第2話 Unendliche Melodie――永遠に永遠で、永遠の愛

「いやあ、世界は愛で満ち溢れているねえ」


庄埜さんがルーペでリングの内側を覗き、芝居がかった溜め息を吐いた。

普段から何かと騒がしくお調子者なので、誰も気にも留めない、というかイラッとした空気が流れる。

「…………」


明らかに反応を待っている様子に、溜め息を押し殺して尋ねた。

「どうしたんですか?」

「見てよ、これ」

仕方なく、渡されたプラチナのリングを覗き込む。


「うわ……」


何とも反応に困るメッセージに、言葉が出てこない僕の様子を見て、他の人も集まってきた。

「長っ」

「字、小っちゃ!」

「っていうか……」


“内彫り”と呼ばれる、リングの内側に施された文字彫りは、記念日などの日付やイニシャルの他にメッセージなどの思いを込めた言葉が刻まれ、主にマリッジリングに入れられる事が多い。

このデザイン的に明らかなマリッジリングも例外ではなく、そこにはこう刻まれていた。


『Eternal forever everlasting love』


――永遠に永遠で永遠の愛。

一体のどこのバカップルだ、とその場の全員が心の中でツッコむ。


「ま、まあ、内彫りなんて持ち主しか見えないから」

もっと言えば、外す事の少ないマリッジの内側なんて、持ち主本人だって見る事はほとんどないだろう。

「あれ?この1本だけですか?」

「今のところは」

「ちなみに、修理内容は?」

庄埜さんが伝票を確認する。

「えーっと………“文字消し”?」

う…………。

空気が固まる。

マリッジの内彫りを消したいって事は、つまり……。

「別れたか」

身も蓋もない国立さんの言い方に、赤樹さんが慌てる。

「ほ、ほら、きっと色々あったのよ。そういうのは本人たちにしか分からないものだから」

せっかく取り成すように言ったセリフを、庄埜さんがぶち壊す。

「頭悪そうな内容だもんなあ。きっとパーッと盛り上がって結婚しちゃって、速攻で別れる事になったんだろうねえ」

「お前が言うな、フェミニスト」

「あ、ひどいなあ、英妃ちゃん。それに、それ悪口のつもりだろうけど俺にとっては褒め言葉だから」

「じゃあ八方美人」

「美人と言われれば、まあ確かに自覚のあるところではあるけどね」

あからさまにイヤな顔で舌打ちをして、国立さんは席に戻っていく。やれやれ、という空気でお開きになるのはいつもの事で、今ではすっかり定着したパターンだ。



いつも騒がしい、事務作業担当の庄埜さん。

そこに毒舌で切り込む国立さん。

少し年配でおっとりしている赤樹さん。

いつも無口な貝中係長。

そして僕の5人が今のリペア課を構成するメンツだ。



新設されたリペア課に、ゴールデンウイーク明けから土曜日だけ参加するようになってから約1か月が経つ。


匠美鎖自社ビル3階の検品課と在庫管理課があるフロア、そこに新たにパーテーションで区切られた一角に、彫金用の作業机やテーブル、棚や各種機材・工具など余っているものを各部署からかき集め、足りない物を少しずつ揃えながら、手探りでリペア課はスタートした。


顔合わせの時には、国立さん以外は春休みバイトの時に二言三言口を聞いた事のある程度の人たちばかりで少し不安だったけれど、今はそれぞれの性格なども大体分かり、結構打ち解けてきている。


元ホストでチャラい――じゃない、人当たりのいい庄埜さんは、初出社の日の昼食時に、「プレスはどうだった?」と聞いてきた人で、その後、昼休み中ずっと女性従業員に声をかけていたが、あれはやっぱりナンパしていたらしい。


赤樹さんは、ハンドメイドに手伝いに行った時にアドバイスしてくれた人だ。

なにかを教えてくれる時に、昔の知識や方法なども併せて教えてくれる為、僕としては2倍面白いが、ハンドメイド課の奥谷主任は、その事をあまりよく思っていなかったらしい事を覚えている。


貝中係長は自分からはあまり話をしないけれど、聞いた事にはちゃんと答えてくれるし、修理のやり方や道具の事など、結構専門的な知識を教えてくれる。それに何より、技術がすごい。いかにも職人という感じで、頼りになる。

