15-05 ……ああ、これじゃあ、ダメだ

 目指す先には数台の車が駐車してあった。

 その中の射線の死角にある黒のSUV。距離はおおよそ一〇メートルだろう。


 死ぬ気で走れ磯野。もう一度、全力で死ね。そうすれば、二人とも逃げられるのぞみが、得られるかもしれないのだから。


「いきます」


 榛名の声に俺はうなずく。一瞬、彼女の瞳に、なにか、未練みれんのようなものを見た気がした。


 ……いや、


 彼女は俺から目標へと顔を戻し、一気に――


 ……このままじゃ、


「榛名! 待て!」


 ……ダメだ! 二回目なんだよ!


 だから今回は最初から榛名を狙ってくるはずなんだ。

 そんな中、榛名を先に走らせてしまったら、


 ――やつらの格好かっこう標的ひょうてきにされちまうだろ!


 すでに走り出した彼女の華奢きゃしゃな背中が、一歩、一歩、俺から離れていく。左から銃撃が起こり、彼女の前後を無数の銃弾がかすめていく。


「……ああ、これじゃあ、……ダメだ」


 クソッ、榛名は俺に思考を、考える時間を与えずに飛び出したのか。この――


「ばかやろう!!」


 俺は銃撃の空間へ一歩踏み出す。

 あまりにも、ゆっくりと。急いでいるはずなのに。脚を前に出しているはずなのに。コンクリートがはじけるのを越えながら、痛みにえながら、それでも一歩、一歩と、前にある空間へと重心じゅうしんを移していく。


 走れているのだろうか。

 俺には解らない。

 周囲しゅういを意識する力もない。

 それでも前に、少しでも前に。


 彼女が、振り返った。


 ダメだ。頭を、頭を下げてくれ榛名。

 俺にかまわず車までたどり着くんだ。俺は、殺されても死なない。だから、早く――


 左ふくらはぎに、衝撃が走った。

 支えられるはずの体が、崩れ落ちてしまう。


 足を止めるな。今度は、やつらは俺を殺すようなミスは犯さないだろう。確実に生け捕りにしてくるはずだ。撃たれたのなら、殺されにいけ。時間があるなら、逃げ延びろ。


 思考だけがからまわりし、視界が暗くなる中、俺は左腕を引きづられていく。


 ――捕まったのか? 


 ダメだ、ダメだダメだダメだ。

 それじゃあ……ダメなんだ。撃ち殺してくれなくちゃ。……頼む、お願いだから俺を――


 意識をしぼりだして頭を上げると、そこにいたのは榛名だった。

 ……よかった、生きている。銃創をかばい、俺の左肩をかつごうと、彼女は、俺の体を持ち上げた。


 敵は? ダメだ、こんなところで俺をかついで平気へいきな――


 左からの衝撃が俺たちを襲った。

 グラリと倒れ込んでいく榛名に引きづられてしまう。


「あ」


 血しぶきが。いつのまにか、顔に。


「……榛名?」


 俺たちはそのまま沈み込んでしまった。

 起き上がれないまま、動かなくなった彼女を感じながら、足音が近づいてくるのを、俺は待つしかなかった。


「目標は生きています!」

「よし」


 頭上ずじょうから男たちの声が響いた。


 榛名は、死んだのか? 

 死んだのか。


 死んだ、なんて……そんなことは、


「そんなこと! 絶対ぜったいにッ!!」


 俺は上体を無理やり起こして、そばにいた警備員の、右腰のホルダーから拳銃けんじゅうを引き抜いた。


「くそおおおおおおおおお」


 グロック19。そうだ。安全あんぜん装置をはずして、俺の、こめかみに――


「よせ! 磯野君!」


 引き金を



 ――引け!



 があんという轟音ごうおんと衝撃が、左のこめかみから脳内のうないへ貫いていく。

 八月七日で経験けいけんしたのと同じ衝撃をふたたび感じた。


 こと切れるまでのわずかな時間、

 己がやり遂げたことの達成感たっせいかんみたたされ、

 消えた。





「磯野さん! 離してください! はやくしないと――」


 生存世界への収束。

 俺の生きている世界へ、ふたたびたどり着く。


 またもやのしかかる鉛のような体の重みに襲われた。が、それでも、いまにも柱から飛び出そうとする彼女の右腕をしっかりとつかんでいることに俺は気づく。


 俺は無理やり、彼女を抱き寄せた。


 彼女のあたたかさを感じる。

 息づかいを感じる。

 彼女は生きている。

 生きている、まだ。


 それなら、


 ――望みはある。


「……磯野さん」

「榛名、俺から離れるな」


 俺と榛名は同時どうじに柱から身を晒した。

 予想よそうされた銃撃は起こらなかった。


 負傷ふしょうしている俺の右肩を彼女に背負ってもらいながら、射線から霧島榛名を覆うように俺が盾となる。一歩動くたびに、痛みに気を失いそうになる。けれども、これなら――


 敵は撃てまい。


 一歩、一歩。

 駐車してある数台の車の陰まで、あと五メートル。ゆっくりではあるが、確実かくじつに進めるんだ。あとは、やつらが回り込んでくるのが先か、車まで逃げおおせるのが先か。


「もうすこしです」

「……ああ」


 そう答えたとき、左肩に振動しんどうが走った。

 目を向けたさきに、さるものが見える。


 ――麻酔銃を撃たれたのか。


 ダメだ。いま意識を失ったら立ち往生してしまう。

 脚を動かせ。一歩でも前に進め。一歩でも――



 かすかに取り戻した意識が、弾力だんりょくのある衝撃を背中に感じさせる。

 失われていた聴覚ちょうかくが、激しい轟音を感知かんちした。二発、三発と、間近で鳴り響き、その度に、おのれの鼓膜こまくのすべてを埋め尽くす。直後ちょくご、キーンという耳鳴みみなりが世界を覆った。


 両脚りょうあしを、身体を、右肩をかばうように向きを変えられた。

 終わらない耳鳴りが世界を支配するなか、左肩に女性の匂いを感じた。


 突然、後ろにむかう重力じゅうりょくを感じ、右まわりに回転するような遠心力えんしんりょくが加えられたのち、小刻こきざみなれが延々えんえんと続いた。


 頭を抱き寄せられた。


 やわらかな感触に埋もれながら、耳もとに、もう一度、心地よい声が聞こえた気がした。


「大丈夫。あなたは生きています。だから、もう、大丈夫」


 その声は、泣いているようだった。

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