26
アマレが……。
こいつが、あの魔法の鏡で《人間》を生み出しているんだって聞いたとき。
人を人とも思わないやり口に吐き気を覚え、狂った思考を心の底から軽蔑した。
こいつが表の人間関係すべて捨てて、ここに引きこもって、出てこないならそのほうがいいって、それくらいのことを考えてた。
でも今は違う。
「お前が腹の中にいる間、どんなに気持ちが悪かったか……! あんたなんて嫌いよ、お兄様を騙して殺した男の息子だもの!!」
「やめてよ、母さん……」
「あたしはお前の母親なんかじゃない。お前を愛したことなんて一度もない!」
「嘘、嘘だ。母さんしかいないのに……僕には母さんしかいないのに!」
アマレの声は愛情を求めて震えていた。
その痛み、その孤独、その苦しさを受け止めるべき人物は、ひたすらに息子の存在を否定する。言葉の端々に怒りが滲み取り付く島がない。
どんなに手を伸ばしてもその手は握り返されることがない。
求めてるものは、絶対に手に入らない。圧倒的な断絶がそこにある。
「コチョウなんて大嫌い! お前のことも嫌いよ! 口もききたくない!」
アマレはずっと、こうして、否定されながら生きてきたんだろう。
生まれてから、ずっと。
生まれてきたことそのものを、ずっと。
呆然とする僕の前で、半狂乱で叫び続ける母親の腕を、アマレは悲愴な表情で掴んだ。
「ごめんね母さん、すぐに戻してあげるからね」
「痛い! やめて!!」
腕が捻じ曲がるのも気にすることもなく、乱暴に連れていく。
アマレを追うべきか残ってイチゲとヒギリを支援するべきか迷っていると、オルドルの声が聞こえた。
『来た』
振り返ると、屋上に出る非常階段入口に魔人が立ち、不気味な緋色の双眸と《偽弓》の銃口をこちらに向けていた。
「オルドル、防御を! 《昔々、ここは偉大な魔法の国》」
呪文と同時に腰に下げた水筒の水をぶちまける。
杖の先に銀色の盾が出現し、放たれた銃弾を拡散させて弾く。
水気もなくて狭くて逃げ場のない共用の廊下では、長くは戦えない。僕は脱兎のごとく逃げ出す。
『もウ一回!』
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》!」
残った水がコンクリートに染みこみ、魔術が内部の鉄骨に作用する。
床を割って生えた鉄の樹木が、枝を急速に成長させながら魔人を襲う。
魔人は闇色の鍵爪でそれらを打ち払いながら迫ってくる。
間一髪で、アマレが呼び出したエレベータに飛び込んだ。
閉まりかけた扉の隙間に、闇色の手が差し込まれる。
「《昔々》――!」
こうなったら、多少の犠牲は覚悟して本格的に魔術を使うしかない。
「とっとと逃げろ、ノロマ!!」
侵入しかけていた闇色の魔人に、高速飛翔してきたヒギリが掴みかかり、なぎ倒していくのが見えた。
もう一度ボタンを押し扉が閉まると、昇降機が動き出した。
微かな振動が、戦闘行為が続いているのを教えてくれる。
アマレは何でもないような涼しい顔でボタンの列の下にあるパネルを外し、操作盤にパスワードを打ち込んだ。
その様子は、さっきみたいに取り乱してはいない。
マツヨイも少し落ち着いている。
「――どこに逃げるつもり? あいつが何なのか知ってるの?」
「あれは、呪いの塊……。先代翡翠女王の騎士、尖晶クガイのなれの果てです」
「コチョウが殺したのよ!」とマツヨイが叫ぶ。
それを無視して、アマレは話し続けた。
「《ファウストの鏡》は、もともとコチョウの持ち物でした。あのなれの果ては、コチョウが鏡で生み出した存在です」
「……何のために?」
「さあ……。どうせ自分の利益のため、でしょうけど、あまり興味ないです」
アマレの返事は相変わらず茫洋としている。
無理もない。
母親がこれで、父親があれなら、現実から逃げたくもなる。
「わかった。それじゃ、そのファウストの鏡を、君が受け継いだってことでいいんだよね」
「ここにあるのはただの写し。《魔眼》の力で写したのです」
