00-01 八月七日一〇時二一分三七秒


 雨、雨、雨。

 悲鳴を上げる両足と、心臓の鼓動こどう


 坂道をのぼる視界が、土砂降どしゃぶりでさえぎられてしまう。

 雨なのか、汗なのか、涙なのか、もうわからない。


 俺の行く手を阻んでくる、世界。

 それでも、一秒でも速く、速く、彼女に、追いつきたかった。


 なぜ、みんな、黙っていたのか。

 俺を巻き込みたくないと、彼女が言ったのを、なぜみんなは、真に受けたのか。


 走れ。

 走れ。

 もっと走ってくれ。


 一〇時二一分三七秒まで、

 たぶん、あと、残り一〇秒。


 世界が、変わってしまうまえに。

 彼女が、



 ――消えてしまうまえに。



 止まらない涙とともに、俺は、



 ――彼女の名を、叫んだ。





「なぜ泣いてるんだろう」


 その言葉が、りそそぐシャワーをかき分けて耳へと届く。直後、いつの間に吸い込んだのか、肺を満たす大量の空気に思わず咳込せきこんだ。過呼吸かこきゅうおぼれるような苦しさと、焼きつくような胸の痛み。かがみ込んだまま手をのばし、流れっぱなしの蛇口じゃぐちをひねった。


 呼吸が落ち着くにつれて、換気扇かんきせんの回転音が浮かび上がる。窓から差し込む八月の日差ひざし。白で満たされたバスルーム。


 頬をつたっていた感触かんしょくがよみがえる。


 すでに流されてしまったのか、そもそもそれが涙だったのか、いまとなってはわからない。ただ、なにか、必死だったような、ざらついた感覚かんかくだけが胸に残っている。


 ――違和感いわかん


 ほんの一瞬いっしゅん。けれど、その一瞬には到底とうてい入り切らない、感情のかたまりのようなものが、そこにあったかのような。最初の一秒と、次の一秒までのあいだに、途方とほうもない時間と、途方もない情動じょうどうが、そこにあったように思えて。


 こういうのなんて言うんだっけ? デジャヴュ? ……いや、ちがう気がする。どうにも説明のつかないこの感覚に、頭をめぐらせていることが馬鹿らしく思えてきた。少し疲れているのかもしれない。


 俺はバスタオルを肩にかけたなに置いていた、その丈夫さゆえに世界中から愛されている、去年五千円で買ったジーSHOCKショックを手に取った。



 八月七日 午前一〇時二二分。

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