第23話 霊塵舞う黄昏の街

ぼんやりとした夕明かりが三人を包み長い影を路上に刻んでいる。頭上には星が濁った光を放ち始めていた。黄昏時の薄闇に街は輪郭を失い迫り来る夜に溶け出していた。駅前商店街の立ち並ぶ看板の電飾やネオンも窓の灯りも全てが朦朧と鈍く、くすんだ光を包まれていた。夜気は動かず、異国の香を思わせる饐えた甘い臭気が立ち込め、地面や空からは唸り声とも音楽ともつかない微弱で不可解な音が響き渡っていた。その音は唸り声だと思えばそうにも聞こえるし、音楽だと思えば音楽にも聞こえる気がする。注意深く耳を傾ければ街の喧騒も微かに聞こえてくる気がした。

 羽間の街は濃密な人の気配で溢れて賑やかだった。しかし、街には人っ子一人、車一台目にとめる事はなかった。人の気配を発する「何か」が至る所でチョロチョロと蠢いていた。街中のありとあらゆる所で様々な気配と微かな音が感じとれる。駅前商店街のアーケードや店構えは昭和の名残をとどめていた。何処かでタマネギを炒める香りがしている。普段ならカレーや惣菜の匂いが漂う夕暮れ時の街並みを見ると鼻の奥がツンツンするような懐かしさがこみ上げてくるのだが、この商店街に溢れる夕餉支度の香りはどれも嘘くさく、それに似ている匂いとしか思えなかった。

 アーケードを抜けると街灯がポツリ、ポツリと灯る薄暗い街路に出る。空はこの街に着いた時と変わらず鈍く仄暗い夕日の色と澱んだ星空のグラデーションを創っていた。薄暗い街路を歩けば、ひたひた、カツカツと足音らしき音が三人の後から着いてくる。辛気臭い路地裏からは悲鳴とも獣の鳴き声ともつかない微かなどよめきが聞こえてきた。時折、ビルの壁や道路に何かの影が過ぎる。その度に仲村は振り向き、周囲を見渡すが、そこには何もなく強い気配だけ漂っていた。

 仲村の五感は違和感があるなどと生やさしい表現では表せなくなっていた。違和感どころでは無い。全く異質の感覚に五感が悲鳴をあげていた。この街で実体を持って存在しているのは仲村と古林とミズホの三人だけだと確信が持てた。趣味の悪いテーマパークに迷い込んだ気分だ。その反面、何かワクワクするものが心の片隅に有ることも確かだった。仲村達はミズホを引き摺るように羽間の自宅へ急いでいた。ミズホは仲村と古林に両側から支えられどうにか立っていた。カンカンカンと踏切の警報音が響いている。こんな街で誰が乗り降りするのだろう。

 此処が何処かなどと古林に聞くまでもなかったし聞く気にもなれなかった。聞けば古林はニヤリとあの薄笑いをこぼし、ここが「あの世」だと言うに違いない。仲村は古林方を窺った。顔色は悪く具合が悪そうに見えるが目だけは好奇の光で輝いていた。状況を楽しんでいる事がひしひしと伝わってきた。

 商店街を出て数百メートル進んだ所で読経にも、ざわめきにも似た奇妙な声が聞こえてきた。声らしき音は脇の路地から聞こえてくる。声のする方向へ視線を移すと路地越しに見える向こうの通りで行列が見える。黒い人影のようだ。実際は人の形はしておらず薄墨色の長い固まりがズルズルと律動していた。だが仲村には理由も無くアレは人影だと感じられる。路地の隙間からは行列の一部分しか見えない。曖昧な闇の中を無限の長さの行列が続いているように思える。行列は薄闇の中「とりつく・おぁ~・とりーとお~」と呟きながら終の見えない無い行

進が続いていた。

 腕の中で何かが震えた。ミズホだ。仲村は街の様子に心奪われ、古林と二人で抱えていたミズホの事をすっかり忘れていた。意識した途端にミズホの体重を腕に覚える。蒼い顔で歯を食いしばり震え、顔中から汗が吹き出ていた。

