第4話 受難の午後への前奏曲(プレリュード)

隣で国立さんが大きなあくびをした。

「眠そうですね」

「うん……昨日遅くまで、みんなの二つ名を考えてて……」

「は?」

何を考えてたって?

「ほら、“ナントカの魔術師”とか、“ナントカの宝石箱やー”とか、そういうの」

あんたは中二病か。それに後の方のヤツ、違うし古いぞ。

「今“こいつ中二病か”って思ったでしょ」

「いや!?そんな事ないですよ!?」

しまった、顔に出てたか?

「いまや一億総中二病という時代なんだから、この程度、大して恥ずかしくもないでしょう?」

「そうなんですか?」

「だって“キラキラネーム”って、はっきり言ってただの中二病じゃない」

「そう……ですね……」

言われてみると、そんな気がしないでもないが、なんとなくあんまり認めたくない。

「あと某有名歌劇団の芸名とか、明らかに伝統的中二―――」

「あああああ、ハイハイはいはい!そのくらいにしておきましょうね!?」

「まあ、冗談さておき、やっぱそろそろあだ名は付けたいよね」

「なんか親密度が増しますもんね」

「よし、今日の昼ごはんはパワーランチと称して、食べながらみんなであだ名を考えよう」

「つまり、いつも通りの昼食って事ですね」


言いながら、国立さんだけでなく今日はみんな、いやに身体が重そうだと気付く。

「昨日、なにかあったんですか?あ、金曜日だから飲みに行ったとか?」

「残業を少々」

「そ、それはお疲れさまでした。どのくらいやってたんですか」

「日付が変わるくらいまで?」

「全然“少々”じゃないじゃないですか!……何がそんなに大変だったんですか?」

「月曜日に納めるネックレス2000本の仕様が間違ってる事が分かったのが夕方でねぇ。そっから直しに入ったもんだから、みんな夜中まで付き合っちゃったんだよね。今日も何人か出てきて、やってるよ」

どうりで。


土曜でも、他の部署で出てきている人はいつも数人いるのだけど、今日は人の気配というか会社の雰囲気から、かなりの人数が来ているようだとは思っていたのだが。

ただ、春休みから就業時間より早めに出勤する癖が付いているので、ロッカーで他の人と顔を合わせる事はほとんどない。下の階の機械などを使用する時などにごくたまに遭遇する程度か、昼に食堂で”今日はけっこう来てるなあ”などと思うくらいだ。


「僕たち、手伝わなくてもいいんでしょうか?」

「ん~、こっちの仕事が一段落したら、声かけてみようかとは考えてるけど」

「やりますよ、僕も」

「そう?ありがとう。じゃあともかく、こっちの仕事を片付けないとね」



国立さんが割り振ってくれた仕事に目を通し、段取りを考える。

段取りとは、簡単に言えば“どういう順番で仕事を進めれば効率がいいか”だ。

そこは、ジュエリーの修理という特殊な職種なりの工夫が必要になってくる。


量産と違いほとんど仕事が1点のみの上に内容もバラバラで、分業が基本の工場で唯一、最初から最後までの工程を一人で受け持つリペア課だから、まずは全体的に把握する為に修理伝票を確認して完成までの工程を、頭の中でざっとシミュレーションする。

1点1点修理の内容が違うと言っても一連の加工には重なる工程もあるから、できるだけ、同じ工程をなるべく1度にできるようにし、そこに1日の時間軸を併せて考える。

朝一にやらなければいけない仕事、午前中にやっておきたい仕事、午後に回して大丈夫な仕事、集中力のあるうちにこなした方がいい仕事、じっくり腰を据えてやった方がいい仕事、ルーティンでできる仕事。

数とキャパ、工程や難易度などのさまざまな要素から優先順位をつけて、1日を組み立てる。


「まずはWG(ホワイトゴールド)からやっつけるか……」

WGはメッキが必要だから、みんなでまとめておいて当番の人がかける事になっている。決められた時間までに加工を終わらせておく為に、1番最初に片づける事が多かった。

大まかに段取りができた頃、予鈴のチャイムが鳴る。部署内朝礼の時間だ。

「――さて、今日も働きますか!」



「はいはいはいはい、メッキかけますよぉ」

午後1時半、午前中に加工したものをまとめてメッキする時間になり、本日当番の国立さんが手を叩く。


匠美鎖ではロジウムメッキとピンクゴールドメッキ、イエローゴールドメッキをかける事ができるが、主な作業であるロジウムメッキ以外はメッキ槽に入っているメッキ液を交換する手間がかかる為、小ロットの場合は外注のメッキ屋さんに依頼する事になっている。今から国立さんがかけるのもロジウムメッキだ。


