4 パン屋ハリス

「おはようございます親方」

と店の奥から声を掛けられる。

まだ少年と呼んでも差し支えのない、幼い顔つきのロメオ・バタイユが階段を降りて来るところだった。

グラハムの記憶によると、どうやらこの世界、チリン王国におけるパン屋というものは、師弟制で、弟子に一つ一つ教えていくという形態を採っているらしい。

つまり、一丁前になる頃にはもう三十路を回るくらいになる。

店主となればなおさらだ。


「まず君は、この町でパン屋を営む若者だ。これは珍しいことなんだよ?」

先ほどのあの男の発言をグラハムは思い出す。

確かに今持ち合わせている常識から判断すると、20歳そこらの男が店主をやっていることは相当に珍しい。


時計を見やると、朝の仕込みが迫っている。

中世、と聞いていたがどうやら家庭用の振り子時計が普及する程度には技術レベルは進んでいるらしい。

さて、ぼんやりとはしていられない。

グラハムが調理場に行くとロメオと、もう一人の弟子、ロランは既に窯に火をくべ、焼き上げの準備を終えていた。


倉間晴彦の頃はパンを焼くどころかこねたことすらない。精々がサンドイッチか、子供の頃、親が焼くからと手伝いで作ったピザがおぼろげな記憶として残っている程度だ。

だが、グラハム・ハリスとしての能力なのか、何故かノウハウは把握している。

ロメオとロランが交代で窯の火を一定に保つ。この火の勢いにパンの全てがかかっている。

時にグラハムも火の番を代わり、2人にあれこれと教示しながらパンを焼き上げる。


11時。

焼き上がったパンを、布を引いた木箱に詰める。

そしてその木箱を3箱載せた荷車をロランは引き始める。

一部の労働者は雇用主からの食事が給料に含まれていることもあり、その配食用にグラハムのパン屋が配達に当たっている。

今日の配達はロランが当番になっている。


11時30分。

あらかたの商品が焼き上がったあたりで一部は紙袋に詰め、窯の近くに置く。

冷めないようにするための工夫である。


店にはショーウィンドウを兼ねた小さなカウンターがあるが、陳列棚といったものはない。

少量ならばショーウィンドウで対応出来るが、基本は注文に応じて調理場からロメオとロランに持って来させている。

かつてはどうやら、広い店内を利用してあれこれと陳列していた跡が伺える。

だがグラハムの記憶によると、今は昼時に大量に来店する労働者たちのため店内スペースをより広く活用しているようだ。


12時を回ってすぐにジェイムズが店に来た。

カウンター奥に置いてあった紙袋と銅貨を交換する。

同じような特注パンの客が次々と現れては、銅貨と紙袋を引き換える。

本来なら今日初対面の相手しかいないはずなのに、全員の顔と名前と注文したパンの内容が頭に入っていることに軽く恐怖を覚えながらも、グラハムは淡々と業務をこなす。


13時を回ったあたりでロランに、その30分後にロメオに昼食を取らせる。

このためにパンを少し多めに焼いておくのだ。

日替わりで配達に向かった方が先に休憩が取れるように交替している。


ひとしきり売れて、そろそろ休憩にしようかと考える。

時計は14時前を指している。

ロランと入れ替わるように店の奥に入る。

二人とも気の利く弟子で、グラハムが昼食を取ろうというときには、テーブルにパンと、家庭菜園から朝収穫した野菜で作ったサラダが盛り付けてある。

これもグラハムの教育の賜物かと苦笑する。


しかし、パンを一口食べて違和感を覚える。

二口、三口と進むにつれ違和感はより重みを増して味覚に襲いかかる。

あまり美味くない。

何というか、味気ない。

ストレスで味覚が変になったか?

いや、そこまで激しいストレスは覚えていないとグラハムは自己分析を下す。

となると、単純に不味いのだろう。

今時のパンに比べ堅いし味もそこまで良くない。

自然の味と言えばそこまでなのだろうが、どうにも口に合わない。

グラハムは知る由もなかったが、実は味覚は倉間春彦のものをそっくりそのまま引き継いでいる。


どうやら改良の余地がありそうだとグラハムは考える。

手始めにこの味覚が正常なのかどうか確認することにした。

「ロメオ、ロラン、ちょっといいか?」

夕食分のパンの仕込みを始めている二人を呼び、質問を投げかける。

「最近、俺のパンの味が落ちたりはしてないか?」

二人は顔を見合わせて、そんなことはないと言う。

正直なところを言うように言っても、不思議そうな顔を浮かべ、美味いですよと口を揃えて言う。

嘘をついているそぶりはない。

分かったありがとうと言って二人を元の作業に戻す。

どうやらこの世界ではこの味は美味い部類に入るらしい。

このパンについては後で考えることにしよう。

そう判断して、夕方分の仕込みに取り掛かることにした。


夕飯時になると、客層は労働者だけでなく、一般家庭の主婦たちも姿を見せる。

そこでも、グラハムとしての記憶力がいかんなく発揮される。

例えば、今店に入って来たトマソン夫人もそうだ。

トマソン夫人の家は5人暮らし。

夫人とその母親のパンは少し小さいものにするという注文をいつも受ける。

あらかじめ用意しておいた紙袋と銅貨を交換すると、夫人はいつもありがとうと言って店を出る。


あまりにも記憶力が良いことに相当な恐怖を感じる一方、この世界におけるグラハムの立場を理解する上での心強さを同時に、グラハムは感じていた。

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