第28話 重なり合う現実
「み~づげだ!づいにみずげだぞ」男から酷く耳障な濁った声が聞こえてきた。壊れたスピーカーでもこんな音はしない。生まれて初めて耳にする不快な声だ。生理的な嫌悪感が込み上げてくる。
「真っ赤な顔・・。ありゃあ何だ!」仲村は古林に叫ぶ!古林が慌てて首を振る。古林が珍しく狼狽え、ミズホに何か話しかけている。男が屈み込み羽間に何か話しかけている。
「羽間ざん。起ぎろ!兄ぢゃんはどごだ!どごにいる」陽炎の揺らめきの中、顔中に鮮血を塗りたくったように真っ赤な顔の男が横になっている羽間を揺さ振っている。
仲村は羽間に駈け寄ろうとするが近付けないでいた。仲村が一歩踏み出した途端、足の裏には床の感触が無かった。驚き怯え足下を確認する。床は足の下に確かにある。見えている。それなのに床の感触を全く感じられない。気のせいかと思い踏み出そうするが足の下に何の拠り所が無い心細さから落下への恐れを生じさせ次の一歩を踏み出せない。
突如、部屋全体が揺らぎ始め、エレベーターで下るような落下感と非現実感が同時に凄まじい勢いで腹の底から沸き上がって来た。周囲の物や眺めに全く実体を感じられない。逃げ水の中を彷徨みたいな感覚だ。確かなもの、確かに実在する物を探し目線が泳ぐが、きつい目眩にも似た症状が仲村を攻め立てる。方向感覚は失われ天地左右の区別が全く出来ず自分が立っているのか寝ているのか姿勢さえ分からない有様だった。羽間や赤い顔の男が目の前に見えるのにどうしたらたらそこへ行けるのかが理解できず身を竦ませるだけだった。
「古林!動けん。どうしたら・・・」自分でも信じられない程情けない声を出した自分に仲村は驚いた。
「仲村、動いても無駄だ。この場の空間構成に歪みが生じている。あの男が歪みの中心だ。大きな力が働いている。信じられん」仲村はこの切羽詰まった状況で思わずニヤリと笑みをこぼしてしまった。あの古林が「信じられん」などと言うとは。以外だ、だが今はこんな事思っている場合ではない。
「何か方法はないのか。ミズホは何とか出来ないのか」
「俺たちは羽間の現実に接触しているわけでは無い。この場で観測しているにすぎない。俺達はあくまでもオブザーバーだ。今出来ることは何一つ無い」
「見ていることしか出来ないのか。あいつが羽間に何かしようとしているんだぞ!」叫ぶ仲村。歯がゆい思いで羽間と男を見守しかないのか。二人を睨み付けた仲村の表情が変わる。あの男には見覚えがある。会ったことがある。羽間の主治医の太嶋とか言う医師だ。真っ赤な顔をしていて気づかなかったが。何故、赤いんだ。何故、いるんだ?
太嶋は羽間の肩を揺さぶり問い詰める。
「起きろ!起きてくれ!兄ちゃんは!兄ちゃんは何処にいる!教えろ!教えてくれ!お願いだ・・・」太嶋は怒りながら、懇願しながら羽間に問い続けた。
羽間は朦朧とした意識の中、目の前で赤い顔の男が何か喚いている。ここは何処だ。まだ体が睡眠を欲していた。
「・・・・」何か言おうとしたが言葉が出てこない。喚いている男は太嶋先生だ。赤い顔だ。ここで何をしている。先生、体が動かないんです。何のことだろう。兄ちゃんとは太嶋先生の兄の事か?
