12 冷たい家
激しい音を立てて開いた扉から、月白宮殿へと凍てつく冷風が吹き込んで来た。
ひとり娘のルビアを連れ、使徒ヘデラが現れたのだ。
出迎えた使用人たちは頭を下げる。彼らの頭上に渦巻く不安と恐怖が目に見えるようだった。
この豪奢な邸宅と使用人たちの主の意識は既に消え去り、彼らを保護する者は誰ひとりとしていないのだった。
「聖マージョリーの様子は?」
そう訊ねるヘデラの声音には侮蔑の色が多分に含まれていた。
何故、魔女ひとり守ることもできないのだと言外に責める声音であった。
「は、はい……こちらです」
医者が先導し寝室に通す。
マージョリーはベッドの上で青白い顔をしていた。
うつろに瞳を開き、呼吸の音も無い。
それは蝋人形のように、ただただ横たわるだけの肉体だった。
死者だと言われればなんの疑問もなく花を手向けるだろう横顔をみて、蘇生の望みは無いと知ったヘデラは無慈悲にも舌打ちをする。
「この女に我が教団が支払った金は少なくないぞ。そこのお前」
アイスブルーの瞳が自分を睨みつけている事に気づき、医師は首を竦める。
「お前は何者だ?」
「……は?」
「歩けぬ者を見れば立たせ、目の見えぬものがいれば見えるようにし、喋れぬものに声を与えるのが医者であろう。《禁術》でもよい、試せるものはなんでも試してみせよ」
「し、しかし……! 禁術に手を出せば魔術捜査官が黙ってはいない、いや、そもそもそれを使える医師などここには……!」
言い募る言葉は、ぴしゃりと床を叩く鋭い音によって遮られた。
ヘデラの手には銀色に輝く鞭が握られていた。
「お、お父様、おやめくださいっ!!」
ルビアがその腕に縋り、必死に鞭が振るわれるのを止めていた。
「お、お父さ、様、ごめんなさい、さ、い。で、でも、このひとたちをたっ、叩かないで。あぁっ!」
謝罪も言い訳も最後まで聞かず、ヘデラはベールの上から彼女の髪を鷲掴みにして、高く持ち上げる。髪が音を立てて抜け、皮膚に血が滲んだ。
「自分が何をしているのかわかっているのか? ルビア……」
「いた、痛いです。お父様、お父様やめて」
ヘデラはそのまま寝室を出て彼女を引きずったまま歩み始めた。
叫び声を撒き散らし引きずられていく娘を、実の娘を痛めつける父親を、誰も止めることができない。
メイドも、庭師も、掃除人も、医者も、誰もが目を伏せて石のように体をぎゅっと縮こまらせて、感情を封じ込めている。
彼らにとって、この男は天におわす至高の存在から遣わされた《使徒》なのだ。
万能を有する神は決して間違わない。
であれば使徒がもし嵐のような暴力を振るうとしても、それによって遍く人の心を支配するとしても、それは正しい行いなのだ。信仰とは時として、善悪を行いによって決めず、その基準すら神にゆだねさせるものなのだ。
ヘデラは手近な無人の部屋に入るとルビアの体を乱暴に、ゴミのように投げ捨てる。彼女は慌てて起き上がり部屋から逃げようとするが、ヘデラは容赦なくその体を二度、三度と鞭で打ち据えた。
「ひぎっ!」
硬い鞭が痛めつけ、頬を掠ったそれが皮を剥ぎとり、血が流れ出す。
「何故逃げようとする? 父の元を離れてどこへ行くというのだ?」
「ご、ごめんなさい。わ、わたしはど、どこにも、行きませんからっ。罰はいや、罰はいや、罰はいや!」
「そうだ。お前はここから先、どこにも行けない。愚かで、間抜けで、頭が悪く、そして罪深いからだ」
「そ、そうです。わた、わたしは、バカです、間抜けです、う、ううっ。ですから、おねがいです、ゆ、ゆるして……もう、もぅ。何でも言うことを聞きますからっ……」
ヘデラが鞭で床を叩く度、それが身に触れることがなくともルビアは恐怖で全身を痙攣させる。
涙と鼻水で顔は汚れきり、最早父の姿さえ見えていないだろう。
