第24話 遠い想い出

目の前に広がる光景に仲村は唖然とするばかりだった。

「ここは何処だ?・・・」呻き声にも似た声を上げた。このエレベーターが到着したフロアからの眺めはどう見ても四十階近い高さだ。操作パネルの表示は間違いなく六階を表示している。しかも、ここは通い慣れた羽間の部屋のあるフロアでもなかった。共用廊下に照明は灯っておらず、並んでいる戸口にも明かりの灯っている部屋は一軒もなかった。エレベーターの室内灯だけが唯一周囲を照らし出していた。

共用廊下から屋外が見渡せた。階下を見下ろすと底なしの闇が広がり地上はおろか三メートル先まで完全な闇に覆われていた。視線を前方に移すと日没寸前の街並みが目に飛び込んでくる。このマンションに着いた時はすでに日が沈んでいたはずだが。

 眼前には巨大な墓標を思わせるビルが影絵のように林立していた。ビルの谷間から垣間見える水平線には残照の僅かな毒々しい緋色の線を残し、見上げれば赤黒い空にギラギラと億兆もの星が禍々しい光を放っている。これ程大量で、これ程までに光り輝く星々をみたことがなかった。周囲からは地鳴りにも似た、風の音とも叫び声ともつかない唸りが内蔵にまで響いている。街の色彩や音、臭い、空気あらゆるものが強烈な不安や不快感を漂わせている。廃墟感を強く滲ませるビルには嘘くさい青白い光がぽつぽつと灯っていた。ビルもビルの窓に灯る蛍光灯の青白い光も、都会の街並みも見慣れているはずなのだが、吐き気を催す程の猛烈な違和感を生じさせ、異質の経験したことの無い感覚に体の底から悪寒が込み上げてくる。

 仲村は胸が悪くなる様な生理的嫌悪感と本能的な恐怖に凍り付いた。それは未知なるモノへの畏れだった。此処にはいたくないと言う思いと自分でも信じられない程の心細い思いが胸の底からドクドクと脈打ち込み上げ、胸を締め付ける。思わず手首を耳につける。父の形見の腕時計の音だけは何時もと同じ音に聞こえるような気がした。

「今度は何だ・・・ 何処だよ!ここは」震える声で仲村は尋ねた。

「望みの叶う場所・・・」ボソリと古林が呟く。

「えっ!何だ?」仲村は聞き返した。周囲の雑音に紛れぼそぼそと話す古林の声は聞きづらかった。

「何処だろうな」古林は少し考え込み、間をおくと相変わらずのんびりと受け答えをする。楽しんでやがる。状況を楽しんでいる。古林の表情には如実にそれが表れている。古林の態度が鼻につく。また怒りがふつふつと湧いてきた。此奴には恐れとか、動転する事は無いのか。目の前には悪夢としか言いようのない異様な光景が広がっているのに平然としているどころか目を爛々とさせている。状況に対応できずに一人で騒いだり、喚いたりする自分が決まり悪い。仲村は必死で冷静を装い、眼前の風景を眺め、口をひらいた。

「この禍々しい景色は何だ。ここは何処だよ。羽間は何処にいるんだ」怯えを隠す様に矢継ぎ早に古林に質問を浴びせた。

「慌てるなよ。ここは俺達の存在する時階層から生まれた現実の一つだ。属する世界の理は適用される。どんなに異様だろうが所詮は俺たちのいる世界の因果の上で生まれた現実さ。俺達の現実がある所と大して変わらんと思う。多分、羽間の所へも行けるはずだ」 

「大して変わらないだと。こんな気色悪い景色を見てどの口が言うんだよ」仲村は怒りのあまり、我知らず古林の頬をつまみ上げた。驚くほど伸びる古林の頬が気持ち悪い。

「いててっ!」仲村の手を振りほどく古林。

「だからなぁ、ここも俺達の存在する現実と同系の現実のひとつだ。此処まで来られたって事は羽間のいる所へも行けるってことだろ。ここは見てくれが違う程度なの。印象の違う現実だ。落ち着けよ」赤くなった頬を懸命にさすりながら古林は言った。

「落ち着けるか!お前の説明は訳が解らないんだ。多分、羽間の所へいけるだと!多分じゃダメだろ!適当な事ばかり言いやがって。おまけにこんな気色悪い所に迷い込んでしまうし。どうするんだよ!」古林に当たり散らす自分も情けないが、古林のいい加減な言いぐさも相当な物だ。適当で当てにならない。本当に羽間と会えるのかと仲村は思い途方に暮れ頭を抱え込んでしまった。

