第25話 隙間男

「ピエロだ・・・ピエロが・・・赤い奴だよぉ。兄ちゃんが・・・何処にいる!」ブツブツ呟きながら歩いていた。頭の中には兄の事しかなかった。羽間が何か知っているに違いない。そうに決まっている。あの男と関わってからだ。赤いピエロがまたやって来る。太嶋は何の根拠もなくそう思い込んでいた。

「彼奴が知っているはずだ。兄ちゃんの事も。何もかも知っているはずだ」

足は早くなり、顔からは脂汗が滲み、息が上がる。運動不足の自分を気に病んだ。頭痛もしている。羽間のマンションに着く頃には全身汗まみれで不快感な冷たさが体を包んでいた。

「落ち着け。落ち着くんだ。必ず見つけ出してやるからね。兄ちゃん」

太嶋は目の前にあるエントランスにあるオートロックシステムのインターフォンを睨み付け、訪問先である部屋番号をパネルのテンキーで入力し、名前を伝え応答を待つ。

 

 ひろみはインターフォンのモニターを覗き込んだ。そこには、見ず知らずの男が映っていた。

「太嶋と申します。羽間浩一さんはいらっしゃいますか?」モニターの男は言った。面識はない。誰?誰だろう?と一瞬、ほんの一瞬、考え込んだ隙に見ず知らずの男はモニターから消えていた。

「どうしたの?誰だったの?」怪訝な表情を浮かべるひろみの顔を覗き込みながら真衣は尋ねる。

「エッ。うん・・・誰だろう。お父さんの・・・知り合いかな・・・」真衣の問いに混乱しながら答えるひろみ。浩一の名前はひろみの戸惑いと混乱に拍車をかけた。ドクンと鼓動が一つ、大きく高鳴る。

 再びチャイムが部屋中に驚くほど大きな音で鳴り響いた。ぎょっとするひろみ。エントランスからのコール音では無い。ドアチャイムの音だ。エントランスの解錠をした覚えはない。覚えも何も先ほどモニターで確認してから一分と経っていない。仮に解錠していたとしても一分以内でこの部屋の前まで来られる訳がない。物理的に不可能だ。ドアの外にいるのは太嶋と名乗った男だろうか?それとも自治会の人が回覧板でも届けにきたのだろうか?そんな訳はない。モニターの男だと強烈な確信が沸き上がってくる。

 ドアの外に太嶋と名乗る男がいる。夫の事で何か情報をもたらしてくれるのだろうか。

ひろみは強烈な予感での胸が破裂しそうなほど動悸が激しくなる。太嶋と名乗っているがドア越しに伝わってくる気配は紛れもなく夫の予感を運んできていた。

 しかし、嫌な胸騒ぎも膨れあがっていた。玄関ドアから嫌な空気が漂い出してきた。玄関前を確認するため、恐る恐るドアスコープに目を近づけた。

「ひいっ!」ひろみは声にならない悲鳴を上げ尻餅をついた。ドアスコープの魚眼レンズ越しに真っ赤な顔がこちらを覗き込もうとしていた。

「何!何なの!アレは・・・」目にした瞬間、痺れるほどの恐怖が貫き、体が硬直し、掠れた声しか出せない。母親の異変に真衣が駆け寄る。ひろみは我知らず真衣を抱きしめ、息を潜め玄関ドアを睨み付けた。真衣を抱きしめる腕に力が入る。再びチャイムが執拗に鳴り響く。チャイムの回数が何十回、何百回にも感じられ、鳴り止まな

いのではないかと思われた。ひろみは祈った。お願い止んで。家の前から、私達の側から居なくなって。チャイムが止んだ。安堵の静寂が親子を包んだ。あきらめたの・・・?行ったの?と玄関ドアに懇願しながらドアを睨みつける。