「知らない・・・」羽間はやっとの事で答えた。
羽間の返事を聞いた途端に太嶋の体から異様な波動が発散された。その波動は凄まじく、空間を波立たせた。
「知らないはずないだろう!お前が!お前が現れてからなんだ、お前が現れてからあの赤いピエロが・・・、知っているんだろう。頼むよぉ。兄ちゃんは何処に居るんだ。教えてくれよぉ!」太嶋は執拗に羽間に喰ってかかった。
「うう・・・気持ち悪い」空間のうねりによって胃袋あたりを鷲づかみにされ、引っ掻き回されるような感覚に仲村は呻いた。古林とミズホは驚愕の表情を浮かべ羽間と太嶋を見ていた。
「こんな事って・・・おかしいわ!あの赤い顔の人は何なのよ!」ミズホが叫ぶ。
「この空間構造まで影響している。未知の力が作用している。ミズホ!詳しく状況観察しろ。何が起きている!」
「古林・・気持ち悪い・・内蔵を吐き出しそうだ」
「しっかりしろ。ただの空間酔いだ。死にやしない。直に慣れる。多分」
「オエッ!何が多分だ。ううう・・オエッ!ほんどうに、じにそうだ。オ
エッ!」仲村は嘔吐きながら古林に訴えた。極大の不快感のため空間の変異も古林とミズホのやり取りもどうでもよかった。とにかくこの不快感から逃げ出したくてのたうち回っていた。
「あれ見て。あの二人の周り」ミズホが指さした。
「変動の前触れか?ミズホ、体調は大丈夫か?」珍しくミズホを気遣う古林に彼女は頷き返した。羽間と太嶋を中心に周りの空間がぶれていた。ぶれていると言うより振動している様に見える。空間のぶれは徐々に広がり、古林達の周囲を覆い始めた。その光景は滲み、呆け、歪み、多重露光で撮影した写真のように幾つもの像が重なりぶれて見える。その中で唯一羽間と太嶋だけが像を結びハッキリと確認できた。
いつの間にか部屋中が薄紫の色で満たされていた。仲村はその色に見とれていた。部屋の中は相変わらず像が幾重に重なって見えるが、先程までの不快感は嘘のように無くなっていた。何時不快感が収まったのかまるで記憶がない。不快感があった事は憶えているのだが。気持ちが悪かった様な気もするし、そんな事はなかった様な気もする。依然として記憶が全て曖昧に感じられた。
「仲村!備えろ。来るぞ!」古林の声が頭の中から響いてきた。
「何だ!何がだ?」
「羽間達を見ろ」今度は胸の奥から古林の言葉が響いてきた。その言葉のあまりのうるささに頭痛がぶり返す。
「もっと穏やかに話せないのか・・」と羽間達に視線を向けた途端大きなうねりが襲ってきた。空間のうねりは津波の如く押し寄せ仲村達を巻き込んだ。うねりと共に無数の冷え冷えとした雨が体を突き抜ける感覚に仲村ははっと息をのみ体を強ばらせる。その感覚は霊塵に巻き込まれた時とよく似ていた。だが色々な感情のフラッシュバックで頭が混乱する事はなかったが、肛門から力が抜けるような不快感が残った。
相変わらず太嶋は羽間に何事か話しかけているようだ。一体、太嶋はあんなに必死の形相で何を話しているのだろう。羽間に危害が及ぶ事は無い様に見えるが。古林が声をかけてきた。
「部屋の様子はどんな風に見える?」
「薄紫の空気に満たされている様な感じに見える」と仲村。
「ミズホはどんな風に見える?」
「暗いラベンダーの色」
「俺は赤味がかった藤色に見える。大体の印象が同じだな。まだこの場は成立している」薄紫の空気に満たされた室内の光景に違う風景が浮き上がってきた。その風景に仲村は目を凝らした。田園の風景だ。田園の風景に視線を集中する。像は焦点を結び眼前に夕暮れの田園風景が広がった。