ただ、いつだったか、携帯で「必ず用意しますので、もう少し待ってください」というような会話をしているところを耳にしてしまった事があり、もしかしたら借金を背負うなどして、とても生活が苦しいのかもしれない。なにかいつも考え事をしていて、疲れているように見える人だ。



国立さんには、ジュエリーの事や働くという事について色々教えてもらうなど、春休みに1番お世話になった。愚痴を聞いたりもしたけど、毒を吐きつつも基本的に真面目で、面倒見がいい。

ただ、なんとなく周りに恵まれていない印象――陰口や不誠実な人間に囲まれている印象があり、僕としてはそこがもどかしい。それでも、土曜日のこのリペア課では、春休み中の他のどの国立さんよりもイキイキとしているように見えた。



だいぶ仕事もスムーズに流れるようになった6月上旬のその日、僕らはいつものように修理に勤しんでいた。


せっかく文字彫りが話題になったので、隣の席の国立さんに聞いてみる。

「内彫りって、職人さんが手で入れるんですか?」

「ん?いや、そうとは限らないよ。今は3通りあるかな。昔からある方法としては、職人さんが鏨(たがね)を使って彫る方法と、“文字彫り機”っていう内彫り専用の機械で入れる方法だけど、最近はそこに“レーザーマーカー”っていう機械を使って入れる方法もあるから」

「昔ながらの彫りは、社内じゃできないですよね?やっぱり彫り専門の職人さんがいるんですよね?」


「そうなんだよ。うちって何人か石留めできる人はいるけど専任ってわけじゃないし、石留め専門の部署もないんだよね~。

その代わり石留め屋さん――石留め専門で請け負ってくれる外注さんはたくさん抱えているから。でもやっぱ上手い下手ってあるから、そこはやってもらってみないと分かんないよね」

「えっと……なんで今、急に、石留め屋さんの話になったんですか……?」

「ああ、ごめん。石留めって色んな留め方があるんだけど、その中の“彫り留め”っていう留め方をするのに使う道具とか技術が、文字や絵を彫るのと同じなんだよ。

だから石留め屋さんにお願いすれば大体できるはずだけど、曲線とか強弱とか彫りの具合ってセンスが出るから、そこはこっちがどの程度の完成度を求めるかで誰に頼むかを見極めないといけないワケだ。

でもまあやっぱり、彫りがちゃんとできる外注さんは、石留めも上手だよね」

「なるほどー」


「文字彫り機はうちにもあるから、今度やってみる?」

「あ、やってみたいです!」

「鏨とは違うけどちゃんと刃がついていて、それが刻んでいくから彫られた文字は鏨で入れたみたいにキラキラする。ただ、入れられる書体と文字が決まっているから、特殊な記号なんかは入れられないし、文字のサイズも指定はできない。ま、やる時にちゃんと教えるよ」

「お願いします。あと、もう1個の―…何でしたっけ?レーザー……?」


「“レーザーマーカー”ね。これも機械があるから社内でできるけど、研修が必要だからいつも担当者にお願いしてて、あたしも詳しくは知らないんだ。レーザーを照射して入れるって事くらいしか。

1番の強みはパソコンで処理したデータを、そのまま入れられる事かな。つまりブランドロゴとか写真とか、手書きで描いた絵とか、手掘りでも文字彫り機でもできないような特殊な内容は、この方法になるね。データ処理に時間と手間と金額が必要だけど」


「結構それぞれ特徴あるんですね。どう使い分けるんですか?」

「手掘りは味があるから、ニュアンスとか特別感を大事にするお客さんにおすすめだし、文字彫り機で入れたのは文字のサイズとか並びが均等に揃って、入り方にブレがないから、コンスタントな仕上がりを希望するお客さんにおすすめ。あとこの3つの中では難易度的には比較的低くて、その分、安価にできる。

ロゴとか“その内容をそのまま入れなきゃいけない”って時は間違いなく入れられるマーカーになるし、内容とお客さんがどこに重点を置いているかを汲んで方法を選べばいいんじゃないかな」


「あとは、入れるものによっても違うのよね」

ひょいと赤樹さんも加わり、アドバイスがステレオになる。

「国立さんが今説明してくれたのはリングの内彫りの事だけど、彫りって色んなアイテムに入れたりするでしょう。ほら、リングの外側に唐草模様がぐるっと入っていたり、プレートに龍が彫られていたり」

