22 懸念

煮出した麦汁が程良く、ぬるま湯程度まで冷え込む。

発酵に必要だが、熱に弱いイーストを足す関係上、どうしても冷却工程は必要になる。

香り付けに重大な要素を持つホップを足すわけではない。

そのため、通常のビール作りに比べ手間は少ないものの、やはり緊張からか時間の流れが遅く感じる。

「おい、どんな具合なんだ?」

ベクターが横からひそひそ声で尋ねる。

「多分出来る。味気ない仕上がりになるとは思うが」


安息日の前日は、当直を除きほとんどの下士官が外出してしまう。

そしてその当直も人によって、消灯後に全く見回りなどをしないタイプ、してもろくすっぽ回らないタイプなど、割と差が大きい。

何故か当直の巡回経路を把握していたベクターと、当直割から「安全日」を割り出したマイルズが「醸造日」を決定し、そしてゲオルギーの手により洗濯樽の醸造樽への魔改造が完了してしまい、下準備が全て整い現在に至る、というわけである。


湯を沸かす関係上、実施できる場所は烹炊所に限定される。

幸いにしてーーグラハムにとっては不幸なことにーー烹炊所は砂糖の保管庫以外は施錠がされていない。

その上で人目につかないよう夜間に実施することになったが、夜間は沸かすための炎が目立つので、締め切っての作業になった。

締め切って火を取り扱うと、いかに冬から春にかけての、夜間の冷え込む時期とはいえ熱気がこもり暑い。


仮に発見されれば、罰直程度でどうにかなる問題ではないし、なおかつ、言い訳のしようがない故意犯的犯行でもある。

夜中に男3人、汗を額に浮かべつつ、警戒しつつ、の懸命の醸造作業である。

だが、一方でグラハムは、一体自分は何をしているのだろうという果てしない虚無感に襲われていた。


「おい、急げよ、一応毛布でらしくはしたけど・・・・・・」

兵舎のベッドを抜け出すにあたり、毛布で人型を作り、寝ているように見せかけている。

営内班員総員で共犯を働いている格好で、口裏を合わせることは出来るが、現場を押さえられると言い逃れは不可能である。

「分かってるさ、もう少し」

グラハムとしては、出来れば一刻も早く逃げ出したいという欲求の方が強いのだが、営内班員の前で大手型を切った以上、撤回するわけにはいかない。


「よし、出来た」

そして、困ったことにこうして無事に初仕込みを終えてしまった。

「戻るぞ」

重量にして15kg強ある樽を慎重に運び出す。

液体にすると樽にこんなに容量があったのかと、知りたくもなかった情報を無駄に知ってしまったことによって、より一層虚無感が強くなる。


営内に戻ると、眠れない営内班員からの熱視線を受ける。

営内班員がグラハムたちの姿を見て、視線を樽に移し、そしてまたグラハムたちを見る。

「安心しろ、きっと上手くいった」

ひそひそとベクターが話す。

あちこちからよし、と息が漏れる。

当のグラハムはもう寝たいという一心でベッドの下に樽を置き、そのまま下段のベッドに潜り込む。

そして毛布を被る。

懸案事項がまた一件増えてしまった。

現段階においてグラハムにとっての懸案事項で最大のものは、パン屋がどうなっているのか、というものである。

今店には当然ながらロメオとロランしかいない。

主力になるグラハムが抜けてしまったことで、店自体に大きな穴が空いてしまっているのではないかという懸念がある。

ここが気にかかってどうにも最近身を入れてやっていられない。


だが、そんなグラハムの懸念を吹き飛ばすように醸造の翌日、手紙が届いた。

そもそも営内では、月に一度、柵の外からの手紙が各人宛に渡される「通信日」がある。

ただでさえ退屈な営内暮らしだ。娯楽は一つでも多い方が良い。

ことに初等教育においては、事あるごとに心が折れそうになる。

そのため、俸給日の二週間後の直近の安息日に手紙が届けられる日が設定されており、俸給と手紙が比較的短い間隔で提供されるように工夫してある。


尤も、届く相手すらいない人間からすればただただ無駄なだけである。

グラハム自身、手紙を書いてくれるような相手が想像出来なかったので通信日を迎えた当日、名前を呼ばれても一瞬自分のことだと認識するまで時間を要した。

いらないなら捨てるぞ、と郵便物を一括受領してきた営内班の当直に言われ、初めて自覚し、慌てて手紙を受け取った。


封筒を見ると差出人名はロラン・バスとある。

弟子のロランだ。

どうやら、グラハムは弟子には読み書きを教えていたらしい。

チリン王国は、識字率は高い方だが、それでも文字の読み書きが出来ない人間は一定数存在する。

原因としては、職人仕事の人間や肉体労働者は小さい頃から職に従事するため、現場の親方次第で文字の読み書きを習える習えないが別れてしまう。

後継者として育てる場合は、その過程で読み書きを教えるパターンが多いが、それでも、その手の職業に就いている人間はどちらかといえば識字率が低い方に分類される。

少なくとも、ロランくらいの年齢では文字を知らない人間も珍しくはない。


ベッドに腰掛け、封筒を開く。

手紙は2枚あり、挨拶に始まり近況が記されていた。

どうやらグラハムが徴兵されスコピエの町を去った後、怒れる民衆の手により市民管理担当官が罷免となったらしい。


なんでも、当初はパン屋もロメオとロランの手により何とか運営出来ていたようだが、徐々に捌き切れなくなり、一部業務の停止をして対処するなど、住民の胃袋事情に影響が出るようになり始め、不満が募るようになったらしい。

中でも、大きな時間のロスになってしまっていた配達業務を断り、受け取りに来るよう要求したところ、ついにその配達を依頼していた職場の人間が怒り出し、ほぼ連日、市民管理担当官を出せと領主の館に赴くようになった。

領主の館に赴く人間は2日3日経つにつれ増えだし、絶えず館の前で怒号が飛び、果てには市民管理担当官の家に石が投げ込まれるようになったところで、ついに「行政が進まない」という理由で罷免とされたらしい。


民衆相手に騎士をけしかけない辺り、中途半端なところで民主化が進んだ変な王国だという感想を持つと同時に、意外と懸念したほど経営環境は悪化していないらしいことに安堵を覚える。

「俺がいなくても何とか回っているらしい」

懸案事項は一つ消えた。

しかし一難去ってまた一難。

また大きな懸案事項を抱えてしまった格好になってしまっている。


手紙を元の封筒に収め、ベッドにそのまま横になる。そしてグラハムは現段階で目下最大の懸案事項と化した、ベッドの下に鎮座する忌々しい「洗濯樽」を睨みつけた。

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