懐かしい匂い。忌まわしい香りが太嶋を包み込んだ。稲の匂いと焦げ臭い空気の香りだ。顔を上げる。蒸し暑い風が吹き渡り、辺り一面がざわざわと黄金色に波打っていた。太嶋と羽間は黄金色に色づいた稲穂の中にいた。太嶋は羽間から離れ周囲を見渡した。
「ここか。此処に兄ちゃんがいるんだな」太嶋は一方的に羽間に言い捨てるとガサガサと稲穂をかき分け走り出した。体中からの大量の発汗と稲穂の所為で体中がチクチクする。ハアハア、ゼイゼイと蒸し暑い田圃に太嶋の息遣いが響き渡る。人の肌とは思えないほど赤く染まった顔に汗を浮かべ田圃の中を走り回った。
「にいちゃーん!」太嶋は声の限り叫んだ。それに呼応するかのように目の前に畦道が浮かび上がる。畦道の先には夕日を背に受け長い影を創っている人影が二つ寄り添うように立っていた。此処からは逆光で顔は見えない。
「見つけた!兄ちゃんだ。見つけたぞぉ」二人の人影に向かい走り出すが、走っても走っても距離が縮まらない。前方の人影を睨み、赤い顔から滝のように汗を流し荒い息で走り続ける。頭の中には自分の荒い息づかいと兄への想いだけが響いていた。
届かない人影を掴む様に手を伸ばすとグンと距離が縮まる。太嶋の赤い顔に笑みがこぼれる。もう一度人影めがけ腕を振り回す。グン。人影の表情が分かるほどの距離に到達した。太嶋の瞳孔が広がる。
「兄ちゃん・・・見つけた。やっと見つけたよ」太嶋は自分に言い聞かせるように呟いた。太嶋の目の前にいる人影は紛れもなく行方不明当時のままの兄だった。太嶋はブルブルと震える手を兄に向かってそっと差し出した。
「ありゃなんだ?」と間の抜けた声を上げる仲村。
「分からん。何だろうな?」と間の抜けた仲村に調子を合わせるように古林は言った。太嶋の前には黒い固まりが出現していた。黒い固まりは夕暮れの畦道にぽっかりと空いた穴のように見える。
「空間に穴が開いている様に見えるな」と古林。
「あれ、気持ち悪い動きしてないか」仲村は古林を肘で小突きながら言った。よく見ると黒い固まりは動いたり静止したり律動を繰り返す不思議な動きをしている。
「おい古林!あいつ、手を伸ばしている」
「何だろう。穴にも見えるし、黒煙の塊にも見える」
「お前に解らない事が在るのか」皮肉っぽく仲村が言う。古林は仲村の皮肉など意に介さず真面目に答える。
「ああ。今、起こっている事は全て想像すら出来ない事ばかりだ。素晴らしい観察が出来る」と言うとミズホの方を見た。ミズホ何時ものように不愉快な表情を浮かべるとそっぽを向いてしまった。
「想像って、お前の理屈は想像だか妄想から来ているのか?」呆れたように仲村が言った。
「そんなもんだろう。想像無くして理論無しだ」
「適当なことばかりいいやがって」と仲村は古林の頬を思いっきり引っ張ろうとする。
そうはさせじと頬を守ろうとする古林。
「なにやってるのよ!消えちゃったわよ」ミズホが叫んだ。
「えっ!ええっ・・・」古林は悲しそうな声を出し周囲を見渡した。
周囲には太嶋も黒い影も夕暮れの田園も無く羽間の室内の風景が朧気に揺らめいていた。
「俺達羽間の部屋に戻ったのか?」
「違う。いい加減に俺の言った事を理解しろよ。ここは観測点だ。俺達は見ているだけの存在だ。そして今、観測している世界との境界点が羽間らしい」
「お前の適当な想像やら妄想なんぞ理解できるか」仲村はまだ古林の頬を抓ることに執念を燃やしていた。