 突然、ガチャガチャとドアノブが鳴った。赤い来訪者がドアノブを回し始めたのだ。ひっ!と声にならない悲鳴がひろみの口から漏れ出る。音はやがてドン!ドンドン、とドアを叩く音に変化した。その音はひろみの胸を刺し、さらなる恐怖へと導いていく。

「開けてくれませんか!居るんでしょ!開けるんだ。開けろ!羽間さんに会わせてくれ!」叫び声が聞こえてきた。助けて。誰か助けて!と懇願するが、執拗にドアは叩かれ、叫び声が大きくなる。耳元で声がする。

「開けろ!開けるんだ」と太嶋の怒声が頭の中で膨れあがり、気が遠くなるような恐怖が体中に染みこんでくる。玄関ドアを中心に空間が歪み、ぼんやりと視野が滲み物の輪郭が定まらない。頭を振ったり、目を細めたりしても玄関付近の歪みは収まらない。激しい目眩がひろみを襲い、意識が遠のく。今、直面している脅威の為、精神に変調を来し始めたのだとひろみは思った。このまま、意識を失ったら・・・。真衣を守れない。

 ダメ、気を確かにと自分を奮い立たせようと唇を噛みしめる。しかし、真衣の表情や様子まで見る程の余裕が無い。ただ、ただ抱きしめることしか出来なかった。空間の歪みは止まらず、玄関から部屋中へ広がりだした。ドアを叩く音は一向に止む気配が無く、何かがぶつかるような音に変化していた。早くドアから離れ、少しでも安全な所へ逃げ込まなければと思っていても怯えきった体は竦み動けず、恐怖で見開かれた目でドアを見つめるばかりだった。

 ドアの隙間から半透明の紙がはみ出している。ひろみは目を凝らした。ドアからはみ出している紙はずるずるとひろみの方へ向かい伸びてきていた。その紙の正体に気付いたひろみの理性と現実感はすっ飛んだ。良くできたドキュメンタリー映画を見ているみたいに臨場感があるのだが、絵空事だと思わせる非現実感に駆られる。これは悪夢だと言う強い思いが沸き上がってきた。そう思えとひろみの心はその命令を最優事項で発している。

「嘘だ、うそだ、うそだ、うそだ・・・・」心が叫び続ける。

現実感はどんどん遠のき、感情は麻痺し、身体感覚は曖昧になり自分が何処で何をしているのかさえ分からなくなりかけている。唯一、腕の中の真衣の温もりだけが確かなものだと実感でき、その温もりがひろみに辛うじて正気を保たせていた。

 ひろみが凝視している半透明の紙、それは人の手だった。ドアの隙間からずるずると手首から腕へと姿を見せ始めたかと思うと、体も続いて進入してくる。するすると頭を残し頸から下が徐々に見え始めた。最後に頭がするんと部屋の中へそれは入ってきた。いや、それは滑り込んできた。人型をした切り抜きがひろみに話しかけてきた。それは先程とは打って変わって紳士的な態度で接してきた。ぺらぺらとした人型の紙だと思っていたのだが、滑り込んできた太嶋と名乗るそれは紙の様に薄くも、赤い顔でも無かった。半透明で周囲が歪んでいる事を除けばだが。

 空間の歪みは太嶋を中心に広がり、ひろみと真衣の前にぼんやりと像を結んでいた。実体感をまるで感じられない。受像状態の悪いテレビを見ているようだ。

「すみません。つい興奮してしまい申し訳ない。しかし、とても重大な用件なのです。羽間さんはいらっしゃいますか?貴方がたは・・・誰?」聴き取りづらくガサガサした声が話しかけてきた。


 インターフォンから聞こえてきた声は女の声だった。羽間の奥さん?羽間の妻と娘は行方不明で独居のはずだ。身内の誰か・・・?

