第6話 20年後の交唱(アンティフォナ)
「あれ?豊川主任、タバコやめたんですか?」
春休み中に見かけていた時は、昼食を終えると真っ先に喫煙室に入っていた鋳造部門の豊川主任が、なんとなく手持無沙汰な様子で休憩室のテーブルに着いたままでいた。
土曜日なのでほとんど人はいないが、それでもガラスで仕切られた喫煙室には5人ほどが煙に霞む中で一服している。
主任の前には奥さんの手作りらしく、クロスで包まれた弁当箱が置かれていた。
「主任はね、子供ができたからタバコはやめたんだよ」
「あのヘビースモーカーで有名だった豊川主任がねぇ。3日も続かないんじゃないかと思ったけど、もう3か月?」
国立さんと赤樹さんがからかうと、豊川主任が照れくさそうに頷く。
「いやあ、この機会に子供の為にも健康の為にも、禁煙しようと思ってさ。双子なのは分かっていたんだけど、先週、それが女の子だって分かってね」
内心話したくて仕方なかったらしく満面の笑みで話し出す主任を、こういう話題の好きな女性陣が盛り上がって取り囲む。
「わあ、そうなんだ!」
「女の子か~。じゃあ将来、“娘さんを僕にください”って来たら、“俺を倒せたら結婚を許してやる”とか言うんだね」
「それで、娘に“そんな事言うパパなんて大嫌い”とか言われるんでしょ」
「で、瞬殺されるんだ」
大笑いする2人をニコニコ眺めながら、それでもクセなのだろう、タバコを探すような素振りでポケットを探っては、何も出さずにその手をテーブルに置く。禁煙は難しいと聞くけれど、本当にそうらしい。
それに気付いた赤樹さんが、さり気なく話題を振る。
「どうせやめるんなら、“つもり貯金”してみたら?」
「つもり貯金?」
「そう。タバコを吸った“つもり”で、その分の金額を貯金。大した金額じゃないかもしれないけれど、それでも“貯まったお金で、ちょっといいベビーカーを買おう”とか励みにできるでしょ?」
「なるほどね。うーん、どうせ目標を決めるなら、奥さんに何かしてあげたいかな。身体しんどそうなのに、いつもこうして弁当作ってくれるし」
その言葉を聞いて、懐かしくて温かい思い出がよみがえった。
「――だったら、パールのネックレスをプレゼントするのはどうですか?」
「パール?」
「子供の頃、祖母が話してくれたんです。子供が――つまり僕の父が生まれた時、祖父が“よく頑張った”とパールのネックレスをプレゼントしてくれた事がとても嬉しかったって」
今はもう亡くなってしまったばあちゃんは、そのパールのネックレスをとても大切にしていた。
『JEWELEY SAIHARA』の前身、立ち上げたばかりの西原貴金属の業績は決して芳しいものではなく、それでも苦労を共にし、いつもそばで励ましてくれるばあちゃんにサプライズでプレゼントしてくれたそうだ。
花珠のようないいものではなかったけれど、それでも粒の揃った1連のネックレスを身に着ける事ができるのは、とても誇らしかったという。
「流行に左右されないパールは、長く愛用できますから。それにとても理に適っているんですよ。これから先、お子さんの入学式とか卒業式とか、重宝する場面はたくさんあるはずです」
「……なるほど。それ、すごくいいかも」
少し驚いたように頷いた豊川主任に、目を輝かせた国立さんがかぶせる。
「じゃあさ、絶対ロングネックレスにした方がいいよ!」
「ロング?なんで?」
「だって、生まれてくるの、双子ちゃんなんでしょ」
「そっか!二十歳の記念の時とかに、2本に分けて――」
きゃあ、素敵!と、国立さんと赤樹さんがはしゃいだ声を上げる。
パールのネックレス。
リペア課によく依頼があるのは、“糸替え”だ。
切れた、または緩んでしまった糸を新しいものに交換する事で、いつまでも愛用できる。
それだけではない。
糸替えの加工時に糸から外してパールをバラバラにする際に、数ピース外してピアスやイヤリングに加工したり、トップを新たに作る加工を依頼される事はけっこうあるのだ。
ロングネックレスであれば、2連のネックレスに作り替える事もできるし、国立さんの言うように2本に分けて、娘さんたちに1本ずつプレゼントする事もできる。
“――大きくなった2人の娘の前に、そっと置かれた2本のパールネックレス。
「二十歳の誕生日、おめでとう。よく立派に育ってくれたね。これはお父さんとお母さんからのプレゼントだよ」
「これはね、あなたたちが生まれた時に、お父さんがお母さんにプレゼントしてくれたものを2本に分けたのよ。入学式とか卒業式には、いつもお母さんが着けていたでしょ?」
「うん、お母さん、これ着けている時、いつもすごく嬉しそうだったよね」
「あなたたちがお腹にいるって分かった時、こうしてあなたたちにネックレスを贈りたいって、お父さん本当に頑張ってタバコをやめてね」
「いつか、お前たちが母親になった時にも、こうして自分の子供に贈って、思いを継いでいきなさい」
「お父さん、お母さん……!」
驚きと感激で目を潤ませる娘たちを前に、微笑み合う、今より少し歳を取った俺と嫁――……”
「主任!顔、顔!めっちゃニヤけてる!」
「妄想タイムは終わった?」
慌てて表情を引き締めてから、豊川主任は晴れやかに笑った。
「ありがとう。たった1時間の休憩がすごく有意義な時間になったよ。俺1人じゃ、絶対思い付かなかった」
休憩時間の終わりを促す予鈴に立ち上がる主任に、僕らは顔を見合わせてから声を合わせる。
「2本に分ける加工の際は、ぜひリペア課へ!」
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