17-06 ――ありがとう、ハル

 左のイヤフォンから、霧島榛名の声が言った。


「ZOE!」


 ジャミングから回復かいふくしたのか。

 どれだけの時間が経ったんだ?

 だがそれよりも、


「たのむから榛名以外の声にしてくれ!」

「実行部隊、動き出しました。監視カメラが死角しかくへと操作されています。警視庁および公安警察による、お二人の確保の阻止そしがねらいです」


 大人びた女性の声に変えたZOEが言う。

 ディスプレイに表示された俯瞰図に、あらたに六つのポイントが追加された。ポイントは、整然せいぜんとした動きで、駅構内を囲むように移動していく。


「磯野さん、榛名さんを連れて行ってください。日本政府はこの状況に乗じて、あなたたち二人を確保しようするでしょうが、わたしがここで食い止めます」

「ハル、おまえは――」

「大丈夫、わたしは表向き手出しが出来ないはずです」


 ハルは笑顔を見せると、拳銃を周囲に向けた。


「……すまない」


 俺はハルに背を向け歩きはじめた。

 ハルもまた、俺たちのたてになりながら後退を開始する。


「動くな!」

「銃を捨てろ!」


 警官たちの警告けいこくと、悲鳴と泣き声が空間に響き渡った。


 この世界の日本の警官も、即座に発砲はしないのだろうか。

 そんな呑気な言葉が、なぜか頭に思い浮かんだ。ハルの影に隠れていることを確認しつつ、霧島榛名を守りながら、一歩、一歩とまえに進んでいく。


 改札を通り抜けた。

 階段までの距離は、あと五メートル。


 階段に踏み込みさえすれば、少なくとも狙撃手の射界しゃかいからは逃れられる。


「わたしは合衆国政府の保護下ほごかにあります。銃を下ろしてください」


 背後でハルが声をあげた。


 警官の一人が、銃を向けながら携帯無線むせんのマイクを口元に当てて、「了解りょうかい」と口にするのが聞こえた。それと同時に、六人の警官が、俺たちに向けて射撃体勢に入った。


「走って!」


 俺は声と同時に、榛名の手を引き走り出した。


 間近まぢかでの乾いた破裂音と、空間を響かせた破裂音が、同時に聴覚ちょうかくを埋め尽くす。


 走る、走る、走る。


 俺は榛名の手を掴みながら、前のめりになりながら、階段へ。


 あともう少し。

 あと数メートルを、

 全力で、


 俺はそこで、榛名をかばおうと掴んでいる手を引き寄せ、振り返ってしまう。


 俺の右胸を、銃弾が、貫いた。


 撃ち抜かれた衝撃が、俺の身体を、ゆっくりと後ろへと押していく。


 目を見開き、絶望の色を浮かべていく榛名。

 彼女の肩越しに見える数名の警察官もまた、赤い霧を発して倒れ込んでいく。


 無数の悲鳴が構内に響きわたり、直後、警官たちと思われる悲鳴がそれに混ざった。


 世界がまた、地獄と化す。


 ――複数の狙撃手がいるのか。


 ああ、そうか。

 実行部隊の六つのポイント、あの全部が、


 ――狙撃手なのか。


 俺の脳裏にその言葉が走ったまま、


 視界が、

 ゆっくりと、

 天井へと落ちていく。


 ――警視庁は当然として、我々やZOEをも含めて、キリシマ・ハルナさんの確保を、CIA側が出し抜こうとしているということだ。


 ライナスの言葉が、頭に浮かび上がる。


 ――CIAは、表向きには不明というかたちで、キリシマ・ハルナさんを回収し、「人質」として我々の行動を制限してくるだろう。


 ……そうだ。実行部隊は警察を消したあと、ゴーディアン・ノットの仕業しわざにしたうえで、俺たちを捕獲ほかくしにくるんだ。そのまえにも、早く、


「磯野くん!!」


 彼女の、その声と同時に、


 ――時間は、リアルタイムで動き出す。


 駆け寄る榛名が俺を支えようとして、二人とも床へと倒れ込んでいった。


 まずい……。

 はいが……息が……出来ない……。


 右のてのひらにある拳銃を動かそうとするが、あふれる血で肺が圧迫あっぱくされ、痛みに耐え切れない。


 泣き叫びながら、ふたたび俺の名を呼ぶ榛名。


 やつら、心臓を外してやがる。

 完全に足留めを食らわされた。


 ――どちらにしろ、長くはもたない。


「……撃ってくれ」


 出ない声を、肺のなかの空気を振り絞って、俺は榛名に言う。

 榛名は、やっとのことで伝えたはずの俺の言葉に、泣きながら首を振る。


 榛名、おまえがいちばんわかっているはずだろ?

 一秒でも早く、俺が死ななきゃ……。

 収束出来る世界が消えていってしまう。

 すべてが、手遅れになってしまう。


 ――そのまえに、お願いだから。


 遠くで、複数の秩序ちつじょった銃声が響いたような気がした。

 おそらくまた、警官が撃たれたのだろう。


 意識が遠のいていく。


 それでも、しばらくは死ぬことは出来ないだろう。

 それが、とても、口惜しかった。


 カチャリという鉄の音が、耳もとで木霊こだました、ような気がした。


 そうだ。それでいい。

 俺はまたすぐ生き返る。

 だから、そのまま引き金を引いてしまえば、それで――


 ほとんど聞こえないはずの俺の耳が、一つの声をとらえた。


「――榛名さん、それはダメです。あなたは、あなたじゃ、記憶が残ってしまうから。……わたしが、やります」


 その声は、涙に震えていた。


 ――ハル。


 俺がハルの手によって殺されたところで、収束後の世界になれば、その記憶がハルに引き継がれることは無いだろう。たがらこそ、榛名がやろうとするのをハルは止めたんだ。けれど、ここで俺を殺すということは、


 ――ハルが大切にしていたエレベーターでの記憶。俺と彼女との記憶。そのオリジナルだったこの世界を断ち切ってしまう。


 ――それも、彼女の手によって。


 声が、俺に、彼女の顔を思い起こさせた。

 駐車場へと至るエレベーターでの、彼女の顔。

 屋敷での、俺を抱きしめたときの、彼女の顔。

 上着を手渡してくれたときの、彼女の顔。

 その顔は、どこまでもまっすぐで、誠実で、


 愛おしかった。


 ――ありがとう、ハル、

 ――ごめん、ハル。


 彼女の悲鳴に近い叫びとともに、一つの衝撃が、俺を埋め尽くした。


 それは、俺が望んでいたはずの、けれども、どうしようもなく名残惜しい、死へと至る世界からの、別れだった。

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