「古林、彼女を休ませよう」近くにあった公園のベンチを見つけ仲村はそう言った。

「心配しなくていい。この街の環境情報を認識し適正に処理出来てないだけだ。そのうち

状況に対応できる」とミズホ引き摺り無理矢理に足を進める。

「お前!何を言っているんだ。彼女の状態を見て何も思わないなか。彼女はお前の道具じゃないんだぞ!」

 仲村はミヅホを道具扱いしている古林に無性に腹が立ち、古林の腕から無理矢理彼女を奪い取ろうとしたが古林はその手を離さなかった。殴ってでも引きはがそうとしたが、ミズホを庇い大切そうに支える腕に阻まれた。

「仲村、本当に大丈夫だ。彼女の脳は未知の空間の厖大な情報量にオーバーフロー気味なだけだ。彼女は我々の何倍もの空間情報を処理している。そのせいだ」と古林は慈しみに満ちた眼差しをミズホに送った。ミズホも仲村に大丈夫と掠れた声で囁いた。こんな形容はしたくは無かったが、古林の表情は慈愛に満ちた天使に見えた。その表情に殴りかけた手も止まった。仲村は行き場の無くなった拳を思わず見る。仲村は再びミズホに肩を貸し、しぶしぶ歩き出す。歩き出した拍子に仲村は思った。古林が精密機械を扱うのと同じようにミズホを扱っているとしたら・・・決してミズホ本人の事を心配している訳ではない。との思いが

頭を過る。恐らく当たっているだろう。憤りを通り越し呆れてしまった。仲村は振り向き名残惜しそうに公園のベンチを眺めた。無人のブランコが狂ったように激しく揺れていた。

 羽間のマンションへ足を進める道すがら更に色々なモノが見えた。後ろでぺたぺたっと足音がしたかと思うと、真っ黒な人影が数人凄い勢いで脇を駆け抜けて行き、その厚みの無い体が自動販売機の底へ吸い込まれるように消えていった。その先の角の電柱の脇ではひしゃげた車の側で全身血まみれの男が呆けた表情で宙を見つめ佇んでいた。足は信じられない角度に曲がり右の肘から下は深紅の襤褸雑巾みたいになっている。脇を通ると男の瞳が仲村達を追ってギョロリと動いた。時々、古林は相手にするなと仲村に話しかける。羽間のマンションへ近づくにつれ、路地や塀の影に佇むモノや踞るモノがはっきりと輪郭を表し始めた。

 路地から抜け出ると羽間のマンションが姿を見え始める。エントランスには弱々しい明かりが灯り周囲に気味の悪い影を映し出している。見慣れているはずの羽間のマンションは印象がまるで違って見えた。何処が違うのかと問われれば答えられない。でも違うのだ。築十年も経っていない建物が薄汚れ色褪せ何十年も此処に建っているように見えた。マンションを見上げると、ちらちらと漂い、降ってくる物があった。銀色の糸屑に見えるそれは仲村達を包むように舞い始めた。仲村が服についたそれを手に取ろうしたが影を触るみたいにスルリと手をすり抜けた。取ろうと何度も試みるが糸屑は指をすり抜ける。

霊塵れいじんだ。掴めやしないよ」古林が言う。

霊塵れいじん?」舞い散る糸屑を見つめながら仲村呟いた。

「想いを無くし、霊としての形態が破綻した残骸だ」

羽間のマンションに近づくにつれ、宙に舞う銀の糸屑も増えてきたように思える。マンションの自動ドアは開け放たれたまま停止していた。ミズホを引き摺りエントランスへ入

る。銀の糸屑も仲村達に着いてくるように吸い込まれてくる。仲村は風もないのに周りで舞い散るキラキラと光る美しいと感じた。

 その瞬間、は濃度を上げエントランスへ激流の如く流れ込んできた。辺り一面、銀色に一変した。エントランス一杯に充満するは仲村の体をすり抜け渦をまく。体を突き抜けるが体温を奪い精神と体調に変調をもたらす。仲村は急激な体温低下に伴う体調不良を覚えその場に崩れ落ちた。