古林は仲村に言い聞かせる事を諦め「仲村。次のステージだ」と古林は仲村の注意を周囲に向ける。揺らめく室内の風景に同じ室内の風景がダブって広がりだした。広がり出した風景の中に人影らしき物が揺らめいて見える。二重写しの風景が広がる。羽間の部屋で羽間の部屋と同じ部屋の映像を映写している映画館に見える。
「あれは・・真衣ちゃんか?」仲村が叫ぶ。像が揺らめき見づらいが羽間の娘の真衣が母親のひろみに抱きしめられている。太嶋らしき男も確認できた。
「何をしているんだろう。あいつは。何時の間にあそこへ行ったんだ?」と仲村が言っている間にひろみの腕から真衣が飛び出していた。
むせるような稲藁の香りと蒸し暑さで息が苦しい。息が苦しいのはそれだけでは無かった。太嶋の手がガッチリと羽間の肩に食い込んでいた。太嶋は羽間を押さえつけ一方的に何事かをがなり立てていた。羽間の「知らない」の一言がその場の空気を変えた。一瞬、紫の閃光が走った。ガッチリと肩を押さえつけていた太嶋の手から力が抜け、肩が軽くなった。今まで羽間にのし掛かっていた太嶋はキョロキョロと周りを見ていた。
「ここか。此処だな・・・」と何事か呟いた。羽間を放り出すと重い穂をつけた稲を掻き分けふらつきながら立ち去っていった。太嶋の行く手には、毒々しい色の夕日を浴び立ちつくす二人の子供が見える。イガグリ頭で汗にまみれ薄汚れたランニングと半ズボン姿の二人の男の子は昭和も半ばの子供の姿そのものだった。背の高い子供が小さい子供を庇うように佇んでいた。兄弟らしい。
太嶋が濁った声で何事か叫びながら子供達に近づいていく。何を叫んでいるのかは羽間には聞き取れなかった。兄の方は腕で弟を目隠しながら怯えた表情で太嶋を見つめていた。太嶋が震える手を兄の方へ伸ばすと二人の姿がゆらゆらと揺れたかと思うと弟を残し太嶋と兄は弾け消滅してしまった。その途端兄弟のいた田圃の景色は立体感を失い平面的に見えだした。
毒々しい夕日の色が目に痛い。太嶋が弾けた影響か波紋のようにそこだけ空気が揺らめき滲んで見えた。羽間は滲み揺れている田園風景を見ている事が視覚に異常なまでの負荷をかけ、思わず目を押さえ込んだ。再び目を開けた時には元の自室の光景が広がっていた。
目を細め周りを見渡す。窓の外は雨。力無い光が窓から射し込んでいる。部屋には人が居た。子供と母親らしき女性が抱き合いリビングで話し込んでいる。直ぐ側にいる羽間にはまったく気付いていない。気付いていないと言うより親子には羽間のことは見えていないようだ。羽間はその二人を写真で知っていた。ひろみと真衣だ。妻と娘だ。近づこうとする。ほんの二、三歩の距離だ。だが蜃気楼のように、虹のように近付けない。歩いても走っても二、三歩の距離は縮まらなかった。手を伸ばせば届きそうなのに絶対的に縮まることのない隔たり。この僅
か二、三歩の距離は絶対に縮まらないと本能が教えていた。知りたい。話したい。自分の失った家族の事を、何故彼女達の記憶だけ無いのだ。自分は誰だ。頭の中の空白を埋めたい。目の前に家族がいるのに近付けない。話せない。彼女達のすぐ側にいるのに彼女達には羽間が見えていない。だが羽間には絶望も悲しみも感じられない。ただ、ただ、己の空っぽの心に戸惑うだけだ。
「羽間」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと仲村達が心配そうな表情を浮かべ立っていた。
「ああ・・・」と羽間はいつもの調子で答える。
「大丈夫か」と仲村が声を掛けてきた。
「近付けないんだ。目の前に居るのに。直ぐそこにいるのに。あれが俺の家族・・・なんだ」羽間の目の前には何か話し込んでいるひろみと真衣の姿が朧気に揺らめいている。仲村が悲しそうな表情を浮かべ羽間の肩に手を置く。まるで羽間の変わりに嘆き、悔しがっているように。
