第8話
心が、ざわざわしている。
次の日の放課後になっても、心のざわめきは昨日から収まる事はなく、いや増していた。
こうして、今日もまた一緒に育ちゃんと帰って、しゃべって、笑っている時も、大きな予感と不安が、私の中で肥大しているのを感じる。
いつからだろう。
訊いてはいけないのに。
何かを決定させないと、私の中のざわめきが収まってくれない。
「十子ちゃん? 」
軽く右手を引っ張られた。つないだ手と手から、育ちゃんの体温が伝わる。
「また何か怒ってる? 難しい顔してるよ」
育ちゃんが笑って私の眉間を指差す。
私の中のざわめきが収まってくれない。
「育ちゃん」
「ん? 」
何かを決定させないと。
「中川君はどうしてるの」
育ちゃんは一瞬黙った。
「何、いきなり」
「別に。ただ中学の時あんなに仲が良かったから、どうしてるのかな、と思って」
すらすら言葉の出る自分に驚く。
「さあ・・・。高校離れちゃったしね。それに、すごく仲が良かったわけじゃないよ」
「そうだったっけ? 」
「そうだよ」
育ちゃんはにっこりと笑った。
いつものように爽やかな。
何の曇りのない笑顔。
「・・・そうよね。そうだったよね」
私と付き合うようになってからはね。
私は無性に腹が立ってきた。
心から体に毒が流れ出ている気分だ。
私は立ち止まった。握っていた手を離す。
「・・・ごめん先に帰ってて」
育ちゃんが不思議そうな顔をした。
「今日図書委員会だった。忘れてたわ」
いらいらしながら早口で言った。
育ちゃんが、え、何て、と聞き返す。
「エイジと約束してたの」
思わず声が大きくなった。
口をつぐむ。
育ちゃんは私をじっと見つめて、
そっか。じゃあ先に帰ってるね、と言った。
そうして帰りかけ、彼はもう一度振り返り、言った。
帰りは暗くなるから気をつけてね。
私はひどく情けない気分になった。
どくどく。
どくどく。
毒が全身に回っている。
私は急いで育ちゃんに背を向け、逃げるように学校へ駆け戻った。
図書館へ走る。
建物の中に入り、図書管理室へ駆け込む。
ここなら生徒は来ない筈だ。
「あれ、どうしたんだよ」
エイジが机に座っていた。
私は肩で息をしながらその場に立ちすくんだ。
「・・・なんでここにいるのよ」
「先生にコンピューター入力頼まれたんだよ。そっちこそ何だよ。委員会は明日だろ」
エイジがにやりと笑う。
いけない。
今にも涙が出そうだ。
「・・・ティッシュ取って」
下を向いてエイジの横にあるティッシュボックスを指差す。
彼が放った箱をひっつかみ、後ろを向いて鼻をかんだ。
「・・・走って来たから暑くなって」
言った途端、言い訳がましい、と思った。
背中に感じるエイジの視線に耐えられない。
「ふうん」
エイジはそう不満げに漏らし、一転して茶化した口調で言った。
「今日は一緒じゃないのか、“育チャン”は? 」
今日は違うわ、と言おうとして、
目から涙がこぼれた。
ぽろぽろと頬を伝う。
私はエイジに背を向けたまま、歯をくいしばって耐えた。口にあてた手の指の間から嗚咽が漏れる。両肩が上下に揺れた。
やがてキイ、と椅子の回る音がして、パソコンのキーボードを叩く音が聞こえてきた。
「座れよ」
そっと振り返ると、エイジは私に背を向けて、パソコンに何か打ち込んでいた。
私はのろのろと手近なソファに近付き、腰掛けた。革張りのソファに深く沈みこむ。その柔らかな感触が少しだけほっとさせた。
しばらくの間、部屋には低い嗚咽と時々鼻をかむ音と、キーボードのカタカタ言う音以外何もしなかった。
私が最後に鼻をかんだ後も、エイジは黙ってパソコンに向かっていた。
彼の背中を見つめた。
白いセーターに包まれた、細めの広い背中。
その背中に向かってしばらく逡巡していると、エイジが前を向いたまま言った。
「コンピューター入力、手伝ってくれないか」
私は初めて素直にうん、と頷いて立ち上がった。
作業は四十分程で終わった。
エイジはその間育ちゃんの事を何も尋ねなかったし、私も何も話さなかった。
だから、そのままなんとなく一緒に帰る事になり、帰り道の途中で突然エイジが
「育は優しいのか」
と尋ねた時、私はかなり驚いた。
驚いたまま、強く頷いた。
優しい。
育ちゃんはとても優しい。
だから私は時々苦しい。
しばらく無言になった。
「すごいよな」
ぽつりとエイジが言う。
「自分に厳しいんだな」
私はエイジの顔を見上げた。
「じゃなきゃ人に優しくできないだろ」
「・・・うん」
うん、そうだね、と私は言い、
絶望的に悲しくなった。
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