 仲村の様子を見た古林が携帯電話の取説を弄り始めた。古林の薄く小さめな唇が動く。また、講釈が始まるのかと身構える仲村。

「何故怒る。お前が説明しろと言ったから俺の考えを説明したまでだ。嘘か本当かは自分で決めろ。それがお前の現実だ」仲村は古林の言葉に何も言い返せなかった。混乱と心細さから古林に甘え自分で考えることをせず、ひたすら自分の望む答えを求めていたのだ。自分で決めろか、もっともだ。いい歳をして何をしているのだろうと神妙になる。そんな仲村を見つめながら古林は再び口を開いた。

「俺達は身体が物理的に空間を移動している訳では無い。そうだな、どう表現すればいいのか・・・?近い意味の言葉だと移行、シフト、転移かな。記憶や自意識が他の現実の自分という存在にシフトする。他の現実とは前にも話したが俺達の存在する世界を構成する無数の印象の異なる現実の事だ。今の俺達は見え方や印象が違う所にいるだけであって、間違いなく羽間と同じページの上にはいるはずだ。俺が迷った訳では無いと言ったのは、特異な例外を除けば俺達が他のページ、視点の異なる世界へ行くことは、かなり難しい。と言うより不可能に近い。

それは他のページでは俺や仲村の存在視点が異なっているからだ。存在視点が異なれば俺や仲村の解釈も変わってくる。今のような特異な状況下であっても俺たちには他ページへの移動は不可能だ。今俺達が移動出来るのは印象の異なる現実の中だけだ。今、俺達が見ている風景は偶々イレギュラーに発生させた現実に遭遇しただけだ。道が無くなった訳じゃない」

「何故そう言い切れる。俺にはそれが不思議だよ。仮にだ、仮にだぞ、百万歩譲ってお前の言うことが本当だとしよう。これからどうする?」

「羽間の所へ向かうさ」と古林の指さす先には暗い共用廊下で唯一の照明の灯っているエレベーターが扉を開け、待機している。もっともだ。取り敢えずは来た道を辿ればいい。俺は頭に血が上り過ぎていた。冷静ならなければと仲村は自分を戒める。古林の語尾の「はずだ」とか「思う」とかはかなり気になるが無視しよう。奴の講釈は気にするときりがない。しかし、元へもどれるのか?との強い疑問も浮かぶ。うだうだと考えても状況に進展が無いことは確かだ。エレベーターに戻るしか道はない。

 仲村はエレベーターへ向かおうとするが古林が動かない。

「どうした。行くぞ」

「あのな・・・羽間の事だが・・・恐らく違うページから来たと思う」と古林はバッグを撫で回しながらさっきと打って変わって弱腰な言い方をした。

「どう言うことだ」仲村は古林を睨み付けた。重苦しい沈黙が仲村と古林の間に流れる。

「俺達は羽間に会うことで現実が・・・」携帯電話の取説を弄びながら古林が口を開き掛けた時、ミズホがエレベーターの照明を背に受け、中から忙しなく手招きを始めた。

「行こう。ミズホがこの空間を閉じたがっているみたいだ。嫌いなんだろうな。ここが」

 エレベーターに駆け込み、ミズホの存在を意識した途端、古林の言葉がフラッシュバックしてきた。

 観察、観察だと・・・特異な例外だぁ・・・発生させた現実に遭遇・・・古林は電車の中で、まだまだ観察が必要だと言っていた。奴は有る程度、異界やこんな状況になることを知っていたのか?ジリジリと室内灯から漏れるノイズが五月蠅い。軽い振動が僅かに体を揺らす。古林が再び六階へのボタンを押し直したようだ。

「古林、何を・・・どれ位、知っているんだ」仲村は努めて冷静に話しかける。

 古林はチラリと仲村を見る。仲村の表情には非難の色が濃く表れている。何を隠しているのだと。

「隠していた訳じゃない。何時も思いつきで適当な事ばかり言っているんじゃないぜ。有る程度データが揃わなければ、口にしないさ」

「いいから話せ。どの程度だ。知っていることは」

「さっき話したことが殆どだ。ついでに謝っておく。多分、今、いた所は俺の主観だと思う。ちょっと実験してみた。居心地が悪く感じたのはそれが他人の主観空間だからだろうな」

 ミズホはこれ以上無いと言うほどの嫌悪感に満ちた表情を浮かべ古林のバッグを睨み付ける。

「ちょっとした実験か。随分と不快な気分にして貰ったよ」仲村は溜息まじりに古林を見た。古林の言い分にあまりにも呆れ、何を聞いても驚けなかった。頭の中で何かの箍が外れたようだ。完全に開き直ったと言うべきか。おかげで心は軽くなったが。多分これから何を聞こうとも過剰な反応はしないだろう。頭の芯が妙に冷めていく自分自身を仲村は感じていた。