メッキは大まかに言ってしまえば“かけるものを綺麗にする”、“メッキをかける”の2段階だが、そこにはたくさんの細かな工程が存在する。

酸洗い、超音波洗浄、スチーム洗浄、電解脱脂と呼ばれる電気を通して油分を取り除く作業など、かける物の状態に応じてメッキが綺麗にかかるよう充分に下準備をして、初めてメッキをかける事ができる。


リペア課で出るメッキ品は、ほとんどが使用されたもの――それも壊れるほど愛用されたものだから、垢などの汚れがひどい。その為、洗浄にはかなりの時間がかかるし、1度でメッキが乗らずに何度も洗浄を繰り返す事も多い。

その日の内容によって同じ点数でも時間がかかったり意外とすんなり終わったりと時間が読めない事もあり、当番が回ってくると少し憂鬱な作業でもあった。



今日も何かに手間取っているのか、国立さんが2階のメッキ室からなかなか戻ってこない。厄介な品があったのかな、などと考えながら作業していると、勢いよく3階フロアの扉を開ける音がした。


「ちょっとヒロ!今日やったオメガの塗り分けメッキ、ちゃんとよく乾燥させた!?」

昼休憩で決まったばかりのあだ名を呼びながら、国立さんが詰め寄る。

「え?え!?塗り分けたのは11時前くらいですけど……お昼挟んだから大丈夫かと思ったんですが……なんかまずかったですか?」

「マズいよ。すっごくマズい……係長、すみません!ちょっとメッキ室に来てもらえますか?」

国立さんのただならぬ様子に、貝中係長もあたふたと部屋を出る。

呼ばれたわけではなかったけれど、僕も気になり付いていく。


「うわっ……」


2人の間から覗き込んだメッキ槽は大惨事だった。メッキ液の表面には赤い油膜が浮き、真っ赤に汚れてしまっている。



”塗り分けメッキ”というのは匠美鎖でのスラングだ。


メッキは、電気を流す事でメッキ液に溶け込んだ金属イオンを定着させる加工の為、メッキする物の『全体』をメッキ液に浸さなければいけない。

部分的を浸すと、メッキ液に浸っている部分のみにメッキがかかるが、メッキ液の水面はどうしても揺れる為、きっちりとした境目にはならない。


YG(イエローゴールド)とWG(ホワイトゴールド)、YGとPt(プラチナ)など、2金性を使用したデザインを“コンビ”や“ツートーン”などと呼ぶが、WGが使われたコンビ製品はWG部分にのみメッキをかける為に、WGではない部分にメッキがかからないよう、コーティングをする必要がある。

このコーティング加工が必要なメッキを、”塗り分けメッキ”と呼んでいる。


コーティング剤には乾くとゴム状になるものなど色々なタイプがあるのだが、今回僕は、油性のインクを使用した。


油性インクはサラサラしていて筆で塗りやすく、落とす時も溶剤などに浸けておけば簡単に落とす事ができ、入り組んだデザインの塗り分けに使用するのにうってつけだ。

本当ならオメガネックレスの平べったいチェーン部分にはインクでなくてもよかったのだが、今日の僕の担当分にはもう1本コンビのリングの仕上げ直しがあり、このリングが意外と入り組んでいた為に油性インクを選択し、ついでにオメガの方も一緒に塗り分けたのだが。


「すみません……僕のオメガのせい、ですか……」

脱脂槽が何ともないのにメッキ槽が真っ赤になっているという事は、それしか考えられない。油性インクが赤だからだ。


メッキ装置には、脱脂液の入った脱脂槽と、メッキ液の入ったメッキ槽があり、通常の手順なら脱脂をした後にメッキをする――細かく言えば、この間には色々な洗浄工程があるけれど――のだが、塗り分けメッキの場合はコーティング剤の付いた状態で脱脂はできない――コーティング剤が剥がれてしまう――為、脱脂をした後に油分や汚れをつけないよう綺麗なゴム手袋をして、コーティング剤を塗布する。

つまり今このメッキ槽の惨状は、乾ききっていなかった油性インクが染み出してしまったという事だった。

「塗ったばかりだったの?」

困惑したように係長が問う。

「いえ、3時間は経っています……」


オメガチェーンは中芯のワイヤーに薄い地金のテープ材をぐるぐると巻き付けてあるような構造なので、テープ材とテープ材の僅かな隙間から中の空間にインクが入り込んでしまう。多少は仕方がないし、よく乾燥させれば問題もないはずなのだが。

