第2話 触手如きに就活のつらさはわからない

 神様がいるとしたら、そいつはどんな顔しているんだろう。そして今、どんな表情をしているんだろう。


 なんてことはどうでもよかった。とてもどうでもよかった。


 それよりもバスが五分遅れているとか、隣のおばさんの香水がきつすぎてもはや臭いとか、スーツを着るとやっぱり息苦しいとか、そんな馬鹿みたいに些細なことが重要で仕方なかった。


 そしてもっと重要なのは、俺はやっぱり駄目人間だということだ。また、落ちた。残っているのは後二社。

 痛い。胃が痛い。もしもこれで内定が取れなかったら、俺はどうすればいいのだろうか。就職浪人か、フリーターか。あるいは社会不適合者としてその適性を十二分に発揮するのだろうか。胃が、とても痛い。気分が悪い。死にたい。死んでみたい。


 気分転換がしたくて、というか日常的生理作用がしたくて、俺はトイレに行きたかった。バスを降りてから早急にトイレを探す。神様よりもトイレが必要だった。


 だが無い。無かった。トイレが無い。トイレはどこだ! 俺はさながら犠牲者を求めるゾンビのようにトイレを探す。なんとかコンビニに飛びこみ、トイレを借りる。


 正に危機一髪。紙一重の攻防だったと言っても過言ではない。俺は便座に深く座りこみ安堵した。


 そしてふと顔を上げると、触手がいた。


 触手がいた。


「あ、あの……」


 前回と同様可愛らしい声。


 うん、あれだ、あれ。今の俺って普通に逃げ場ないな。排泄中の人間ってとっても無防備。戦国時代の武将が気を遣っていたのが実感できるよ。


 いや、待て。そうだ、思い出した。これは俺の貧困な想像力が就職戦争に倦み疲れて生み出した幻覚・幻聴であり、何も恐れることはないのだ。そうだ、その通りだ。立ち向かおう。自らの社会不適合者としての象徴と対峙して、打破するのだ。物は試しと人は言う。


 ならば、と俺は触手にふれてみた。ぷにっとな。


「はわっ」


 驚きの声が触手から上がる。


 だが俺の驚きはそれ以上だった。うわー、柔らかーい。ふにふに。ふにふに。人肌のように柔らかい。俺は無言でさわり続ける。もうあれだ、あれ。どうにでもなれ。


「や、やめてください!」

「俺が言いたいわ! 触手は妄想に帰れ!」


 我に返り大声で叫ぶ。幻覚のくせになんで感触があるんだよ!


「わたし、妄想じゃないです!」

「うるさい、帰れったら帰れ!」

「話せばわかります!」

「まずコミュニケーションがとれること自体が理解不能だわ! 口どこだよ!」

「無いです。触手ですから」

「無いのかよ!」

「テレパシー的なアレです」

「アレの部分を詳しく説明しろ!」


 衝動的に叫びなから自分が触手と意思疎通が出来ていることに気づいてしまう。すると、ここまで興奮していることが一気に馬鹿らしくなる。なんかもういいや。いや、よくない。


「……もう、なんだよ、これ。わけわかんねーよ」


 俺は大きな溜息をつき、深く項垂れた。便座・the・考える人になる。


 ちっ、ちっ、ちっ、ちーん。


 ――よし、決めた。適当に流して現実に帰ろう。そしてこのことはネタにしよう。「なあなあ、以前トイレに行ったらなんか触手がいて~~」みたいな。飲み会で言えばそこそこウケもとれるだろう。それでいいや。


「――あの」


 触手のくせにこちらを気遣うような声音で言う。


「大丈夫ですか?」

「ああ、うん。オッケー、オッケー。じゃ、そういうことで」


 俺はF1レーサー顔負けの速さでトイレからの脱出を試みる。

 が、「待って」と素早く触手にからめ取られた。やっぱり柔らかい。絶妙な弾力。女の子のおっぱいを彷彿させる。


「話を聞いて下さい」

「嫌だ、話せどわからぬ! 俺は現実に帰るんだあ!」


 しかし触手の力は強く、懸命の脱出活動が実を結ぶことはなかった。


「どうか話を、話を聞いて下さい。お願いします」


 触手はくねくねとその身を揺らし哀願する。哀願するったら哀願する。


「お時間は取らせません、五分、いえ三分で結構です。どうかお願いします」

「えっと……」

「お願いします。この通りです」

「ああ、うん」


 どの通りだよ。


「あー……」


 でもあれだよね、もしここで断ったら俺、悪い人? なんか罪悪感がちくちくするんだけど。いや、そうだよ、ここで断ってもなんか気分悪いし精神衛生上非常によくないよね、そうだ、それならいっそ最後まで自分の生み出した幻覚・幻聴と対峙して、見事克服してやろう。それだ、それで行こう。キャッチフレーズは「自分から逃げない俺」。よし、かっこいい。


「わかった、わかったよ。話を聞くよ」

「本当ですか? 嘘ついたら触手千本飲ませますからね」

「地味に恐ろしいな、おい」

「えーと、それでは」


 こほん、と触手は可愛らしい空咳をしてから言う。


「一緒に働きませんか!」


「……………………………………は?」


「だから触手になって働きませんか?」

「……………………………………はあ」

「えっと、その、お仕事、大変ですけど、やりがいもありますし、それなりにいいこともあるし、きっと待遇もまあまあだと思います。どうですか?」


 いや、どうですかと言われても……。それ、「人間辞めませんか?」ってことじゃん……。


「慣れれば平気です、慣れれば! 最初はうねうねして上手く動けないですけど、慣れれば自由自在に操れますから。ほらっ」


 触手がうねうねとのたうちまわる。妙に煽情的だった。


 だが俺の頭脳は処理能力が低いからか、自分の置かれた境遇を認識出来なかった。いや、違う。落ち着け。俺は悪くないだろ。状況が異常なんだよ。


 そして戸惑う俺に対し、触手は禁断の台詞を口にした。


「お仕事、決まらないんですよね」


 ――プチン


「うるっせえええええええええええええええええええええ!」


 姑が嫁に向かって、「ねえ、まだこどもできないの?」って嫌みったらしく尋ねるようなことするなこらあ! こちとらナーヴァスなんだよ!


「お前なんかに、お前なんかに就活の苦労がわかってたまるかあああああああああああああ!」


 触手のくせに触手のくせに触手のくせに!


「だらっしゃああああああ!」

「――ああっ」


 俺は無理矢理触手の拘束を振りきってトイレから逃げ出した。


「待って、待って下さーい」


 触手の声だけが追いかけてくる。


 誰が待つか。

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