15

*


 彼は自家用車を飛ばして月白宮殿に向かっていた。

 通りに車をつけるのと同時に、裏口から人影がふらふらと歩み出て来る。

 夜目にも、純白の衣装が明るい。

 シスター・ルビアは苦し気に胸のあたりを押さえ、街灯のそばにうずくまる。

 シキミは飛び出してその肩を支えた。


「ルビア、無事かね!?」

「は、はは、はい……」


 震える体を毛布で包み、人目を避けて後部座席に乗せた。

 恐怖と、おそらく痛みによって蒼白な顔をした哀れな少女は毛布ごと自分の体を抱きしめてじっとつま先を見つめていた。


「痛むかい?」


 気遣いながら、車はゆっくりと月白宮殿から離れていく。

 頃合いを見計らってシキミは優しく訊ねる。

 決して大声にならぬよう、静かに、囁くように。彼女は今にも崩れ落ちそうで、硝子細工よりも脆く危うく見える。


「…………い、ぃえ、だ、だいじょうぶです」

「そんなふうには見えないよ。このまま病院に行こう」

「いえ、そんな」

「何も心配しなくていい。支援団体との話はついている。君は入院し、治療したあと保護される。二度と教団には戻らなくていいんだよ」

「な、なにか勘違いしておいでです」


 シキミがルビアを気にかけている、それは本当のことだった。

 仕事の関係でヘデラとその哀れな娘と知り合い、ふたりの親子関係が破綻していることにすぐに気がついた。

 以来、ヘデラが管轄する施設や個人的な使用人たちを懐柔し、監視を続けていたのだ。

 少女の境遇を哀れむ協力者は何人もいた。

 人を介して連絡先を渡し、助けを必要とするときに連絡が来るようになったのは最近のことだ。

 だが、彼女をヘデラから引き離すのはひどく難しいことだった。


「わ、わたしがいけないんです」


 彼女はいつもうわごとのように呟く。


「お、お父様はし、躾てくださってるのです。あの方の、いと高き方の教えからみ、道をふ、踏み外さぬよう……。天の国に迎えられるように。だから、だから……」


 あの父親がルビアを鞭打つ理由はそのような大層なものではない。

 ただ支配のためだけにそうしているに過ぎない。

 彼女は迷える羊などではなく、道端のゴミくらいの価値しかないのだ、あの男の前では。


「君はもっと暖かい家庭で、愛おしまれて育つべき女の子なんだよ」


 それは自らも家庭を持つ父としての、心からの言葉だった。

 だがルビアがそれを理解することはない。

 虐待を受けた子供たちは、往々にして自分の受けた理不尽な仕打ちについて《自分のせい》だと考える傾向にある。

 それはもしかすると、彼らの両親が愛情をもたず、暴力的で、ときに獣のようにふるまうことについて原因を見つけ出すことが困難だからかもしれない。


 けれど、理不尽な目に遭った者たちはそれでも探さずにはいられない。


 自分を痛めつけ、そして未来を奪い取られた理由が世界中のどこにもないという事実は、はっきりとした悪意を向けられるより残酷なものだ。

 ましてやルビアの場合、信仰とヘデラの宗教的指導者という立場が、その信仰という名の《洗脳》を絶望的なほど強固なものにしてしまっている。

 おそらく彼女を無理に保護しても、ひと月と経たずに教団へと戻ってしまうだろう。

 そうなれば、シキミは二度とルビアに接触できなくなる。

 それを避けるため、シキミは慎重にならざるを得ない。


 指定された路地で車を止めた。


 傷の手当てに必要な包帯やガーゼ、痛み止めや婦人科の薬、そして少しの現金を渡すと、彼女は深く頭を下げて、暗闇の向こうへと去って行った。

 それが、多大な労力と執念によって、ようやく築いた信頼関係において可能な《支援》だった。

 血のついた毛布だけが残る車内で、彼は救い難い魂というものについて考える。


 即ち、悪人のことを。

 愚かな者のことを。

 そして哀れな者のことを。


 救いの手はいかようにも伸ばされているのに、それを掴もうとしない者たちのことをだ。それは祈りにも似ていた。

 たっぷりと時間をかけ、エンジンを切り、シートベルトを外す。

 そして車の外に出ると、それらすべてを置き去りにして立ち去る。

 街路には監視カメラがあり、じきに市警が見つけるだろう、と算段を立てながら。


 彼は今、弁護士でも父親でもない顔をしていた。

 やがて、雑踏の中にふらふらと帰路を行くルビアの背中を見つけた。

 だが声はかけない。

 ただ一定の距離を保ち、遠くから追跡する。


 足取りがおぼつかず、しかも目立つ装束をまとう少女は、やがてひとりの若い女性に呼び止められた。

 それなりに仕立てのいい外套に、地味な意匠ながら流行の鞄や服。

 オフィスからの帰り道だろう。

 祝い事でもあるのか、片手にはリボンをかけた紙袋に葡萄酒の壜が入ったものを提げていた。誰もが面倒事を嫌い、少女を避ける中、彼女はルビアを呼び止めて親切に声をかけていた。