「これ、筆にインクを含ませすぎて、オメガの中にインクが溜まって膿んでるんじゃないですか?」

国立さんの指摘にドキリとする。

インクは乾くのが早く、作業を手早く行わなければ筆もインクもすぐに固まってしまう。筆がたっぷりとインクを含んでいた方が滑りがよくて塗りやすいから、確かに調子に乗ってインクをたっぷり使った自覚があった。


“膿む”というのは絵の具や修正液なんかを厚ぼったく乗せてしまった時、空気に触れる表面は水分やアルコール、溶剤が飛んで一見乾燥して見えるが、膨らみを押すと中から乾燥していない液体が流れ出す状態の事だ。表層は固まってしまっている為に、中まで乾燥するにはかなり時間がかかる。それがオメガの表面に起きていたのなら気付いて潰す事もできただろうが、チェーンの中に溜まったインクの状態まで分かるはずもない。


「これ……メッキ液、全取っ替えですか?」

「うーん、このタイミングは厳しいなあ」

「いま、ロジウム上がってますよね」

「確か、先週取り替えたばかりなんだよね。稟議、通るかなあ」

匠美鎖では購入に10万円以上かかる物品の場合、上層部の承認を得る必要がある。つまりメッキ液の交換には10万円以上の経費がかかるという事だ。

恐る恐る、尋ねる。

「ロジウムメッキのメッキ液って、そんなにするんですか……?」

「うちは田井中貴金属から買っているんだけど、今の相場で――確か30万弱かな」

ひぃ――――――……

思わず声にならない悲鳴を上げてしまう。


30万をダメにした、30万をダメにした、30万をダメにした、30万をダメにした………!


失敗の重さに、ショックで動けない。

「僕、その……弁償します!」

「アホ」

国立さんに、軽くデコピンされる。

「お金で解決する事じゃないし、そんな立場でもないでしょ」

「そうだよ。今君がやるべき事は、失敗から学び、次に繋げる事。会社はね、こういう失敗や損害も込みで、経験をさせる事でスキルアップしていく事がゆくゆくは会社の為になると思って、君たちを雇っているんだから」

「係長―――」

無口な貝中係長が珍しくたくさん言葉を重ね、頼もしさに泣きそうになる。


「それでヒロ、今度からどうすべき?」

「あ、はい。無駄にコーティング剤を塗り過ぎないようして、しっかり乾燥させるようにします」

「40点」

「ええ?」

「“しっかり乾燥”って具体的には?」

「あ、そっか。ええっと……今回3時間置いてダメだったので、それ以上の時間を置くか、ドライヤーをかけるなどの乾燥を促進させるような状態で置いておくようにします」

「係長、どうですか?」

「今度からはそれでよろしく」

「はい」

「ともあれ――」

係長が溜め息混じりに、メッキ槽を見やる。

「どうしよっか、これ」



結局、その場を係長に任せて作業場に戻った僕と国立さんは、残りの仕事を片付けるべく席に着いた。

だが集中しなければと思うのに、どうしても塗り分けメッキの失敗を考えてしまって上手く頭が回らない。仕事を手に取っては置き、また別の仕事を手に取っては“これは後回しにしよう”と置くのを見て、国立さんが少し厳しく注意する。

「ヒロ、ちょっと落ち着きなよ」

「す、すみません」


――ダメだ。とりあえず今は、ただ手元に没頭できるような作業をしよう。

残りの仕事から、今日最後にやるつもりだった梨地仕上げを取り上げる。


オーバル喜平のネックレス。金具にはイタリアのジュエリーブランド『ウィノア・レイ』の刻印が入っている。かなり愛用されたらしく傷が多いが、その傷を消して鏡面に新品仕上げ、ではなく、雰囲気を変える為か梨地仕上げにする加工だった。

なんとなく修理内容に愛を感じて、こういう依頼は嬉しくなる。

これだけ愛用されているものに更に手を加えて、飽きずにこれからも愛用していきたいというのだから。

他にも“思い出の品なので、何とか現品を修理したい”など、金額を度外視してでもこの品を直したいというエンドユーザーの思いが感じられる依頼は、こちらとしても出来る限り応えたいと思ってしまう。


梨地は、“マット”とも呼ばれる艶消しの表面仕上げの一種だが、一口に梨地といってもその方法や仕上がりの表情は様々だ。ホーニングという細かいガラスの粒子を吹き付ける方法、ペーパー(紙やすり)を手でかける方法、リューターでダイヤポイントや目の粗いポイント、または目荒し専用の先端工具(ポイント)を使用する方法など。ペーパーはもちろん番手(粗さ)によって梨地の目が変わるし、リューターを使用する場合は、速度の設定によっても変わってくる。