 いや、羽間には身内と呼べる人間もいないはずだが。太嶋は頭を巡らすが激しい頭痛に思考は中断する。こめかみがヅキヅキと脈打っている。羽間のマンションに近づくにつれ、頭痛は重くなっていた。何だ、ちくしょう!と悪態をあたりにまき散す。頭痛の為、意識が飛び一瞬ブラックアウト。目の前に玄関ドア現れた。いつ此処まで来たのだろう。此処まで来た記憶がない。思い起こそうとするが頭痛が邪魔をする。とにかく羽間に会わなければと言う思いだけが頭痛を押しのける。羽間に会えば兄、雅生を見つけ出せる。まるで根拠の無いその一念が太

嶋を激しく突き動かしていた。

 ドア脇の呼び鈴を押した。応答がない。何故返事がない。居るはずだ。さっき応対したではないか。ドアスコープを覗いてみるが中の様子など分かるはずがない。何度か押してみる。応答は返ってこない。狂ったようにチャイムを叩き続けた。やっぱり応答は無かった。居留守を使っていると思うと無性に腹が立ってきた。感情に任せるままドアを叩き、呼んでみる。またもや頭痛の大きなうねりが頭の芯で爆発する。

 怯えた表情をした女が子供を抱えこちらを見ていた。いつの間にか室内にいる自分に気が付く。ここは羽間の自宅の中か。所々、記憶が欠落している。まあいい。兎に角、羽間に会わなくては。だが、何故そんなに怯えた目で俺を見る。ああそうか、さっき怒鳴ってしまったからだ。怖がらせてしまったのだ。自分の言動を恥、心から申し訳ないと悔やんだ。太嶋は丁重に詫び、優しく話しかけた。

「羽間さんはいらっしゃいますか?貴方は・・・誰?」

女はパクパクと口を動かしているが声が出ていない。何が言いたいのだ。耳を澄まし近づいてみる。女はこれ以上無いほど目を見開き子供を抱きかかえたまま、必死の形相で後ずさりを始めた。太嶋は慌てふためいた。何をそんなに怯えているのか理解できなかった。

俺がこの母娘を怯えさせているのか?何故。確かに声を荒げたり、乱暴にドアを叩いたりしたが決して危害など加えるつもりは無いのに。丁重に謝罪し、紳士的に振る舞っているのに何故、どうして怯えるのだ。

「怖がらせてすみませんでした。何もしません。お願いですからそんなに怯えないで下さい。もちろん危害も加えるつもりはこれっぽっちもありません。どうか安心して。お願いですから。私は羽間さんに会いに来ただけなのです」太嶋は必死で母娘を宥め始めた。しかし太嶋が宥めれば宥めるほど母娘は怯え、ついには悲鳴を上げ始めた。

 

 隙間男の姿がゆらり揺らめいたかと思うと距離が縮んだ。こっちへ来る!近づいてくる!いやぁー来ないで!来ちゃダメェーと声を上げたが声は出ていなかった。隙間男は半透明の身体をもやもやゆらゆらさせながら距離を縮めてくる。頭の中で隙間男の声がする。運動会のアナウンスのように遠くから響いて聞こえる。何か話し掛けて来るのだが恐慌状態の為、何一つ頭に入ってこない。沸き上がる恐怖で頭の中が沸騰していた。真衣を守らなければその思いだけで辛うじて正気を保っている。頭の中に声が響く度、戦慄が体の芯を貫き気力を奪う。這うように真衣を抱いて後ずさりするが思うように体が動かない。恐怖がひろみの体力、気力を根こそぎ消耗させていた。

 もうダメ、動けない。真衣を抱きしめる腕に力を入れる。温かい。答えるように真衣が腕を握り返してきた。小さな手の感触を感じる。真衣はもぞもぞと動き出した。

 大丈夫よ。大丈夫よ。と唱えながら真衣の頭をなで、抱きしめる腕に力を入れる。腕の中の抵抗が強くなる。心配しないで。ママが守るわ。と真衣に伝えようとするが腕の中の感触が妙だ。恐怖でしがみついている感じでは無い。真衣は腕の中でもがいているのだ。真衣が苦しがる程強く抱きしめていない。ひろみは隙間男の恐怖とは別の新たな恐怖を覚えた。真衣はひろみの腕の中から這い出ようとしていたのだ。小さな手が腕を押しのけようと力を込めている感触を感じる。