「ああ!ありますね」

「他にもピルケースや名刺ケースにイニシャルを入れたり、手彫りもマーカーも、結構なんでもありよね」

「文字彫り機はリングの内側オンリーですもんね」


「この間、国立さんが代休の時、お花と唐草がぐるっと入ったK18リングのサイズ直しが来たのよ」

「マジですか!?それ、誰がやるんですか?」

「社内じゃムリそうだったから、とりあえず真楠さんに送ってみた。火曜日に上がってくる予定」

真楠さんとはこの会社で1番安心してお願いできる、外注の加工屋さんの事だ。

「うわ~、楽しみですね。境目とか飾り彫りの繋ぎとか」

「…………」


僕を挟んで会話が飛び、いつの間にか取り残されてしまっていると、営業から回された修理品に目を通していた庄埜さんが再び声を上げた。

「大変だよ、西原くん!バカップルが増殖した!」

バカップルって言っちゃったよ、この人。

「どうしたんですか?マリッジならもう1本来ていても、別に不思議はないですよね」

「いや……」

さすがの庄埜さんも、自分の目が信じられないという顔で僕を見る。


「全部で6本ある」



「……結婚詐欺の被害の証拠品じゃないかなぁ」

「6人も騙くらかしたってコト?」

「まあ6本のうちの1本は詐欺師本人のものかもしれないけど」

「そうだとして、いっぺんに文字消しで回ってくるなんて事あるのかな?」

「なんか変ですよね」

もちろん、この会話中も手は休まず動かしている。


「そういや、これってどこの?営業担当は誰?」

「プライベート・サーカスのリングで、担当は第二の小野沢部長」

第二は第二営業部の略だ。

「1、2本だったら離婚したから記念の文字を消したいって事で理解できるけど、この本数は詐欺以外、他に考えられないよね?」

う――ん?と皆で首を捻る。

「係長、何か知らないですか?」

「特に聞いてない」

貝中係長は普段通り、会話に積極的に加わるわけでなく、黙々と作業をしていた。

「月曜日になったら小野沢部長に聞いてみたらどうでしょうか?」

「ま、機会があったらね」



「玖珂さんっていいよなあ。優しいし、可愛いし、おっぱいおっきいし」

女性陣の冷たい視線を物ともせず、庄埜さんが言い放つ。


玖珂さんは第四営業部の内勤営業で、ふんわりした感じの美人さんだ。

僕も春休みのバイト中はいろいろ教えてもらったりお世話になっていて、正直に言えば全力で肯定したいところだが、さすがにこの場では口に出せず、曖昧に笑う。

昼休憩になり、食堂での一コマだった。


「庄埜さん~?セクハラですよ~?」

笑顔で赤樹さんにたしなめられ、首を掻きながらこちらにウィンクをする。

お願いだから僕を巻き込まないでほしい。

そんな気持ちも知らずに、庄埜さんが声を潜める。

「でさ、西原くんって結構玖珂さんと仲いいらしいじゃん?ちょっとさ、取り持ってくんない?」

「はあ……。でも土曜日しか出社しないので、あんまり役に立てるとは思えないですが。僕なんかより国立さんの方がずっと仲いいんじゃないですか?」

「とっくにお願いしてみたさ。ダメだったけど。英妃ちゃんは俺の事キライだからねえ」

あんたがチャライからだろ。

「いや……もしかして、愛情の裏返し?」

ハッとして呟いた庄埜さんの頭上に、国立さんが何かを振り上げた。

「んなワケあるかっ!!」

「え、英妃ちゃん!?かどカド角KADO!弁当箱のカド、刺さってる……!」

懲りない人だなあ。


呆れた空気のうちに昼休憩は終わり、アトリエに戻る途中2人に挟まれる。

「じゃ、西原くん、機会があったらよろしくね」

「西原くん、相手にしなくていいからね」


……こういう場合、どうしたらいいのだろう。

勤続年数が長い方を優先するべきなのか。部署内を仕切っている人だろうか。それともやっぱりここは男同士だろうか。逆に女性を立てるべきなのか。

こんなちょっとした事でも選択肢や考慮しなければいけない点に迷う僕が、本当に会社のオーナーとしてやっていけるのか日々不安ではあるが、こんな事の積み重ねで判断力は養っていくものなのだろう。小さな事であれば、判断が間違っていても取り返しがつく。