「そんなこともできるの……?」
アマレの魔眼の力は、合わせ鏡に写ったものを《変質》させること。
鏡を持っていないアマレの姿を映し出し、そして魔眼の力をかけて現実をねじまげ、鏡を写し取る――鏡を所持しているアマレの姿を出現させれば、呪われた鏡を増やすことも可能だ。
理屈じゃない。そういう魔術なのだ。
「尖晶家が隔離されてた理由も納得できたような気がする」
「けれど、この力も完全ではない」
アマレの紫色の瞳は、マツヨイを見下ろしている。
「人の意識は繊細で、ときどき支配の力を抜け出てしまう。それに」
と言いかけて、アマレは黙り込んだ。
言葉の続きを、僕は推測する。
「魔術によって支配しても、体はともかく心は、変えれば変えるほど別人になってしまう、か……」
彼は涼しい横顔のまま。
でも瞳は感情の動きを伝えている。どこにも焦点があわず、さまよっていた。
問いただすまでもない。
アマレが鏡を手に入れたのは、理想の母親を作りたかったからだ。
息子である自分に何の興味もなく愛さなかった母親ではなく、自分を愛し、いつくしむ、彼だけのマツヨイが欲しかったからだ。
それは現実の愛情ではなせなかった。魔術の力を使わなければ、手に入れられなかった。
でも。そうまでして手に入れた《母親》は、元の人格からはかけ離れていく。
あくまでもアマレが愛した母親は、自分のことを愛さなかったマツヨイなのだ。
コチョウを憎み、息子に情をかけなかった母親に、自分を愛してほしかったんだ。アマレは……。
でももう、それはできない。
本物のマツヨイは死んで、その感情を変えることはできない。
ここにいるのは、その鏡像でしかない。
不変の母親という、残酷な存在の。
「アマレ、学院に来なよ」
彼の置かれた地獄を感じたとき、その言葉が自然と口に出て来た。
「どうして」とアマレは呟くように言った。
「僕には、きみの気持ちがわかる。けっして愛されない人に愛されたいと思う気持ちが。幸せになりたいと願い、普通に暮らしたいと思う気持ちが……僕の母親も、僕を愛していなかった」
もしかしたら、そうじゃないときもあったのかもしれない。でもそのことを考えるのが苦しくなるくらいの時間、僕と母親は憎悪の中で暮らした。
「君はここにいるべきじゃない……きっと、別の生き方がほかにある」
エレベータは、表示されていない地下階に着いた。
扉が開くとそこは広大な空間で、さっきの鏡の部屋のように床や天井、壁に鏡が配置されていた。
アマレの能力を最大限に活かす合わせ鏡の部屋だ。
彼は、魔人に対抗しようとしてる。
それも、ずっと前から準備していたはずだ。
アマレは部屋の中央にマツヨイを放り出す。
「さあ、母さん。元の優しい母さんに戻してあげるね……」
瞳が薄紫に輝く。
マツヨイの姿がうつった鏡の、その手前から三番目が歪み、黄色の瞳が赤く染まり、表情が無表情に変わる。
そして現実のマツヨイが目を開けたとき、瞳は赤く染まっていた。
悲しくてやるせない光景だった。
愛情がほしかった子どもが、こんなふうに魔術の力を借りて何もかもを捻じ曲げて、それを得ようとする。
そんなことが正しいやり方だとは、とても思えない。
僕は彼に語りかける。
「どんなに望んでも君がほしいものを、その家族はくれないよ。このままこの生活を続けても幸せになんかなれない」
「貴方は、どうしたの」
「僕は……母親を、傷つけた」
殺そうとした、とは言えなかった。
どうしても。
心の傷は目には見えなくても、いまも血を流し続ける。
「外に出て違う方法を探すんだ。まだ間に合う。母親の偽物なんかじゃない、愛情をかけられる優しい人たちを探すんだ……」
僕にとってそれは、図書館の司書だったり、警備員だったり、学院の友達だったり、そして、天市にいる複雑な人たちのことだ。そして魔人がここに来ないよう戦い続けている竜鱗魔術師の、あの二人のことだ。