「そこの彼女達は違う現実にいる。羽間、お前の居なくなった現実にだ。その現実がダブって投影されている」古林が口を挟む。
「羽間と彼女達は会えないのか」と仲村が尋ねる。羽間の肩に置く手に力が入る。
「分からない。向こうの現実も、俺達の現実も改変されている。彼女には仲村や俺の記憶が無くなっている。二つの現実をうまく統合する術を俺は知らない」と古林は静かに首を振った。
出し抜けに仲村が叫んだ。「電話だ!電話だよ。IP電話!ひろみさんと繋がったじゃないか!この部屋の電話はIP電話だ」仲村は羽間の手を引きダイニングテーブルの電話から受話器を引ったくると羽間に押しつけた。
「電話しろ。急げ。この家の電話にかけろ」羽間より仲村の方が慌てふためいていた。羽間は仲村に言われるまま電話番号を入力する。受話器からは何の反応も無い。雑音さえ聞こえてこなかった。
「ダメか。繋がると思ったのだが」
「いや、諦めるのは早いぞ仲村。仲村にしてはいい思い付きだ。繋がるはずだ。接続コマンドがあるはずだ」古林はパソコンへ向かいキーを叩き始めた。
「コマンド?繋がる方法があるのか」古林に詰め寄る仲村。羽間は無表情で古林と仲村のやり取りを見つめている。古林の表情が曇る。
「何かないのか・・・。羽間と彼女達の現実をつなぐ通信コマンド、言葉だ」と古林は訴えるような表情を浮かべ二人を見た。あの掲示板に異変を起こした言葉だ。
仲村と羽間がほとんど同時に口にする「ダママ」と。ミズホが小さく
「ひっ!」と悲鳴を上げ、耳を塞ぐ。しかし何も起こらない。仲村が落胆の表情を浮かべた時、パソコンに見入っていた古林から「よし、来た。いいぞ」と声が漏れる。
「何がいいんだよ。全然つながらないんだぞ」と仲村。
「見ろよ。パソコンから値が返ってきた。反応している」嬉しそうな声で古林が言った。モニターには文字列の最後の行に command not foundと表示されている。
「コマンドが見つからないんだろ。結局どうにもならないじゃないか」
「仲村、俺はこのパソコンを操作していない。それなのにこのパソコンは反応している。さっきのコマンドもお前と羽間が発語しただけだ。この現象がどんな事か解っていないのか。それにこの場合はコマンドが間違っているか、足りないかどちらかだ。他に無いのか」くどくどと古林言う。
羽間がぽつりと呟く「パコン・・・。ブボン・・・。ダママ・・・」仲村、古林、ミズホが一斉に羽間の方を見た。一瞬の間を置き、モニターに文字が表示される。
$ Pacon Bubon Damama
「来た、来た!状況が動くぞ」古林が声を張り上げた。仲村、古林、ミズホは固唾を飲みモニターに見入る。突然、落雷のような轟音が部屋中に響き渡った。三人とも床に倒れ込み耳を抱え込んだ。仲村達が顔を上げる頃には静けさが戻っていた。静まり返った部屋に羽間が受話器を握り佇んで居るだけだった。仲村が羽間に声を掛けようと口を開き掛けた時、奇妙な現象が起きた。胸の中から音がする。聞き覚えがある音だ。胸の中と言うより体の中と表現した方が近い。それは他の二人、古林もミズホも同じ状態らしかった。
聞き覚えのある音は電話の呼び出し音だ。体の奥底から響いてくるように感じられた。部屋いた太嶋はいつの間にか消え抱き合う母娘だけが見えていた。
羽間は受話器をそっと耳に当て目の前に見えているひろみが受話器を取り上げるその時を待った。ひろみは真衣を抱きしめ受話器を見つめ怯えていた。
