16-02 あのとき、わたしに言ってくれましたよね

 彼女の両手りょうては、俺の拳をつつみ、止める。

 それは、やさしく、しかし強い意志いしのようなものがあった。


「……ハル、なぜ」


 その言葉をはっし、彼女と目を合わせた。

 彼女の目は、まっすぐに、俺に向けられている。

 その、思い詰めたひとみに、俺は気づく。


 彼女は覚悟かくごを決めていたんだ。


 世界のために、おのれを犠牲ぎせいにする覚悟を。この世に生を受けたその存在そんざい理由と、せられたその役割やくわりをまっとうするために、彼女はこれまでを生きてきた。そのためにみずからが犠牲になるのは仕方がないことだということ、そう、彼女は、運命うんめいを受け入れている。


 そうだ、だからこそ俺は怒りをぶつけしまった。

 さっき、二階のあの部屋で、ハルは、これまでのことにこらえきれずに、感情かんじょうれ出してしまったんだ。


 彼女は限界げんかいだった。

 ZOEとライナスは、そのことをはじめからわかっていたんだ。彼らの理屈りくつからすれば、その原因を作ったのは、研究所から彼女を連れだしてきた俺なのだろう。だけど、だからって、


 ――彼女を見殺みごろしにするなんて、そんなやり方はないだろう?


 ハルにしてみれば、俺に限界をみせてしまったことで、負わなくていいはずの負い目を感じてしまったんだ。だからいまも、彼女は、俺を止めようとしている。


 俺は、彼女を自己じこ嫌悪けんおさいなませ、悲しませてしまっている。俺のせいで。


「……すまない」


 俺は、ライナスをつかんでいた左手を、離した。

 たましいが抜け落ちたような感覚に襲われ、その場でうつむいてしまう。すべてをぶつけられる筋合すじあいなどライナスには無いだろうに、俺は、いきおいのまま、怒りをぶつけるための言い訳にしてしまった。


 それでも、わかってはいても、この怒りという名の衝動しょうどうは、それをゆるさない。


 どうしようもない。


 行き場の無いこの怒りは、どこにぶつけることも出来ない。


「――磯野いそのさん」


 彼女の手を振りはらう。おのれが生み出してしまったどうにもならない理不尽に、この場所にいることに耐えきれなくなって、俺は、客間きゃくまから立ち去った。



 逃げ出したんだ、俺は。

不条理ふじょうりに耐えて戦っている彼女と、それを受け入れながらも、彼女にそれをいることしか出来ない男のいる場所から。


 俺は、霧島榛名を救うための覚悟なんて、まったく出来ちゃいなかったんだ。三一日のあの夜、なにを犠牲にしても彼女を連れ戻すとおのれに言い聞かせていたはずなのに。


 こんなときでさえ、右肩の痛みが思考をさまたげる。だが、その痛みこそが、己の不甲斐ふがいなさをいましめ、情けないことに救いにも思えてしまう。自虐じぎゃくによる救いなんて、ただの甘えでしかないはずなのに。


 ラウンジから階段へ足をかけたとき、左手をつかまれた。

 その手は、まるでテコの原理げんりのように俺の身体を引き寄せる。


 ――え?


 いつのまにか、俺は、彼女に、

 抱きしめられていた。


「ちがうんです、わたし、」


 彼女は、涙を溜めた顔を俺に寄せた。


「あのとき、あなたが


 ――受けとめてくれたから――」


 受けとめた?


「――受けとめてくれたから、わたしのこころはこわれずにすんで、それで、だから、磯野さん、あなたのおかげなんです」


 あまりのことに、その言葉に、俺は固まってしまう。彼女のあたたかさとやわらかさを全身で感じてしまう。鼻にかかる彼女の髪のいい匂いに思考が飛んでしまいそうになった。


「……俺の、おかげ?」


 かろうじて出たおのれの言葉に、やっと我に返り、


 ――いや、ちがうだろう。


 そう、否定した。

 俺は、怒りまかせのまま、あんなことをしてしまったのに――


「ハルたちの覚悟を、無碍むげにしてしまったのに――」

「磯野さん、あのとき、わたしに言ってくれましたよね」


 彼女は俺を抱きしめたまま、耳元でささやく。


「あのとき?」

「あのエレベーターのときに言ってくれたあの言葉」


 ……エレベーターでの言葉?


 ――おまえは俺の命の恩人おんじんだ。つまり、りがあるってことだ。だから、今度は、俺が霧島きりしま榛名はるな


「――救い出す。いいか、わかったな」


 ハルは、声色を真似て、俺の耳もとでそっと言い、それから恥ずかしそうに、笑った。


「ZOEは、わたしを、磯野さんの脱出の手助てだすけをさせるために、わたしのいる場所まで磯野さんを誘導ゆうどうしました。その時点では、彼女は、わたしが負った精神的負荷によって今後の行動に支障ししょうをきたすと判断していました。けれど、」


 ハルは、まるでキスでもするかのような距離で、俺を見つめた。


「磯野さんが助けに来てくれて、わたしを人間にしてもらえたから。あのとき壊れかけていたこころを、あなたが受け入れてくれたから、だから、いま、わたしは、


 ――ここにいられるんです。


 そう言って、ハルは、もう一度、俺を抱きしめた。

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