたが言うようには生きられない」
滑り落ちる。
どんなにしっかりと閉じていても、水を掌で掬いきれないように、こぼれ落ちていってしまう。アマレを、繋ぎ止めることが、僕にはできない。
そして。
そして、それは一瞬だった。
「やめるんだ、アマレ! 《昔々、ここは偉大な魔法の国!》」
強制発動したオルドルの魔術によって、茨が鞭のようにしなり、壁面の鏡を粉砕する。
しかし、飛び散った鏡の破片がアマレを捉えた瞬間。
鏡のなかのアマレの姿が、かき消える。
そして、現実にも同じことが起きた。
消えた。
音もなく、気配もさせず、何も残さないで。
僕が伸ばした手は、何もない空間を引っかいただけで、オルドルに食われて血を流した。
「なんで……!」
『アマレは消失した。あくまでも《消失》だ。鏡の中から自分を消し去り、現実の星条アマレも消えたんだ。厳密な《死》ではないが……。この現実のどこにも存在もしていなイものになった』
「そうじゃない、そうじゃないんだ……!」
オルドルの解説がなくても、少年が何を選んだのかは明らかだった。
人が……。
人が一番孤独な夜、眠りにつく前に願うことは。
どこか遠いところに行きたい。
何ひとつ残さずに消えてしまいたい、だ……。
アマレは願いを叶えた。一瞬で。
そのことを信じたくなかっただけなんだ。
事態はまだ続いていた。
「マスター・ヒナガ……!」
イチゲが恐れを含んだ声音で、呼ぶ。
首を飛ばされた魔人は、天井からの明かりの下、まだ生きていた。
地面に着いた膝を立てて起き上がり転がった首を持ち上げた。
黒々とした髪を掴み、何もない首のあたりにゆっくりとおろしていく。
異常な事態を前にヒギリは身動きできないでいる。
どうしたらいいか、その判断を他人にゆだねている風でもある。
でも僕も、どうしたらいいかなんて、全くわからない。
ただその困惑はイチゲたちとは少しだけ違っていた。
魔人の切り飛ばされた頭には、闇がかかっていなかった。
腕を落とされたとき、その部分が人のものに戻ったのと同じ理屈だ。
だから、そこには、尖晶クガイの頭があるはずだ。
マツヨイの兄が。
コチョウと同じ、先代翡翠女王の騎士の、その顔が。
「…………………父さん」
その一言が、他ならない、僕の……自分自身の口から漏れた言葉だとは、とてもではないが信じられなかった。
ほんの一瞬見ただけだ。
他人の空似かもしれない。
何かの間違いなのかも。
でも、心臓の鼓動が早鐘のように打ち、止まない。
魔人はその間に、天上に空いた穴に向かって跳躍する。
困惑する僕のことも、消えてしまったアマレのことも気にもかけず。
僕らを置き去りにして、行ってしまった。
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