「あの景色は懐かしかった。高いビルから眺める夕暮れの街並み。昔、よく見たよ。高いビルに登ってさ。懐かしさで鼻の奥がツンツンしたよ。郷愁ってやつかな」と目を細める古林。あれが、あの不快の極みみたいな風景が・・・。古林には安らぎの眺めだったのか。印象が変わればそう言う物なのか。古林が自分の主観を表現した空間を自分の主観で見て、聞いて、感じる・・・。俺が俺で有る限り古林の表現する現実は俺の印象でしか感じたり、考えたり、見たりする事しか出来ない。結局は真に同じ物を人間同士は見ることが出来ないと言うことか。

 これが他人の現実に入り込む事が出来ない理由か。今の俺達は他人の現実を何処からか眺めているにすぎないのか。そう考えると、何となく古林の言いたいことが解るような気がしてくる。理解したわけではないが。

 古林は世界の構造を本に例えて説明をした。それは古林の考える世界の構造が本にとてもよく似ているからだ。古林が本に例える世界とは同じ属性を持つ時階層が集まり世界を構成している。時階層とは視点の異なる世界の事で本ではページにあたる。そのページ上の一つに俺達の存在する現実がある。その現実も一つではなく、印象の違う現実がページ上に無数に折り重なって存在している。『この世』とも言っていた。『あの世』とは他のページの事だったけ。ややこしいのは視点の違う世界と印象の違う現実が有ることだ。視点の違う世界がページで、そのページ上に展開する印象の違う現実とは主観空間だと・・・。

主観空間は人の数だけ存在している。では異界とは何か。世界の理によって破棄された現実だと古林は言う。自分たちの現実になり損ねた現実。不完全な現実が異界となるのか。

古林が電車の中で講釈を垂れた「その現実の中に新たな視点が持ち込まれた結果が新しいページだ」と言うことは今の俺達で言えばこの現実に三つの視点が持ち込まれたことになる。ページが三ページ分増えるのか?

 古林に問いかければ打てば響くように答えると・・・思うが・・・多分、俺には理解しがたい説明だろう。古林の理屈があって、後から状況が付いて来ているような気がする。もう考える事が面倒くさい。髪をガリガリと掻きむしり顔を上げるとミズホと目が合う。ミズホは古林の影にそそと隠れる。

「彼女もこの件に何か関係有るんだろ。じゃなきゃ無理矢理連れてこないだろうな」ミズホの方を覗き込む仲村。

「ああ。今の俺達にとって大事なナビゲーターであり観測機だ。俺達が此処にいられるのも彼女による力が大きい」

「ナビ?・・・彼女が羽間の所へ連れて行ってくれるのか?」

「意味合いは少し違うが大まかに言えばそうとも言えるかな」

「心底お前の話しは回りくどいな。俺にも分かるように話せよ」

「物事には順番ってものがあるんだ。仲村はいきなり結論言ったって納得しないだろう」

「大体真っ先に結論じみた物言いするのはお前だろ。お前の話は何時だって納得出来ん。それでもいいから話せ」

「まだ、上手く言葉に出来ないが、解りやすく例えるならミズホには検索エンジンに似た機能があるようだ」

「検索エンジンって、ネットのあれか?キーワード入れてサイトを探すやつか?」

「ああ、そうだ。ミズホの場合は会った事のある人間が対象キーワードになるようだ」

「彼女が羽間の居所を検索すると言うのか?それはどんな機能、いや能力だよ」

「ミズホは自分の意志とは関係なく、一度会った人間との間に精神的?いや心霊的、どっちらでもいいが、リンクが出来る。まあ我々で言う所の顔見知りになる、縁が出来る程度の意味合いだが。よく不思議な縁とかあるだろ。彼女は人と人の縁の結びつきが強い」

「それで」仲村は話しの続きを促す。

「それだけだ。今はそれしか分からん」

「はぁ。それしか分からんって。この後どうなるんだ。大体・・・」との仲村の言葉に古林の言葉が被さる。

「羽間の所へは行けるさ。言っただろ。体が物理的に移動するわけではないと。彼女のリンクを辿ればいい」

「リンクを辿る・・・?」

「いいから、ミズホが導いてくれるよ」

チィーンと希望階への到着を告げるチャイムが鳴る。

「ほら着いた」古林が得意そうに言うと階を確認せずにスタスタとエレベーターから出て行ってしまった。

「本当かよ」と割り切れない思いを残し、仲村は古林の後へ続いた。

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