第22話 来訪者

 銀の絹糸を思わせる雨がちらつき、アスファルトの水たまりは鏡を作り黄色い傘を差す真衣の姿を映し出している。真衣は空を見上げる。穏やかに包まれるように降りしきる雨は気持ちが良い。優しい雨だわ。うれしくなっちゃう!ウキウキとした気分はやさしい雨の所為だけではない。胸がわくわくする予感でときめいている。予感の中身までは分からなかったがこれから起こる何かに期待が膨らんでいた。水たまりを覗き込み「パコン、ブボン、ダママ」と呟く。

 真衣が言葉を覚え始めた頃よく口にしていた言葉だ。父親の顔が見えた。忘れ得ぬ優しい顔が水たまりに映し出される。パコンがパソコン、ブボンがズボン、ダママがバナナ。

父親は「パコン、ブボン、ダママ」の語感が面白いと真衣が口にすると喜んでいた。その言葉を口にする真衣の得意そうな表情に目を細め、愛おしそうに見つめていた。真衣が一番よく覚えている父親の顔だ。

「パコン、ブボン、ダママ」はいつの間にか家族の合い言葉になっていた。うれしくて歌を口ずさみ始めた。何故だか分からないが最近いつも口ずさむ歌だ。

「いつのことだかぁ~ おもいだしてごらん~ あんなこと こんなこと あったでしょう・・・」真衣は楽しそうに水玉を跳ね上げながら自宅へと駆け込んでいった。


 ドスン!助手席のひろみは鈍い衝撃を受けた。瞬間、目の前にはフロントグラス一杯に広がる青空。鳥も飛んでいたっけ。二回目の衝撃で目を閉じた。顔や体中にバラバラと小石を浴びる感触。ありとあらゆる方向から重力を感じる。記憶はそこまでだった。蝉時雨に交じり水の流れる音が聞こえた。耳に心地良い爽やかな音だ。気が付くと砕けたフロントグラス越しにはボンネットが無く、剥きだしになったエンジンや蒸気を上げるラジエターが見えていた。沢山の大きな岩。

その向こうには渓流がキラキラと陽光をはね返し流れていた。

 ここは・・・?私はどうして此処にいるの?肩や腹部に痛みを感じる。シートベルトが食い込み痛い。口からは溜息にも似た呻き声が漏れていた。胸が苦しくズキズキと痛む。衝撃を受ける前の記憶がじわじわと頭の奥底から断片的に浮かんでくる。状況が次第に飲み込めてくる。後部座席が気になる。何故だろう・・・・。我知らず目が見開く。ひろみは叫ぶ「真衣!」シートベルトのロックを外す事さえ忘れシートから飛び出そうともがく。車内中に先程浴びたフロントグラスの破片が飛び散りキラキラと光った。寝息が聞こえる。真衣は何事も無かったようにすやすやと眠っている。安堵が胸に広がる。早く助け出し抱きしめたい。シートベルトを引きちぎろうとジタバタと暴れた。

 赤黒くぬめりとした物体が視界に入ってきた。手を止め運転席を見た。そこには誰もいなかった。ステアリングは赤く染まり、メータークラスターの上には真衣の拳程の濡れ光る毛の生えた鮮やかな赤い固まりが乗っていた。数匹の蝿らしき昆虫が羽音も五月蠅く、それに群がっている。

 今でもあの日の事は鮮明に覚えている。ささやかな幸せが消え去った日。事故後、ひろみは入院先の病室で警官二人に事情聴取を受けた。聴取時の記憶は曖昧で覚えているのは

若い警官と妙に老けた警官だった。顔まで思い出せない。ひろみは只一つの思いに縛られて他のことまで気が回っていなかった。奥さんに確認したいことがあるのですが、と老けた警官が困り顔で尋ねてきた。質問の声がこもり、頭に響く。夢の中で会話しているようだった。

 そんなことはどうでもいいのよ。早く、早く・・・教えて。

「旦那さんはシートベルトをされていましたか?」頷くひろみ。

「奥さんは、事故直後に運転席のシートベルトをロックされましたか?」首を振るひろみ。

質問した警官は隣でメモを取っている若い警察官と顔を見合わせ怪訝な表情を浮かべた。

「そんな事より、あの人はどうしたの?見つかったの!」ひろみは声を荒げた。

「落ち着いて下さい。奥さん。未だに旦那さんは発見されておりません。捜索は続行中です」

「先程の質問の件なのですが。運転席のシートベルトはロックされたままでした。その状態で車外に放り出されると言うのは考えにくいのです。いやありえないのです。何か思い出せませんかね」

「だぁから、そんな事はどうでもいいの!早く、早くあの人を見つけて!」ひろみは声の限り叫んだ。ひろみの剣幕に警官達はたじろぎ、コソコソと話し始めた。意を決した老けた警官は言いにくそうに話を切り出す。