ダメよ。ダメ。ママから離れちゃダメよ!必死になって腕に力を入れるが思うように力が入らない。止めて、止めなさい。動いちゃダメ。ひろみは祈る。しかし真衣の体は腕からすり抜けて行く。とうとう真衣は母親の腕の中から脱出に成功した。ひろみに絶望と喪失感が込み上げてくる。

 その時「大丈夫だよ。怖がらないでママ」驚くほど力強い真衣の声が聞こえた。

「大丈夫だよ」真衣の少し舌足らずで実年齢より幼く聞こえる声の一言一言がひろみに気力と勇気を与え、隙間男への恐怖が和らぎ、不思議な安堵がひろみを包んだ。ひろみが僅かな気力を取り戻したとたん隙間男を基点に広がっていた空間の歪みが収縮し始めた。

「この人はお父さんに会いに来たの。でも間違えてここへ来たんだよ。怖くも無いし、悪いこと、何もしないよ。だから怖がらないで」真衣は母親にやさしく話しかけてきた。

「今、なんて言ったの。お父さんって言ったわよね」

「ウン。その人、お父さんとお話がしたいんだよ。でもネェ、お父さんここにいるけど、ここでは会えないの」

「真衣、何を言っているのかなぁ。お母さんにも分かるようお話して」隙間男そっちのけで真衣に躙り寄るひろみ。真衣は考え込み、困った表情を浮かべ黙りこくってしまった。

「どうしたの。何故、黙っちゃうの?」

「空気がふるふるするの。そうすると、もやもやと見えるの・・・・知らない!わかんない!」真衣は叫ぶと再び話すことを止めてしまった。真衣がひろみの問いに対し上手く説明出来ずに癇癪を起こした事は母親であるひろみにはよくわかった。しかし、なぞなぞみたいな真衣の言葉をどう解釈したらいいのか見当もつかない。

 ガサガサ、ガリガリと奇妙で気色の悪い雑音が聞こえてきた。雑音の出所は隙間男だった。何か話し掛けてきているようだが言葉として聴き取れない。真衣が隙間男に向かって何事か話しかけた。真衣の言葉も聞き取れない。真衣の話し声まで隙間男の発する雑音と同じに聞こえる。雑音を発する真衣の姿を見るなり血相を変え、本能的に真衣の手を掴む。真衣が消えてしまう。直感がひろみに警告を発している。真衣の姿は滲み揺らいでいた。真衣は驚き、声を出すがひろみには不気味な雑音にしか聞こえない。

「ダメェェェ、お母さんから離れないで」泣き顔で真衣を抱きしめる。

「・・・・したの。お母さん。痛いよ」身をよじる真衣。声の調子が徐々に正常に戻り始めた。

「痛いよじゃないわよ。あなたの姿が消えかかっていたのよ。あの隙間男に連れて行かれそうになっていたのよ」声を荒げ真衣を抱きしめの体中を撫で回した。ここに真衣の身体が実在する事を確かめていた。隙間男の恐怖より真衣を失う恐怖の方が遙かに大きかった。

大事な愛娘を奪おうとした隙間男の方をキッと見据える。空間の歪みは消え、隙間男の姿は陽炎のように儚く揺らいでいた。

 その時、周囲の空気を切り裂くように電話の呼び出し音が鳴り響いた。呼び出し音は部屋中の空気を切り裂き隙間男をも切り裂いた。ひろみにはそう見えた。

 周囲を用心深く見渡した。玄関にもどこにも隙間男の姿は無かった。しかし、部屋の雰囲気が明らかに今までの様相と違う。どこが変わったのかと問われれば答えられない。確かに今までと空気の感触、肌触りが違っていた。違和感が残るがいつもの我が家の空気と似ていた。

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