絶望に負けることなく僕をここに存在させて、生きる意味を与えてくれ続けている全ての人たちのこと。
ある意味それは、アマレもそうだ。
「でもそれは」とアマレは悲痛な声音で告げる。「《お母さん》じゃない」
そのとき、大音響がして、建物全体が震えた。
上だ。何かが起きてる。
僕は金杖を構える。
天井にひび割れが走り、衝撃と大量の瓦礫、砂埃を噴出させて、鏡の破片を降り散らしながらそれは落ちて来た。
煙幕が晴れると、そこにはうねる闇の塊があった。魔人だった。
上階から稲光をまとい障害物を叩き壊して突き抜けてきたらしい。
大穴から空が見える。
ポイ捨てされるゴミみたく、ついでに落ちてきたのはヒギリとイチゲだ。
竜騎装は解けている。維持する魔力が無いのだ。
アマレは手に杖を持ち、マツヨイを庇うように立つ。
先端に四つ葉と、五枚の花弁を持つ花の意匠の長杖を携えている。
「この人は、もはや星条家のものだ。お前には絶対に返さない」
魔人は既に、鏡の部屋の中にいる。
問題があるとすれば、アマレも同じ空間にいるということだけど。
「アマレ……魔眼は使うな、その力を模倣されたら、取り返しがつかない!」
一応忠告したが、自分の力だ。そんなことは百も承知だろう。
アマレは傍らに跪く《母親》に語りかける。
「さあ、母さん、立って。母親は息子を守るものだよ」
マツヨイは天から伸びる操り糸に引かれたように、立ち上がる。
その緋色の瞳が魔人をじっと見つめる。
敵の魔術をうつし取る魔人の双眸……尖晶クガイの眼差し。
その意味がやっと理解できた。
たぶん、マツヨイの魔眼はもっと別のものだったはず。もともとは黄色の魔眼だったんだ。
あの赤い瞳は、アマレが与えたもの。
魔人に対抗するための第二の手段。
おそらく、マツヨイは予め、その偽物の緋色の瞳で魔術を模倣している。キャシー捜査官を退けたときのように。
マツヨイは魔人に近づいて行く。
その双眸が魔力を放つ。赤く血のように輝く。
彼女の体に、変化が現れる。
滑らかな肌が、手の先のほうから黒に染まっていく。
赤い瞳だけを残して、全てが闇色に。醜悪な感じのする魔力のうねりにのみこまれていく。
マツヨイは魔人を覆う魔術的な《何か》――その存在そのものを、瞳の力によって模している。
これから先に起きているのは、相手を模倣するという特性どうしのぶつかりあいだ。
家族という牢獄から解き放たれて、彼女は暴力という新しい地獄に生まれ変わろうとしている。
それなのに、アマレは嬉しそうだった。
「これが終わったら、また、一緒に暮らそう。質素で慎ましく、愛に溢れた、ふたりだけの暮らしを続けよう。ずっと、二人だけで、ここで……」
未来永劫、ふたりは幸せになりました……。
物語のような結末だ。こんな地獄で願うにはあまりにも陳腐で、痛々しい、奇跡のような終わり。
「母さん、あいつを殺して」
息子のために敵に立ち向かう母親の姿はアマレにどううつったのだろう。
マツヨイは、あと半歩、踏みこめば魔人の間合い、という距離で振り返る。
まるで少女のように微笑んでいた。
その瞳は、右の眼だけが黄色に戻っていた。
「――――いやよ」
次の瞬間、魔人が動いた。
半歩踏み込み、手の中のものを突き出す。
黒く滑り輝く、細身の刃を。
その切っ先が細い体の中央を貫いた。
薄い胸から鮮血が噴き出すのが見える。
細い体が瓦礫の上に崩れ落ちていく。
魔人の背後から、帯電した刃が振り抜かれる。
ヒギリの渾身の一刀が、魔人の頸を寸断し、頭部と思しき箇所を吹き飛ばした。
イチゲが倒れたマツヨイの体を抱えて戦闘領域から離脱し、脈を確かめるのが見えた。彼女は視線をこちらに寄越し、黙って頭を横にふってみせた。
彼女は亡くなった。ほとんど即死だ。
そのことを悟っていただろうアマレは眉間の間に少しだけ皺をよせて、背中を丸め、足下をじっと見つめていた。
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