すべてを経験として蓄積する為には、取るに足らないような事でも全力で向き合う必要があるのだと思う、……なんて真面目に考えるような事でもないか。

このいい加減な人に玖珂さんをどうこうできるとも思えない、というかどうにもなって欲しくない。自分の気持ちに忠実に従えば、どちらの味方をしたいかは明白だった。


「無駄無駄むだムダ!そんなヤツの話聞くだけ、時間のエム・ユー・ディー・エーだよ」

「エムユーディーエー?何ですか?」

「ムダ」

そばにいた赤樹さんが吹き出した。

「だいたいアイツ、社内の女性従業員を片っ端から口説いてまわるような“たらし”だよ?そんなヤツの毒牙に撫子をかけられるかっていうの!」


玖珂さんは毎朝仕事が始まる前のひと時、段取りをしている国立さんに顔を出すし、時間が合えば昼食も一緒に取るくらい仲がいい。あまり他部署の人間同士で親しくしているところを見かけない匠美鎖では珍しいと、春休みにも思ったが。


リペア課になってからは土曜日にしか出社しない為、他の従業員や社内の様子などを伺う事はできないし玖珂さんと顔を合わせる事もなくなってしまったけれど、この国立さんの怒りっぷりを見る限り、2人の友情は健在のようだった。


「英妃ちゃーん、聞こえてるんだけど……」

苦笑いで庄埜さんが声をかけるが、ガン無視である。ちょっと可哀想なので少しだけ協力しようかという気になる。

「玖珂さんって付き合っている人いないんですか?」

「それがねぇ。いるっぽいんだけど、あたしにも秘密にするんだよねぇ。なんでだろ~」

「………」

それは恋人のいない国立さんに気を遣っているのでは、とは口が裂けても言えません。




翌週の土曜、出社するとすでに来ていた貝中係長と国立さんが手招きした。

「見てよ、これ」

「何かあったんですか?」

テーブルに積まれた修理品に付けられた伝票をざっと目でさらう。

加工内容はすべて“文字消し”だ。

「……もしかしてこれ、先週の“永遠すぎる愛”ですか?」

「この1週間で追加12本、トータルで18本来た事になる」

それは異常事態だ。


「ええっと、担当の小野沢部長は何て言ってたんですか?」

係長と国立さんが顔を見合わせる。

「……今はまだ言えないって」

「いよいよ大掛かりな結婚詐欺事件に発展して、警察の捜査中で口止めされている、とか?」

そんな事になっていたら、僕にも田辺社長から一言くらい報告がありそうだけど。



修理品は修理や加工の内容、アイテムが様々な為、入れ違いなど間違いの起こらないよう1点1点別々のケースに入れ、顧客名や修理の内容、預かり時の状態を記載した加工依頼伝票を付けて管理している。


先週来ていた分はもう加工を終えて担当営業に納品しているはずなので、ここにある山は追加で来た12点分だ。サイズもバラバラだけど、顧客名はすべて“P・C”となっている。“プライベート・サーカス”といちいち全部に書くのは面倒なので、省略してあるのだ。指示や伝票には結構省略名や記号が多用されているので、初めは書いてある内容や指示を理解するのに苦労した。


会社によって微妙に呼び方や名称、省略の仕方も変わってくる事もあるが、匠美鎖では、例えばNはネックレス、BLならブレスレット、ALならアンクレットの略だし、WGはホワイトゴールド、PGならピンクゴールド、Ptならプラチナ、WDはホワイトダイヤ、つまり透明なダイヤを指し、Rならルビー、PSならピンクサファイヤだったりする。

他にも、リングのサイズ9号を#9と表したり、丸線の直径にΦという記号を使ったりと色々ある為、覚える事はたくさんあった。


リペアでは、間違って加工を進めてしまっては取り返しがつかなくなる事もあるので、冷静に正確に、伝票の指示を理解する必要がある。

それは量産でも、もっと言えばどんな業界、業種にとっても当然の事なのだろうけれど、修理は特に、他社製品や預かり品――とりわけ形見の品などは、何かあった時に弁償で済む話ではない。