 どこから来たのか、両親は近くにいるのか、何か手助けできることはないか……。


 ルビアはたどたどしく答えながらも、人目を気にするような仕種を見せる。

 それに気がついた女性は少女の手を取って歩き出した。

 もう少し、落ち着けるところを。そう考えたのだろう。

 手を取り合うふたりは姉妹のようでも、親子のようでもあった。

 次第に落ち着いたのか、ルビアが女性の左手にはまった指輪について質問する。

 照れくさそうな表情をみせる女性。

 そして、導かれるようにふたりは路地裏に入っていく。

 彼らがさらに細い路地へと道を曲がっていくのを待ちながらタバコに火を点ける。

 その場に落として消して踏む。こうしておけば、付着した唾液から遺伝子検査を行うまでもなく、クヨウ魔術捜査官がいち早く気がつくだろう。

 頃合いを見計らい、シキミは先に進んだ。

 決して振り返らず、立ち止まることはなかった。


 月あかりもない夜だった。


 切れかけの街灯がぽつんと無機質な光をアスファルトに落としている。

 そこに、ルビアは跪いていた。

 神を見出したように感動に打ち震え、祈っていた。


 彼女の目の前には《異常》としか言いようのない光景があった。


 道の真ん中に濃いブルーに塗装された縦長の《箱》が置かれている。

 硝子と枠によって組み立てられ、中にはコインを入れて使う電話が置かれている。女王国でも珍しい存在になってしまった公衆電話があるはずもない場所に出現していた。

 扉はダクトテープのようなもので外側から封じられ、その中で先ほどの若い女が首にコードを巻き付けて絶命していた。


 足元で割れた酒の壜から、赤い血のような酒が流れ出て、路面を汚している。


「ルビア……きみだったのか……?」


 シキミの口から漏れた言葉が、空気を震わす。

 ルビアはゆっくりと立ち上がり、振り返る。


「し、シキミさん……? ち、ちがうの。か、勘違いなのです。ただ、わ、わたしは……使徒の娘として、正しただけなのです」

「正した……? 何を正したというんだ」

「ええ、だって。この方、結婚してて、今日はその記念日なんですって。ふ、不妊でな、悩んでいたけれど、いまはふ、夫婦二人で幸せに暮らしてるんです。そんなのって――――おかしいでしょ? だから」


 正した。

 彼女は目の前の光景を正しいと言い切った。


「正しいわけがない!」

「どうして? だって、お父様は言ったのです。わ、笑ってはいけませんと。い、痛みに耐えなくちゃいけないって。贅沢はしてはいけないし、し、幸せになる資格なんて、ないって……だから、ルビアは、お、お父様のためになることをしてるだけ」


 狂っている。

 その異常さと残虐さに呻き声を上げながら、シキミは来た道を走り、逃げる。

 傷だらけの少女と、大人の男だ。

 距離は稼げる。途中、迷って、マスター・ヒナガを呼びだす。

 相手は魔術の使い手だが、市警は多忙で、魔術捜査官がすぐに駆けつけるとは限らない。それならば、と一縷の望みをかけたのだ。


「マスター・ヒナガ。出てくれ、頼む……!」

「ああ、もしかして。あ、あ、あの人が、来るの……?」


 背後から延ばされた傷だらけの指が、空中に浮いたコントロールパネルを操作し、通話を切る。


「そ、それは、い、いい報せ。彼を、か、彼を殺せば、お父様はお喜びになり、わたしの罪を許してくれるかもしれない……、きっと、これもあの方の導きなのです」


 シキミの肩越しに、祈る聖女が見える。

 彼女の手には二本の短杖が握られていた。ともに鍵の形をした二色の杖。


「聖マージョリー様を殺した大罪人、その魂を、お、お捧げしなくては……!」


 それを手に、彼女はシキミにはじめて笑みを見せた。

 まるで生まれてから後、一つも手に入らなかった幸福が目前にあるかのように。

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