特にサンプルなどもなく“おまかせ”で梨地の依頼がきている今回、匠美鎖で1番ポピュラーな方法であるダイヤポイントで加工する事にする。梨地仕上げの中でもキラキラ感が強く、指定する顧客も多いからだ。


リューターにダイヤポイントをセットし、速度は遅め。あまり回転を上げるとブレが強すぎて目が荒れ、綺麗に見えなくなってしまう。


自分の望む効果を求めてぴったりのポイントを選び、リューターにセットする所作は、ガンマンが銃に弾を込める動作と似ている――などとアホな事を考えてみたら、落ち込んでいた気持ちがちょっとだけ晴れた。


――よし、頑張ろ。

気を取り直して梨地がけをスタートし、まずは全体にさらりと、次に端から丁寧に仕上げていく。初めに全体にかけるのは、あまり端からきっちり仕上げ過ぎると、最初の方の目と最後の目の粗さが変わってしまうからだ。

あなたも経験あるかと思う。何かを塗りつぶす時、初めは丁寧に塗っていたのに、だんだん雑になっていった事。

そんな不揃いを避ける為に、まず全体をかけて様子を見るのだ。


大体の雰囲気が出来上がり、あと少し手直しするだけという段になって、深い傷が気になってくる。梨地加工で表面が粗く削られ、艶も消えたおかげでほとんどの傷は目立たなくなったが、深い傷まではさすがに消えない。いくつか残る傷をなんとか目立たなくしようと、手を加える。

何か所かは上手く馴染んだが、特に深くて黒い変色のある箇所は、おかしな事に傷が目立たなくなるどころか、はっきりしてきたように見えた。

――なんだ?変だな……。

思えば、この時点で手を止めるべきだった。

だが梨地がけなんてそれほど難易度の高くない作業だと高をくくり、自分のやり方が悪いのだろうと更に手を加える。

どんどん黒く深くなっていく傷を前に、ようやく僕は最悪の事態を悟り、血の気が引くのを感じた。


――これ、中空だ……!!


深い傷だと思い込んでいたのは中空パイプのへこみで、それを僕は一所懸命に削り、穴を開けてしまったのだ。

そうだ。無意識だったが、取り出した瞬間、確かに“ずいぶん軽いな”と感じたじゃないか。

どうしてあの時その印象を自覚し、もっとちゃんと確認しなかったのだろう。

後悔が先に立つ事は無いが、それでも胸を焼くような後悔に“どうして”と自分を責める。

さっきの塗り分けの失敗に引き続いての大失敗に、頭が真っ白だった。


――そ、そうだ。レーザーで地金を盛って、穴を埋められるかもしれない。

一縷の望みを託して、レーザー溶接機に陣取った。


レーザー溶接は、今や火を使ったロウ付けに並ぶ勢いで使用頻度の高い、溶接手段だ。

レーザー溶接機内部で増幅されたレーザー光を瞬間に照射し、目的の場所をピンポイントで熔かす事ができる。

照射の設定――出力、時間、レーザー径などを溶かしたい金属や形状によって自由に組み合わせて使用し、その特徴は共付けができるところだ。

隣り合った金属同士がお互いを熔かしあって溶接される為、強くしっかりと付き、ロウ付けのようにロウ材を使用しないので経年劣化によるロウ枯れも起こさない。

それにバーナーで火も使わない為、設定さえしてあれば未経験者でも作業が可能だ。


ロウ付けには火の大きさ、強さ、絞り具合、酸素とガスの合わせ具合、火の当て方、火を離すタイミングといったバーナーの扱いに加えて、溶接物の固定方法、ロウの差し方、フラックス(酸化防止剤)の使用など絶対的に慣れと経験が必要になるが、レーザーにはそれがほとんどない。


顕微鏡のようなスコープを覗きながら焦点と照準を合わせ、フットペダルを踏み込めばレーザーが照射される。さながらシューティングゲームのような動作で進む作業は、従来のロウ付けではできなかった、火を当てる事のできない石の近くなどの溶接が可能になり、照射径をわずか0.2㎜までに絞る事で、ごく細い線材で作られた鎖の修理や複雑な形状の隙間を縫うような難易度の高い修理なども可能、また、別に用意した地金を直接盛る事でスアナや傷を埋めるなど、圧倒的に作業の幅と可能性が広がった。