「受話器を取れ!取るんだ、ひろみさん」仲村が叫ぶ。ひろみの表情は変わらずじっと受話器を見つめたままだ。次の瞬間、ひろみの腕から真衣が飛び出し、引ったくるように受話器を取り上げた。羽間の耳にガチャリと受話器を取り上げる音が届く。
「もしもし。お父さんでしょ。お父さんだよね。真衣だよ」可愛らしい声が受話器から漏れてきた。羽間はどう答えて良いのか解らず押し黙ったままだ。
仲村たちの目の前にはリビングとダイニングで電話をする家族の姿が見えていた。距離で三メートルにも満たないがその間は永遠に縮まらない距離。父と母娘が別々の現実に存在する為にお互いが出会えることは無い。不思議で悲しい家族の姿だ。何とか出来ないのかと強く仲村は思う。
ひろみの顔に驚きの表情が浮かび、やがて希望に輝くとびきりの笑顔に変わる。
ドクン!電話の着信音が響く度にひろみの鼓動は大きくなる。悪い予感では無いが胸が苦しい。頭の中が期待で沸騰していた。電話の主が誰かは直ぐに解った。しかし受話器を取ることが怖かった。ひろみが鳴り響く電話を見つめ躊躇していると真衣があっと言う間も無く受話器を取り上げ話しはじめた。
「お父さんでしょ!・・・」
真衣の言葉を聞いた瞬間、ひろみは歓喜と僅かな憎しみが胸一杯に広がる。
「今、お母さんに変わるね」と真衣は微笑み受話器をひろみに差し出した。ひろみは慌てて髪を撫でつけ整えると震える手で受話器を受け取った。受話器を耳に当てた瞬間、胸に溜まった嘆きや憂いが消え去り、心が軽くなる。
あの人だ、間違いない。受話器越し感じるこの感触、この空気感は間違いなくあの人だ。ひろみにはこれ以上無いほどの明るい笑顔が浮かんだ。
「・・・・」言葉が出ない。何から、何を話して良いのか解らない。話す事も訴える事も沢山、沢山あるのに。なのに、溢れる想いだけが空回りをし、言葉が出ない。真衣がひろみの腰のあたりを小突く。思わず言葉がもれる。
「あなた・・・。ねぇ、あなたなの?」ひろみの視線の先には低く唸る冷蔵庫がある。
目の前に母娘の像が映っている。初めて見る妻。初めて見る娘。お互いが違う現実にいる俺の家族。手を伸ばせば触れる程近いのに。永遠の隔たりがそこに存在している。
「ああ・・・」と羽間は取り敢えず返事らしい声を出した。羽間には初めて聞く声だ。この声が自分の妻の声か・・・。何の感慨も思いも羽間の心には涌いてはこなかった。何を答え、何を伝えればいいのだろう、いかなる事でも感情に影響されない静謐な心で考える。
受話器の向こうでドタバタと騒ぐ気配。いきなり「お父さん!あのねぇ・・・」受話器越しに割り込む女の子の声が聞こえる。真衣・・・か。受話器から可愛らしく、元気な声が聞こえてくる。その声を聞いていると胸の芯に熱が点るのを感じられる様な気がした。羽間は呟く様に声を出す。
「ああ・・・。ま、真衣か・・・」と。窓から光が射し込み、羽間の顔を照らす。
「羽間が泣いている。涙を流している・・・」声を上げる仲村。
「違う。光の加減だ。光が頬に反射して涙みたいに見えているだけだ。羽間は生理的現象意外では泣きたくても泣けない。忘れたのか仲村」あきれたように古林は言った。
「お前は・・・。俺の言うことに何時も水を差す。あれは泣いているんだ。感情が戻ったんだ。俺はそう信じる」まるで拗ねた子供のみたいに仲村は言う。
「そうか。好きに思え」そっぽを向く古林。
「どうなるんだろうなぁ。あの家族は・・・。古林、羽間はあの二人に会えるのかな」仲村は雨上がりの澄んだ光を浴びる母娘の幻のような映像を見ながら問いかける。