「奥さん。落ち着いて。包み隠さず言いますと・・・まぁそのぉぉぉ、ですね。ハンドルやフロントグラス周辺には大量の血液と僅かな頭蓋の骨片や脳組織の一部と思われる物が付着しておりました。出血量を見てもそのような状況からは生存されている確率は極めて低いと・・・言わざる、おえないのでありまして・・・ですから・・。とは申しましても捜索は続行中でして。いやぁしかし、奇跡的に奥さんと娘さんは大した怪我もなくご無事で何よりです」刑事の言葉にひろみは先程と打って変わってか細い声で「だぁから、私の聞きたいことはあの人の事なの。何故、余計な事ばかり言って教えてくれないの」と大粒の涙をボロボロ流し突っ伏してしまった。その後の事は殆ど覚えていなかった。警官はいつの間にか消えていた。退院後も何度か聴取もあったような気がする。

 何故、何故、何故、教えてくれないの?どうして?どうして意地悪するの?由子もあの時の警官も!由子は「ダメ!関わっちゃダメ!」と言うと一方的に電話を切ってしまった。

ひろみは由子の態度に途方に暮れ、心の底から悲しみ、腹を立て、理不尽を感じた。ひろみの頭の中は夫の手が掛かりの事だけで頭が一杯だった。それしか考えられなかった。

 一方で偶然にもダママをハンドルネームに使った人間がいただけと言う考えも頭を過ぎる。実際、ネット上で何回か見かけた事もあった。只の偶然か

な・・・。ひろみはその考えを強固な意志で打ち消した。あの人は生きている。

必ず生きていると狂信していた。行かなければ。由子の所へ。

 キッチンの方から歌声が聞こえる。真衣だ。真衣が帰って来ている。気づかなかった。

「お帰り。いつ帰ったの・・・?」戸棚を引っ掻き回している真衣に声をかけた。

「さっきだよ。何回も『ただいま』したのに、お母さん知らんぷりしてるんだもん!」

「そう・・・ゴメンね。考え事してた・・・」

「怖い顔でブツブツ言ってた。ねぇ、ねぇ、おやつは?お腹減った」

ひろみは冷蔵庫からチョコのたっぷりかかったクルーラーの皿を手に取る。チラリと奧の赤黒い固まりが入った瓶に目をやる。そのままクルーラーの皿を取り出しテーブルの上に置いた。真衣は嬉しさに目を丸くするとクルーラーの皿に飛びつくとパクつき始めた。

「手は洗ったの?」と冷えた牛乳を真衣の前に置いた。

真衣はもごもごと何事か話しはじめた。ひろみは上の空で聞き取れなかったが、気にしていなかった。由子の所へ行くことで頭が一杯だった。

「・・・さん」「おかあさん!」再三の真衣の呼び声でひろみは我に返る。口の周りにチョコをつけた真衣が睨んでいる。親の動揺は子供に直ぐ伝わる。真衣はひろみの動揺を察し怒った口調である報告を始めた。

「えっ。何・・・・」

「あのねぇ。お父さんとお話が出来るよ」

「へっ・・・」真衣の突然の言葉に二の句が継げない。

「お父さんがね、お話、したがってるんだぁ」真衣は指に着いたチョコレートをしゃぶっていた。

「何を言っているの?お父さんは長い長い出張でまだ帰れないのよ」ひろみは平静を装い掠れた声で真衣に言い聞かせた。

「違うよ!お父さんはいつだって側にいるよ。でもねぇ病気のせいでみんな忘れていて、私達の事に気付かないんだよ」

「なに、何を言っているの・・・ねぇ真衣、お父さんは・・・」真衣がいきなり話し出した父親の話題に動揺をひろみは抑えきれなかった。

「真衣、知ってるんだよ。お父さんは出張になんか行ってない。あっちにいるんだよ!」真衣は父親の事を言いつくろうとしたひろみにピシャリと言い放った。

「ねぇ、真衣、真衣ちゃんどうしたの。何故、どうして、そんな事を言う

の・・・?お父さんが・・・お父さんがどうしたの」ひろみは狼狽え、唇を震わせた。何故、突然、父親の事を言い出したのだろう。

 しかし、真衣の言葉はあの人は必ず生きていると言う何の根拠も無い確信を強くした。

 一瞬、ひろみの周りの視界がグニャリと歪む。ひろみにはそう感じられた。部屋中を見渡すが異常は無い。真衣が不思議そうにこちらを見つめている。胸の奧で鈍い鼓動の響きが大きくなる。何故このタイミングであの人の話題が・・・。

リビングに来訪を告げるチャムが鳴り響く。ひろみはそのチャイムに胸騒ぎを憶えた。帰って来たの。あの人が帰ってきたの。真衣の顔を見つめた。何かの予感が胸に溢れる。いい予感だと心で強く思う。インターフォンから声が流れてきた。

「太嶋と申します。羽間浩一さんはいらっしゃいますか?」

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