“地金を盛る”事ができるというのはレーザー溶接の最大の利点だ。

例えばリングのサイズ直しでは、目的のサイズにする為にどこかしらをカットするが、従来はロウ付けでロウ材を流し込んで埋めていたカット部分は、埋めた跡を周りと馴染ませるのにバフをかける――研磨をする必要があるが、ロウ材と地金の硬さの違う為に研磨の減り方も違い、よく見ると分かる微妙な段差ができてしまう。

レーザー溶接では地金を使用して埋める事ができる為、磨いても段差はできない。


ただ気を付けなくてはいけないのは、ロウ付けは熔けたロウ材がさらりと奥まで流れ込むのに対し、レーザーはどうしても照射された手前が先に熔けてしまう為、わずかではあるが奥に隙間が残ってしまう事がある。それを避ける為に、手前に当たらないよう照射径を小さくするのだが、当然照射径が小さければ作業はなかなか進まず時間がかかる。加工するものによって柔軟に設定を変え、確実に手早く作業するにはこちらも経験が必要ではあるが、ロウ付けの比ではない。

ロウ付けの技術がまだまだの僕に挽回のチャンスがあるとすれば、それはレーザーしかなかった。


「いやー、メッキ液ね、浮いていた油膜を紙に吸わせて少しずつ取り除いたら、なんとか綺麗に――……」

部屋に戻ってきて、僕のそばで励ますように話し出した貝中係長がギョッとしたように言葉を止めた。

「どうしたの!西原くん!?」

「か、係長~~~!」



「う――――――――――――――――――――ん」

問題の中空喜平ネックレスの状態を顕微鏡でつぶさに確認しながら、貝中係長が聞いた事もないほど長く唸った。

僕はといえば、相次ぐ失敗の連続へのあまりの申し訳なさで、言い訳の言葉も出ない。


ネックレスは無残としかいいようのない状態だった。

穴を埋めようとしたのはいいが、すでに使い込まれて薄くなっていたところに更に施された梨地がけで地金はペラペラになっており、かなり弱い設定で撃ったレーザーでも、地金が吹き飛んだ。それをリカバリーしようと追っていくうちに虫食いのようにボコボコに穴が開き、今は首の皮一枚でなんとか繋がっている。

これならまだ小さな穴の開いた状態で見せていた方が、係長ならどうとでもできたかもしれない。

「西原くんは、中空だって気付いていたの?」

「すみません、穴を開けるまで気付きませんでした……」

「係長、すみません!これはちゃんと注意を促した上で指示しなかった私の責任です」

国立さんが庇うように言ってくれる。

「いえ、最初手に取った時に軽いなと思ったのにちゃんと確認しなかった僕が――」

「うん、今は責任がどうこうじゃなくて、これをどうするかだよね」

至極もっともなセリフに小さくなりながら、それでも聞かずにはいられない。

「あの……直り…ますか………?」

係長はノギスを手に「パイプ材……確かマシンか企画に………昔やったオーバルの型がプレスに…………アンコを抜くのに…………」と呟いていたが、しばらく考えてから係長は答えた。

「西原くん、キミ、運がいいね」

「え?」

「今日はたくさん人が来ているからね。たぶん何とかなるよ」



中空喜平。

ただの喜平であれば、それほど問題はない。もともと匠美鎖は製鎖――それも喜平から始まった会社だ。

ただし、中空となると話は変わってくる。

そのノウハウは当然、普通の無垢材を使用したものとは違ってくるし、そもそも喜平を作製している会社はわざわざ中空で喜平を作る事がない。


喜平には『全長40㎝で20g』や『全長50㎝で50g』といった各メーカーによって規定された規格があり、その規格を絶対に切ってはならない――つまり重量が足りなかったりしてはならない。それは喜平が資産的価値を持っているからだ。

喜平のように地金が付いた(重い)商品の店舗での販売価格は、地金の相場によって変動する。

規格が決まっているという事はそれだけの地金量と価値を保証しているという事で、そういった製品を作製するメーカーが中空製品を作製するノウハウを持つ事は、信頼の観点からもあまりない。


それほど外国のブランドに詳しくない僕でも、漠然と金細工といえばイタリアだろうとは思い浮かぶが、ウィノア・レイもそのイタリアンジュエリーらしいモードなデザインだけでなく、伝統を大切にしながらも新しい技術とデザインを追求し、品質の高さからも評価されているブランドだ。