「さあな。だが、何とかして会わせてやりたい。いや、会えるさ」古林も光に包まれる羽間の姿を眩しそうに見つめていた。仲村は古林の方を見る。
一呼吸おくと「珍しいな。お前が希望を口にするなんて。状況観察しか出来ないと思っていた」仲村の言葉に苦笑いを浮かべる古林。白いカーテンを揺らし流れ込むしっとりとした風が心地良い。気がつけばあのまとわりつくような不安を掻き立てる違和感が消えている。この環境に慣れたのかミズホは古林の側で居眠りを始めた。取りあえずこの場は安定しているのだろう。
「なぁ、仲村。この世界は想いで出来ているのかも知れないな・・・」と言うと古林の頬がポッと赤く染まる。
仲村はニヤリと笑みを浮かべ「お前、ロマンチストなんだな」とからかうように言う。
仲村と古林の二人は僅かな言葉しか発しない羽間と一生懸命に何か伝えようとする真衣のやり取り見ていた。受話器を両手で大事そうに握り締め話す真衣を見守るひろみの表情は希望に溢れていた。真衣が受話器に向かい何か叫んでいる。その表情は子供らしい笑顔で溢れている。不意にひろみと真衣の姿が光に包まれる。二人の姿は光に溶け込み消え去った。
「消えてしまった・・・」仲村が騒ぐ。
「多分・・・それぞれの現実に戻ったんだ」と言うと古林はミズホの方を見る。いつ目覚めたのか、ミズホは静かに頷いた。羽間はまだ受話器を握り締めている。まだ娘や母の現実と繋がっているのだろうか。
「俺たち、どうなるんだろう?」受話器を握りしめる羽間の後ろ姿を見つめ仲村は呟く。
「そうだな、多分、何時もとちょっぴり違ったそれぞれの現実にいつの間にか戻っているはずだ。気付かないうちに」
ちょっぴり違う現実とはどんな現実だろう。世界の理によって整合性を保つために書き換えられた現実の事だ。ちょっぴりの度合いが解らない。古林の言うことが当たっているのならば、俺の記憶も想い出も確かなものなど何一つ無い。常に世界の理が気づかないうちに俺たちの現実を変化させている。
仲村は腕時計をそっと耳に当てる。腕時計はいつものように優しく穏やかに時を刻む音色を奏でていた。何時の日か羽間は家族に会えるのだろうか。古林が言うように世界が想いで創られているのならきっと羽間は家族に会える。と仲村は思う。少なくとも古林も仲村も向こうの現実のひろみ、真衣の母娘も想いは同じはずだ。
「なぁ、仲村。今回の件は突っ込み所が満載だ。ハナコ404にアクセスしていたメンバーだけどな、多分、全員がそれぞれ違う現実からアクセ・・・」と言いかける古林に仲村が言葉を被せる。
「もういい、多分も、恐らくも必要ない。もう、いいよ」
古林はまだ何か言い足りない様子で口をとがらせ携帯の取説を弄び始める。
気怠く、疲労感が体の底から湧き出してくる。時折フッと意識が薄れる。ウトウトと微睡始める仲村。
「仲村!見つけた。ダママだ。ここがダママを最初に発信したサイトだ。何をしている、居眠りしているのか。起きろよ!」古林の声で起こされる。
寝ていたのか。かなり疲れているのかと仲村は年相応の心配をする。古林は例の薄笑いを浮かべ目を光らせモニターを睨んでいた。
「さてと」そう呟くと仲村は窓へ視線を移す。ぼんやりとした朝日が窓から射している。何か物足りない想いが心に残っていた。それを振り払うかのように仲間に声を掛ける。
「古林、羽間。さあ、新しい都市伝説を探しだ」
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