18-02 ちょっと、血なまぐさい……かな

 おもわず顔を上げてしまったことで、俺たちは、ふたたび見つめ合ってしまう。


 すぐ近くにある彼女の顔は、微笑ほほえんでいた。


 そのとき、はじめて気づく。

 この子の笑顔を、俺は、いま、はじめてみたのか。


 ――この子の笑顔をみるために、俺は、ここにきたのか。


 涙にれる、彼女の笑顔が、そこにあって、


「ありがとう、とても、嬉しい」


 やわらかく、やさしく、彼女は俺をつつんだ。

 俺の頭はまっしろになって、

 それでも、涙と、鼻水と、声が、止まらなくて、

 止まらないまま、声を上げて、泣いた。


 榛名に、抱かれつづける。

 彼女の呼吸の、心臓の、鼓動こどうを感じながら。


 そのわずかな揺らぎに、身をゆだねた。


 このままでもいいのかもしれない。


 いつまでも、というわけにはいかないだろう。けど、いまこの瞬間を、大切な記憶に残しておくためにも、やっと得られたこの時間を、ゆるすかぎり、しずかに過ごすのもいいのかもしれない。




 どれだけの時間が過ぎたのか、わからない。


 やっと気持ちが落ち着いて、落ち着いてしまうと、彼女に包まれているその状況が恥ずかしくなって、心地よさと、けれど、彼女をみたくなって顔を上げてしまう自分がいた。


 そうすると、もう一度、俺たちは見つめ合ってしまう。そして、おたがいに顔をそむけてしまって、最初の状態に戻った。けど、最初よりも、ずっと、気持ちは落ち着いていた。


「えっとね……ちょっと言いづらいこと、なんどけど」


 榛名がうつむいたままつぶやいた。


「ん?」

「ちょっと、ね、血なまぐさい……かな」

「え……? あ、たしかに」


 おたがいに顔を見合わせて苦笑にがわらいした。


「あと、のどもかわいた、よね?」

「……そう、だな」


 榛名の言葉に同意どういしてみたけれど、いまの俺たちは追われている身だ。この状況で、車から出るのは危険きけんすぎるだろう。榛名もそのことは理解しているはずだ。


 ……ってことは、現状を把握している俺の判断をあおいでいる、ってことなのかもしれない。


「傷の手当てあてはともかくとして血だけでも洗い流したいけど、警察けいさつCIAシーアイエーは、いまも俺たちのことを探しているはずだ。だから、このまま車内しゃないにいたほうが――」


 と、最後まで言いかけたとき、カシャ、と車のドアロックがはずれる音がした。


「……え? ZOEゾーイ?」


 通信つうしんようの左耳のイヤフォンからの反応は無い。

 だが、この車をここまで運転してきたのはZOEだ。ドアロックの操作そうさも当然できるだろう。てことは、


「いまは会話は出来ないけど、俺たちが車を出てもいいってことか?」


 カシャカシャ、とドアロックピンがさがったあと、もう一度上がって解除かいじょされた。ロックが外されてたままってことは――


「……出てもいいってこと、だよな」

「ちょっと、かわいい」


 榛名がそうはっしたあと、ハッとして、彼女の顔は赤く染まっていく。


「……あの……その……ゾーイさんは、さっきの、見てたの?」


 榛名の問いに、カーナビゲーションが間髪かんぱついれずに、ピッと音を立てて起動きどうした。


 榛名は、両手で顔を挟んでもだえた。


 そりゃ聞いてはいるよな。

 俺も恥ずかしいといえば恥ずかしいけど、予想はついてたから榛名ほどのダメージはなかった。……なかったはずだ。


 榛名のほうを向くと、真っ赤になった右耳が見えた。

 その横顔がハルとかさなってみえた。


 胸がめつけられるのを感じた。




 俺たちは屋外おくがい駐車場ちゅうしゃじょうからショッピングモールへと入った。

 館内かんないは、よくある縦長たてなが構造こうぞう沿って三階までけられていた。午後の外光がいこうがガラス張りの天井てんじょうから差し込んでいる。夕食時ゆうしょくどきのすこしまえなので、人はまばらで、落ち着いた空気が漂っていた。


 俺たちは、館内中央ちゅうおうから横にそれたところにあるトイレでわかれた。

 洗面台せんめんだいにあるかがみをとおして、おのれつかてた顔を見る。


 ひどい顔だ。


 目につくのは、あのナイフ使いにかすられた頬と、あの眼鏡めがねを跳ね飛ばされたときにできたこめかみの傷。


 この二ヶ所の傷は、収束しゅうそくにつけられたものだろう。

 今回も一度死んだわけだ。俺にとって、収束可能な回数かいすうの残りは、あとどれくらいなんだろう。けれど、正直なところ、あの地獄のなかで一回だけで済ませられた、というのが本音だった。残機ざんき感覚になっていること自体、自分の命の重さに対する認識がゆがんでしまっているのかもしれない。


 すこしは眠れたとはいえ、いまだに体は重い。

 今回の収束で、またかなり体力が消耗しょうもうしてしまったのだろう。もしこのさき今回以上の事態におちいり、収束を繰り返えさざるを得なくなってしまったら、俺の体はどれだけもつのだろうか。


 榛名は、八月七日の海への転落てんらくで三回の収束を経験しているはずだ。地下駐車場や今回だって、俺はこのざまなのだから、彼女の経験した疲労は、すさまじいものだったにちがいない。みずからを犠牲ぎせいにしようとしたことといい、この霧島榛名という子は、とんでもない精神力せいしんりょくがある子なのかもしれない。


 彼女の右手は大丈夫だろうか。

 拳銃けんじゅう自殺じさつをとめるためにハルが放った銃弾じゅうだんが、彼女の銃を弾き飛ばしたときに出来た怪我けが。彼女の様子から、かすり傷程度のように振舞ふるまっていたから安心していたけど、気丈きじょうな性格のあの子のことだ、我慢がまんしていたのかもしれない。

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