イタリアンジュエリーと聞いて初めに思い付くのは、やはり地金をたっぷりと使った重量感のあるデザインではないだろうか。

デザイナーが思い描いたラインを形にするという本来の創作で形作られたジュエリーたちは、欧米人特有の体つきに負けないボリュームと迫力を持ち、培われた伝統から繊細な細工を見せ、身に着ける者の美しさと個性を引き立てる。

それは現代の主流である“買う事ができる価格帯からのデザイン”とは一線を画すものだ。

そしてその歴史と伝統から、イタリアンジュエリーは真逆と言ってもいい方向へも進化する。

デザインをそのままに、どうやって地金を削ぎ落とすかの工夫だ。

ウィノア・レイのこの喜平も、見た目のボリュームとは裏腹にかなり軽く、明らかに中空製品だった。



中空と呼ばれる製品には主に、2枚のレリーフ状の板材を内側に空間を持たせるように合わせて作られるものと、パイプ材を使用してつくられるものがある。


パイプ材には2種類あり、内側が空洞になったいわゆるパイプ状の材料と、加工の工程で潰れたりしないようアンコと呼ばれる外側とは別の金属が中に詰められ、無垢材のように扱えるアンコパイプだ。

チェーンのような、編みなどの複雑な工程に耐える強度が必要な場合はアンコパイプを使用する。

金のパイプであればアンコには大抵は銅が用いられるが、これは最終工程で硝酸に浸け、その特性――金は溶かさずに銅だけを溶かす――を利用してアンコを抜く為だ。



喜平に限らず機械編みのチェーンというのは所有する編み機の編み上がり具合や各メーカーの使用する材料の規格、カットの深さや角度、仕上げにより微妙に違いがでる為、通常は他社製のチェーンの途中に自社製チェーンを寸足しするような加工はしない。


貝中係長は「大丈夫」と言っていたが、他社製品、しかも中空で、ボロボロにしてしまった部分と交換する為の新しいコマもチェーンそのものも作り直す事が難しい現状で、どう修復するつもりなのか僕には見当もつかなかった。



――そうだ、代わりのネックレスが手に入らないだろうか。

お客さんに返すにしても、こんなボロボロの状態のままというわけにはいかない。

壊してしまった現品は出来る限りの修復をするとしても恐らく完修(完全な形に修理する)は難しいだろうから、代替品を用意しておいた方がいいんじゃないかな?

もちろんこれは、新しいものに交換すれば済むという話ではないけれど、せめてもの謝罪の気持ちとして、用意できるならしておいた方がいいのではないかと思ったのだ。

――でもそれ、誰に訊いたらいいだろう……?

ジュエリーに詳しくて、色々なブランドやメーカーを知っていて、技術的な事を理解できる人。

心当たりのある人は一人しかいない。じいちゃんに電話をしてみた。


僕の話を最後まで聞いたじいちゃんは、残念そうに答えた。

「難しいだろうなあ」

「え?」

「ウィノア・レイの中空オーバル喜平は確か20年以上前の商品だったはず。今はもう作ってないし、取り扱っているところも無いだろう。儂も長い事、見ていないしな。話を聞いて、そういえば昔そんなものもあったと懐かしく思ったくらいだ」

「そんなあ……」

じいちゃんがそう言うのなら間違いないだろう。

中空喜平を手に入れる術はない。つまりなんとか現品を修理しないといけないという事だ。

「でも、お前の上司がなんとかなると言っていたんだろう?信じて任せておればいいんじゃないか?こんな機会なかなかないだろうし、せっかくだからその工程、しっかり勉強させてもらうといい」

「うん………そうだね」



中空喜平のノウハウはない匠美鎖だが、中空パイプを使用した製品をまったく作った事がないわけではない。

むしろ昨今の地金相場の高騰に伴い、価格を抑えながらボリュームを出す為に、製品やパーツの開発用に、パイプ材は一揃いストックがあった。


しばらく席を外していた貝中係長は戻ってくると、5㎝くらいの短い喜平を僕に見せる。

「どう?」

「あ!?そっくり!?」

壊してしまったオーバル喜平と並べても遜色ないそれは、だが手にした重量は通常の喜平と変わらないようだ。

「アンコは抜いてないけどね。形さえ作れれば、コマを交換できるから」

この短時間で試作品を作ってしまう技術力に驚いていると、電話に出ていた国立さんが受話器を置きながら報告する。

「あ、係長!三ツ滝部長から連絡きました!先方の了承もらえて、進めても大丈夫だそうです」


当然ながら、お客さんの預かり品を壊してしまったからといって、黙って勝手に直すわけにはいかない。営業からお客さんに事情を話してもらい、謝罪した上で承諾を得なければ、進める事はできない。