「あれ?文字消しだけじゃなく、サイズ直しも何点かありますね」

「そーなんだよね。使う気満々なんだよね。詐欺の被害の証拠品だったら、文字消したりサイズ直ししてまでイヤな思い出の品なんて身に着けるかなぁ?」

「お客さんはもう1度、店頭に展示するつもりかもよ?」

ここで係長の言う“お客さん”とは個人(エンドユーザー)の事ではなく取引先、つまりプライベート・サーカスを指す。


リペア課に回される修理品は、個人まで行っていないものと、取引先に持ち込まれた個人のものと、2パターンある。個人まで行っていないというのは、例えば“店舗に展示していて傷が入ったので仕上げ直しをして欲しい”とか、取引先で“在庫に持っていたものが壊れてしまったので修理して欲しい”などの事だ。

文字を入れる加工自体が個人の所有になった事を意味するので、“文字を消したい”という依頼であれば、普通は個人が取引先に持ち込んだのだと考えるのだが。


「係長はこれ、エンドユーザーからではなく店舗からの依頼だと思っているんですね?」

「うん、個人でこれだけのリングを持ち込んできたら、やっぱりちょっとおかしいでしょ。なんで店舗がこんなにたくさん同じ内容で内彫りしたのかはよく分かんないけど」

「間違えて発注しちゃった、とか?」

「18本も?」

どちらにしても変な話だ。


やおら国立さんはパーテーションに掛けられた大きなホワイトボードの前に立つと、黒マーカーの蓋を抜いた。


『今月の標語。“永遠すぎる愛を語る奴は信用するな”』


たくさんの書面が貼られ、説明する時に使った図なんかもそのまま残っているボードの空いているところに書き込んでから振り返り、こちらににっこりと笑う国立さんの笑みは、少しハードルの高い仕事を振る時の顔だ。

「じゃ、今日西原くんにはこれ全部文字消ししてもらおっかな」



――こんなに大変だとは、正直思わなかった……。

エンドレスにスアナと格闘するうち、そろそろ午前中が終わろうとしていた。


文字にレーザーを打ってだらし、へこんで地金が足りなさそうなところには地金を盛り、ロータリーベラで潰し、鑢でラインと面を整え、ペーパー、フェルトの順で磨く。ここまででちゃんと文字が消えていれば仕上げのバフにいけるのだが、フェルトまでいくと消えていなかったスアナが露わになり、そのスアナを消す為にレーザーからやり直す。

朝から取り掛かったはずの文字消しが、まだ1本も出来上がっていなかった。

焦ったところで仕方がないとは思うが、教わった通りにやっているのにどうして上手くいかないのか分からない。聞くのは簡単だが、できるところまでは自分の力でやりたい、そう考えてひとり頑張るのもそろそろ限界だった。あまりこればかりに時間を取られていたら、他の仕事が進まない。


とはいえ、何度も何度もレーザーと作業机の間を行き来する様子を見かねて、何度か赤樹さんが声をかけようとしてくれていたが、その度に国立さんが目線で止めていた。

「午後一で見てあげるから、それまでは自分の力で頑張ってみて」

得手不得手を考慮しつつみんなの1日の仕事を段取っている国立さんには、何か考えがあるらしい。いつも割とスパルタだが、決して意地悪でこのエンドレス作業を強いているわけではない、と思う。思いたい。


午後になって国立さんが「見せてみ?」と出す手に作業中のリングを乗せると、「違う!」とキレられた。

「磨くのに使ってた、道具を見せてみ!」

「あ!はい」

慌ててリューターから外したフェルトと試しに使った数種類のミニバフを渡す。


「午前中一杯かけさせたんだから、いい子に育ててくれたよね?」


そう言いながら渡された道具をじっくり見る国立さんに、そういう事かと納得しつつも、自分の道具を見られる恥ずかしさにそわそわしてしまう。

道具を見れば、その人の熟練度が分かるからだ。


“道具を育てる”とよく言うが、ミニバフなどは育ち具合が特に顕著に表れる。

そして僕みたいな素人同然の人間の場合は、熟練度が分かるというより下手くそ具合がバレると言った方が近い。

丸裸にされた気分でお言葉を待っていると、国立さんが意外そうな声を上げた。

「……いいね。びっくりした」

こっちもびっくりだ。まさか褒められるとは思わなかった。

「フェルトはデコボコに減ってないし、いい感じに粉で締まってる。ロータリーもカドがダレて、最初よりも全然当たりがソフトになったでしょ」

「はい。……その為だったんですね」

「そ。いい機会でしょ。これでリングの内側磨くのに慣れれば、サイズ直しする時も使えるしね。量産と違って、1度にたくさんのリングを磨く事ってあんま無いからね、うちらの場合。道具育てるのも技術を身に付けるのも、実際に手を動かすしかないんだから!」