 頭の中に夥しい雑音にも似た想念が流れこみ有りとあらゆる感情を喚起させ仲村の頭を混乱させる。苦悩、嘆き、妬み、嫉み、憎しみ、喜び、人なら感じる全ての感覚や感情の断片が一斉に押し寄せ、その爆発的なフラッシュバックにのたうち回り気が遠くなる。

 頬に鈍い痛みを感じ我に返る。古林が頬を叩いていた。

「しっかりしろ!」古林の巨大な顔が目の前に現れる。

「あれには、実体は無い。ただ見えるだけだ!は何もしない。害もない」

仲村はヒリヒリと痛む頬を感じながら周囲を見渡した。僅かに漂っているだけだった。とても長い間意識を無くしていたような気がする。

「どうしたんだ・・・。あれの固まりが」まだ頭の芯が疼いている。

「俺にも解らない。あんなに大量に見たのは初めてだ。まるでブリザードみたいだった」

「何もしないと言ったが。頭の中が雑音で破裂しそうだった。お前は平気なのか」

「ああ。空気中の埃と同じだ。お前、以外と霊感応力が強いのかも知れんな」のんびりとした口調で古林は答えた。

「こぉばぁやしぃ!人事だと思って・・・本当に死ぬかと思ったんだぞ」駄々っ子みたいにむくれ、言葉に力なく仲村は凄んだ。

「分かった、分かった。確かに異常な量のだった。正直、俺もあんなのは初めての経験だ。極寒の雨でずぶ濡れになった気分だったよ。も多少は感情を刺激する事もあるが、あれだけの量になると身体にかなりの影響を及ぼすんだなぁ」古林が行こうと催促する。だが、仲村は動けないでいた。

 今まで必死で我慢して来た。状況を理解し冷静に対処しようとしたが出来なかった。にまみれ、心が折れかかっている。自ら望んで此処へ来たのに、平然としている古林に対して抑えきれない理不尽な怒りが湧いてくる。怒りとは詰まる所、怯えだ。人は怯えるから怒るのだ。危機や生命の危険を感じるから怒るのだ。頭では理解しているのだが怖くて仕方ない。俺はこんなにも脆い人間だったのか。そのこと自体も怒りの対象になっていた。街をうろつく化け物みたいなモノや街の様子が怖い訳ではない。理解できない事が怖いのだ。今の理解不能な自分の現状を信じたくないのだ。もうここから逃げ出したい。

 古林が仲村の事を察したように話しかけて来た。

「今、目の前で起きていることをどう感じている」と古林の一言は弱腰の仲村を目覚めさせ、気付かせた。

 今、目の前で信じられない事、信じたくない事が次々と起きている。信じられないと言ってもそれは俺の常識であって、俺の目の前で起きている現象は紛れもなく俺にとっての現実で真実だ。時間も空間も俺の現実だ。信じられないなどと言っていられない。仲村は腹を決めると古林を押しのけ、迷うことなくエレベーターへと向かった。

 ミズホはエレベーターへ向かう仲村に手を差し出した。手の中には緋色の小さな巾着袋が見えている。巾着袋からは美しく輝く日本刀の欠片が出てきた。九十九屋に展示してあった物だ。ミズホが此処へ来る条件に含まれていたのがこの日本刀の欠片を携帯する事だった。

「もっていなさい」穏やかに力強くミヅホは言った。巾着袋に入った日本刀の欠片を触るとさっきまでの不快な倦怠感が薄れ、頭の中が多少すっきりしてきた。何処だろう、何処かでこれと似た雰囲気を感じた事がある。巾着袋を見つめた。

「どうした?」と仲村の表情を見た古林が声を掛けてきた。

「いや何でもない。以前聞いたことがあるんだが、魔は金気を嫌うと言うが。お守りか、何か?」と仲村の問いかけにミズホは頷いた。古林は仲村とミズホのやり取りを黙って見ている。日本刀の欠片が放つ清浄な輝きは頼もしく思えた。体は怠く重かった。しかし気力だけは十分に沸き上がっていた。エレベーターは正常に作動していた。チン!と到着を告げる音と共に扉は静かに開いた。

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