だがお客さんに話す時、「壊しました。直せないのでこのまま返却します」と「少しでも元に近い形に直して返却します」では、その印象もまったく違うし、修理を請け負う会社としての最低限の誠意は見せたい。

もちろん壊さないように修理するのが当然だし大切だが、どうにもならない事態に陥った時にどう対応するかは“これから”に関わってくるはずだった。


「さて、お客さんに了承ももらえた事だし、今日中に直しちゃおっか」



“めったにない事だから”と貝中係長の許しを得て、どう修理するのかを見せてもらう。係長の作業机の上には試作されたコマがたくさん並んでいた。

まず壊してしまったコマと同じ線径のアンコパイプを輪にし、仮付けする。それを様子を見ながら捻り、仮付け部分にノコを入れる。


言葉にすると簡単になってしまうが、パイプ材をぴったりのサイズに輪にするだけでも、僕なら数時間かかるかもしれない。ここで妥協して適当なサイズで進めてしまうと、後工程で周りのコマと揃わなくなるからだ。だが係長の手元は迷いがなく、すでに試作しているので細かなサイズや加工具合などは心得ていて、手際がいい。

もちろん周りのコマと違和感のないよう、微調整は慎重に、何度もノギスでサイズを確かめては、並べて見比べながら作業は進んでいく。


ボロボロのコマを外し、その部分に新しいコマを滑り込ませ、薄くなった周りのコマを熔かさない為に水で溶いた砥の粉で固め、新しいコマだけが表に出るようにしてロウ付けをする。

実際にレーザーでペラペラ具合を思い知らされている僕には、そのロウ付けがどれだけ難しいものなのかがよく分かる。一歩間違えば、簡単に他の部分も熔けて無くなるだろう。火の当て方だけでなく固定の仕方にまで経験に基づく技術が必要だった。

――職人の手だな――。

息を詰めて見守りながらも、一見鈍重そうな貝中係長の手の、迷いのない的確で繊細な動きに見惚れてしまう。


貝中係長は元々ハンドメイド課の係長で、口下手と説明下手で有名だったらしい。

だから実際の段取りなどは僕も春休みにお世話になった奥谷主任がこなしていて、係長は難しい加工や時間のかかる加工、それに企画開発課への量産を踏まえた技術的なアドバイスなどを主にやっていたそうだ。

こうして今この窮地に頼もしさを感じられるのは、難しい加工と向き合ってきた結果なのだと分かると、普段の無口な様子も自信に裏打ちされているようでカッコよく思えてくる。


ロウ付けを無事に終え、洗浄と酸洗いをして砥の粉とフラックスを落とすと、ボロボロだった箇所がしっかりとしたコマで塞がっていた。

「うわぁ……」

「まだまだ、これから」

思わず溜め息を漏らした僕に係長はそう言うと、連れ立って『プレス』に下りていく。

プレスには試作に使用した型がセットされたままだった。


オーバル喜平はよく目にするカット喜平とは違い、断面がオーバル(楕円)になるようプレス型で整形されたものだ。

カット喜平が編まれたチェーンにカットを施してあるのに対し、編まれた後に型で挟んで整形されコマの遊び部分に地金が逃げる為、コマの可動がほとんどない。

交換したばかりのコマは組み込まれてはいるがまだ周りのコマと馴染んでいないし、面も揃っていない。それを今からこのプレス機で、文字通り”形を整える”のだ。


「同じ幅の型があって良かったね。ま、なければ作ればいい話だけど」

たまたま来ていた平城係長が、何故か嬉しそうにプレス機を調整してくれる。

慎重に整形され、型から取り出された喜平は、繋ぎ直した箇所がまるで元からそうであったように馴染んでいた。

「凄い!」

ここまで形ができれば、後はもう硝酸に浸けてアンコの銅を抜き、周りと同じように新しいコマにも梨地を入れれば完成だ。

「どう?うちの会社、結構凄いでしょ」

「はい!」

魔法のように、と言ったら関わってくれた人たちに失礼だろう。

それはそれぞれの持つ技術と知識が集約された、結果だった。



作業場に戻る階段の途中、貝中係長が振り返った。

「西原くん、ありがとう」

「え!?」

あまりに意外な言葉に面食らってしまう。

「いや、今まで中空喜平なんてやった事もなかったけど、できるもんなんだなって分かったのは収穫だったよ。この会社の技術力も捨てたもんじゃないってね。しかも事情を話したらみんな快く、それに惜しみなく相談に乗ってくれてね。普段は自分の仕事で手一杯でも、いざという時には結構な団結力で、こんな事言うのは不謹慎かもしれないけれど、ちょっと楽しかったよ」