「そうですね。ありがとうございます」

「……で、どうして、こんなに道具はすくすくと素直に育っているのに、君はそれを使いこなせていないのかね?」

うぅっ。どうしてなのか、僕も知りたい。

「ペーパーまではイケてるのに、フェルトかけるとスアナが出てくるんです」

「そりゃ出てくるんじゃなくて最初から消せてないのに、表面がある程度綺麗になるまで気付けてないだけ。目が粗いと見えづらいからね。でも、最初の工程からひとつずつ丁寧に進めれば、ちゃんと出来るはずだから。次の工程、次の工程って焦って進めるから、その工程が確実に着実に効果をもたらしているかが見られないんだよ。なら、1工程ずつ見てあげるから、持ってきて」

「はい……」


1工程ごとにコツを教えてもらいながら進めていくと、見てもらうまでは完璧と思っていたはずなのに、指摘されて初めてスアナや粗に気付かされる。

気付いてしまうと、さっきまでどうして完璧と思っていたのか自分の目が信じられないくらい、はっきりと見えてくる。見る角度や光の具合を変え、見つける勘のようなものが付いてくる。

「…………できた……」

どっからどう見ても絶対に完璧にできた、そう思える完成度にようやく仕上がり、国立さんに見てもらう。

「……うん、いんじゃない?」

国立さんが自分の事のように嬉しそうに笑うと、バーンと僕の背中をぶつ。

「やれば出来るじゃーん」

「はい!ありがとうございます!」

「あとは~」

壁の時計を確認し、少し苦笑いになる。

「1本にかかる時間を短くしていくだけだね」

「はい……」

その通りです。たった1本のリングの内彫りを消すのに5時間もかけていたら、会社は立ち行きません。

しゅんとしてしまった僕を励ますように、国立さんが肩を叩いた。

「ま、これからよ」




「ねえねえ、これ見て!」

翌週の昼休憩、コンビニにご飯を買いに行った国立さんと赤樹さんが、勢い込んで雑誌を広げた。

女性用のファッション誌のそのページは、どうやらマリッジリングの広告のようだ。

見出しの文句は――


『永遠に。永久に。限りない――愛』


皆一斉にぶ――っと吹き出し、広げられた雑誌に頭を寄せる。


“まったく新しいコンセプト。このリングには永遠の愛を込めて、あらかじめ内側に『Eternal forever everlasting love』と刻まれています。このメッセージの上からご希望のイニシャルや日付、メッセージをお入れする事で、おふたりの誓いを永遠のものとして封じ込めます”