彼女を支配しているのは暴力ではなく、形がなく目にも見えない、けれど記憶に深く彫りこまれた《恐怖》であった。
「ルビア、服を脱ぎなさい」
ヘデラが後ろ手に扉を閉める。
外界の光は細くなり消え行き、命令は至上のものとなって下される。
彼はあたかも神のようにふるまう。
信仰と暴力によって小さく閉ざされた空間に、逆らう者などいないのだから。
*****
「待てコラっ!」
ゴミやら室外機やらを巧みに避け、宙に躍り出た《獲物》を追って、僕もまた疾走、跳躍する。
走りだけなら今の僕はオリンピック選手を凌駕する。
もちろんオルドルの鹿の部分が僕に常人離れした健脚と反射神経をくれていなければ、こんな真似はできっこない。
右手を腰の後ろに回し、金杖の柄を握りこんだ。
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》っ」
魔法が発動、軽くなり、そして異常に速くなった肉体がビルの縁を踏んで跳躍する。
顔にビル風がもろに噴きつけてくる。
足下には路地裏の景色がある。
足を踏み外すとたちまちぺちゃんこだ。
三つほどビルを越え、いよいよ逃げ場が無くなりつつある。
代償を支払い標的よりも高く跳躍――しすぎて給水タンクに着地、一回転して――真下にその姿を捕捉した。
「つ、か、ま、え、た!」
マントを網のように使い、ようやくソレを手中におさめた。
「大人しくしてろよ~」
青い布地から姿を現したのは、赤い首輪をつけた黒ぶちの猫である。
片手でカフスを操作し、資料を呼びだす。そこには同じ猫の写真が複数枚並べられている。
「よし、ブチの感じからして間違いなくこいつだな」
首輪に描かれた名前などを参照し、写真と実物に齟齬がないかを確認。
何も、追いつめられておかしくなり、小動物をむやみやたらに追いかけ回していたわけじゃない。
この資料を送ってきたのはシキミだ。シキミにはどうやら弁護だけでなく、優秀な探偵の才能がある。
彼はなんと、マージョリーの死因を突き止めるために現在市警があつかっている魔術事件を丹念に調べ、《似たようなケース》を洗い出してくれたのだ。
たとえば、密室空間で事件が起きた、とか、衆人環視のもとで何かが盗まれた、とかそんなようなことだ。
送ってもらった電子ファイルには五十件以上の事件が並んでいる。《飼っていた猫が部屋から消えた》というほのぼのとした通報もあれば、死者が出ていたり、裏社会が絡んでいたりと危険度が高いものまで様々だ。
これらの事件をさらに詳しく調べていけば、もしかすれば《マージョリーの死の原因》につながるかもしれない……まあ、地道すぎるが、そういうことだ。
もう一度呪文を唱え、猫を観察する。
オルドルから瞳を譲渡されてから、僕の両目は魔力に反応するようになった――が、この猫には何もおかしなところは《視えない》。
「密室から消えたのは、ただの飼い主の不注意か……警察にでも届けてやるかな」
爪を立てて顔を引っかいてやろうと暴れる猫を抱え、とぼとぼ歩き出す。
山のようにある事件をひとりぼっちで解決していくのは、流石に骨が折れる。
しかも、魔術事件は刻一刻と増えていく。
クヨウ捜査官がいつも口うるさく「多忙だ」と言っているのはウソじゃないのだ。
このまま迷い猫を探し出したり、消えた靴下の片方を探していたりしたら、時間がいくらあっても足りないだろう。いずれ有罪判決が出て、気が付けば海の底だ。
「仕方が無い、最終手段だ。あいつを雇うか」
気は乗らないが仕方ない。人手が必要だ。
制服姿の捜査官に猫を渡した後、地図と睨めっこしながらある《店》に入った。
入店した瞬間、見知った顔がこちらを睨みつけて「なんでここに!」と叫び、雄々しい威嚇のポーズを取った。
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