「と、とんでもないです……!」

結局僕は、自分の失敗をすべて他人に尻拭いさせてしまったのだ。

早く一人前に、せめて自分の失敗くらいは自分で回収できるようになりたい。

「適切な判断ができるよう、これからはもっと注意深く、ちゃんと修理品を見るようにします」



「おおおおおおぉぉぉ~~~~」

アンコが抜かれ、かけられた梨地でどこを修理したのかまったく分からなくなったオーバル喜平を見て、心配気に見守っていたリペア課のメンツが驚きの声を上げる。

「凄え!まるで分からん!」

中でも国立さんは、仕事を割り振ったのにちゃんとフォローできなかった事で責任を感じていたのと、持ち前の好奇心と向上心から本当なら自分が係長の加工の一部始終を見たかった事もあって、食い付きが半端ない。

皆で手に取り、矯めつ眇めつ眺めていると、終鈴のチャイムが鳴った。

間髪入れずに国立さんが僕に人差し指を突きつける。

「帰れ!」

「ええ!?」

あまりに使えない新人に失望してしまったのかと、失敗を取り返すとは言わないが、せめて何か自分のできる事で役に立ちたいと食い下がる。

「でもこれから、量産の手伝いを……」

「メンタル的に無理だろ!いいからここは先輩に任せて、今日は帰れ!!」


そう、これは彼女流の気遣い。

立て続けに大失敗してしまった僕が精神的に消耗しているだろうと、気を遣ってくれているのだ。

正直に言えば、午後のほとんどが係長の加工を見守っていただけのはずなのに、クタクタだった。指摘されて初めて気が付いたが、ずっと緊張していたせいか、身体中がこわばってギクシャクしている。


「じゃ、西原くん、帰ろっか」

調子よく僕を促して退出しようとする庄埜さんの首元を、国立さんが乱暴に掴む。

「おめえは、残れ!」

「ええぇぇ~、昨日も残業したじゃん~」

「8時で帰っただろうが!」

2人のやりとりを尻目に、赤樹さんが手を振った。

「ここはいいから、国立さんの言う通り今日はもう上がりなさいな。失敗は誰にだってあるんだから、引きずらないようにね」



しぶしぶ会社を後にし、建物を出たところで携帯を取り出す。

「――あ、瀧本さん?お願いしたい事があるんですけど……」

「なんでしょうか、浩之様」

「今日残業してくれている人たちに何か軽食の差し入れをお願いできますか?えっと、たぶん20人分くらいで大丈夫だと思うんですけど」

「かしこまりました。手軽に食べられるものですね。伊藤屋のいなり寿司なんてどうでしょうか?クルミがたくさん入っていて、浩之様もお好きでしたよね?」

「あ、いいと思います。それでお願いします」

「ところで、何かございましたか?声に普段と違う疲れを感じますが」

秘書の瀧本さんとは子供の頃からの長い付き合いで、兄のような存在だからこその鋭い指摘だった。


「……というわけで結局みんなに迷惑をかけて、自分じゃ何もできなくって。向いてないんじゃないか、なんて落ち込んでしまって」

手短に今日の失敗を話すと、瀧本さんはほんの少し強い調子で言った。

「浩之様、あなたは誰に強要されたわけでなく自らの意思で今その場にいるのです。あなたが匠美鎖を背負う覚悟をする少し前に浩樹様の策略に勘付いていた浩人様は、阻止する事だってできた。それをされなかったのは、その策略に賭けたからです。与えられたレールの上をただ道なりに行くのではなく、お二人の目の届かない場所で、ご自分の力を試し成長される事に。その長く続いていくはずの道のりの、まだたった数歩進んだばかりですよ?あなたはご自分の決めた道をただ真っ直ぐ進む事だけを考えてください。問題なのは、向いているとかいないとかではなく、やり通す意志を持つかどうかです」

「やり通す、意志……」

意志とは、意思と覚悟を併せ持った状態。僕はそう考えている。


あの時も――匠美鎖を買い取る意思を初めて口に出したあの時も、瀧本さんはこう訊いた。

“本当にその覚悟がおありですか”と。


僕にはまだ覚悟が足りていないかもしれない。だけど重ねた失敗を、ただ後悔する材料にしているわけではない。自分の力の無さを自覚しているからこそ、向上したいと思うからこそ悔しいと感じるのだ。

「ありがとう、瀧本さん。おかげで次からも頑張れそうです」


そうだ。僕には落ち込んでいる暇などないのだ。

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