「……なぁんだ、そういう事かあ~」

「え?え?どういう事ですか?」

「つまり18本のリングの文字消しは、詐欺とかじゃなく普通のお仕事だったって事」

「1度文字を入れてから消す事が?」

「そういうコンセプトなんだってさ。行為そのものに願いを込めた」

「でもマリッジだから、文字を一旦“消す”とは言わず、“上から”と表現している。消すって言っちゃったら、縁起悪いものね」

まったく、人騒がせな話である。


コンセプトとはこの場合、株式会社プライベート・サーカスがマリッジリングの新しいラインを立ち上げるにあたって設定した、基本概念を指す。

結婚という結びつきを永遠のものに、と願いを込めたのであろうが、ともかく――

「願い、込め過ぎじゃね?」

「あれ?小野沢部長が“まだ言えない”とか、なんか意味有り気に言ってなかったっけ?」

「この雑誌、昨日が発売日だったから、永遠リング自体は店舗にもう並んで注文も受け付けてるけど、こうやって媒体で大々的に発表するまでは一応内緒って事なんじゃない?」

「いや別に、内輪だったら話したって問題ないだろ。なに勿体ぶってやがる、あのジジイ」


ワイワイと盛り上がっていると、「お疲れさまでーす」と声がかかった。

振り返ると、明るい色のワンピースを着た玖珂さんが食堂に入ってくる。

「あれ~玖珂さん?なになに?俺に会いに来てくれた?」

「どしたの?撫子」

「玖珂さん!お久しぶりです」

「お疲れさま~」

「お疲れ」

五人五様の挨拶を返し、差し入れられたシュークリームの箱を開けていると、玖珂さんが貝中係長を隅に引っ張っていき、何やら2人でペコペコお辞儀をし出した。

少し話をしてから戻ってきた玖珂さんは恥ずかしそうに切り出した。


「実は、今日はリペア課にお願いがあって来たの」

「なに?修理?それならわざわざ休みに来なくっても、来週会社に持ってきてくれれば社員価格で対応するのに」

「あ、うん。ちょっと1日でも早くと思って……。あの、実はね」

照れくさそうに、そして、幸せそうに玖珂さんが笑う。

「私、結婚したの」


倒産騒ぎの時、玖珂さんと国立さんがこの先どうするかを話していた。

次の就職先を探すと言った国立さんに対して、玖珂さんは何か迷っている感じだった。

まさにあの時、プロポーズを受けていたのだそうだ。

というか、倒産するかもしれないと恋人に話したところ、“それなら……”と申し込まれたらしい。

結局倒産は免れたわけだが、玖珂さんはプロポーズを受け入れ、つい昨日結婚届を出してきたそうだ。


「あ、昨日お休みしてたもんね!?」

「そうなの。ちょうど大安だったから」

「そうだったんだ~。おめでとう!」

口々にお祝いの言葉を口にしながら、気になるのは密かに玖珂さんを狙っていた庄埜さんの様子だ。どうせそれほど本気ではなかっただろうと思っていたのだが――


「…………………」


「庄埜さん……?」

驚いた表情のまま軽く放心していたようだったが、声をかけられ我に返った様子はいつものチャラい庄埜さんとは少し違っていた。

「……おめでとうございます」

「ありがとうございます」

ほんの少し寂しそうな陰りを含ませたその笑顔は、初めて見る顔だった。


「ところで撫子、頼みたい事って?」

「あ、そうそう。……これなんだけど……」

バッグから取り出したのは、サーカステントを図案化したロゴマークが箔押しされた、リングケース。

「え?なに?」

一斉にガックリと脱力した僕たちを見て、玖珂さんが驚く。

「いえ……こっちの話です」

ここ数週間の懸案で、たった今謎が解けたところのプライベート・サーカスのマリッジリングが目の前に取り出されたのだから。

「これね、実は彼がここの会社でレーザーマーカーを入れているの」

「ええ!?」

思いがけない展開だ。


「マーカーの機械を導入したばかりで、どんな事ができるのか色々試している時に、どの程度長い文章が入るのかを試そうとして、ちょっとした遊び心でこんな文章を入れたんだって。それがたまたま社長の目に留まって、“面白い”って、企画の進んでいたマリッジのコンセプトに追加される事になったらしいの。でもその時はもう各店舗の展示サンプル分も、各サイズの在庫の作り込みもほとんど済んでしまっていたから、それ全部に後から文字を入れる事になったんだって」


「そういう事かあ~」

僕らが、“永遠すぎる愛”をデザインの一部とは考えなかったのは、それがどう見ても後から入れられたものだったからだ。


普通、金性刻(K18やPt900など、何でできているかを表す刻印)やブランドロゴなどは原型に刻印されていて、キャストになった時点で既に入っている為、見ればすぐに分かる。


“永遠すぎる愛”は後から、つまり依頼を受けて入れられたものであるはずだったから、僕らはそれが、詐欺じゃないかと気を揉む事になったのだ。


「で、これをどうして欲しいの?わざわざうちらのところに持ってきたって事は、文字を消したいわけじゃないんでしょ?」

それなら店舗で引き受けてくれるはずだ。

「せっかく彼が入れたんだから、消さないで、“Love”のOのところにブルーダイヤを留めて欲しいなって思って」



玖珂さんからの依頼を引き受け、作業場に戻る途中、自分に言い聞かせるように呟いた庄埜さんの言葉が偶然耳に入った。


「それでも、世界に愛は溢れているんだ」

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