第6話 赤いピエロ
太嶋には三歳年上の兄がいた。名前は雅生。兄弟仲は人並みだった。ありきたりの兄弟喧嘩をし、兄の不当な命令に逆らい、いじめられる事もよくあった。
それでも口にはしなかったが太嶋は雅生が大好きだった。一緒にいると父親とは違った頼り甲斐があり安心感に包まれた。雅生は太嶋にとって密かに誇らしく、尊敬すべき兄だった。雅生から学ぶ事は多く、学校の授業なんかよりも数倍も楽しかった。魚の取り方やカブトムシやクワガタの穴場、すばらしく高く舞い上がる凧の作り方や秘伝の竹鉄砲。雅生と一緒にいる時はいつも発見と驚きとの連続だった。雅生といえば三歳年下の太嶋では遊び相手にならず、いつも後に付いてくる太嶋を煩わしく思い「付いて来るな」とよく叱っていた。そのたびに太嶋はべそをかきながらも兄を追いかけ回した。
その日、太嶋は庭で竹とんぼを飛ばしていた。前の晩に雅生と一緒に作ったものだ。とは言っても殆どが雅生の手による物だったが。雅生は手先が器用で何でも上手に作ってしまう。特に雅生の造る竹とんぼの出来はこの村一番といっても良かった。羽の先端に表と裏に赤い線が入っている。飛ばすと赤い円が出来る。赤い円が初秋の蒼穹の空に吸い込まれるように高く、高く登って行き、やがて回転を止めヒラヒラと落ちてくる。
「隆生!」雅生が興奮した様子で声をかけると同時に落ちてきた竹とんぼを受け止める。
「サーカスだ。サーカスが来たぞぉ!見に行くぞっ!」受け止めた竹とんぼを太嶋に突き出し、命令口調で太嶋に言った。雅生は玄関に鞄を投げ込むと駆けだしていった。太嶋も反射的に雅生の後を追って走り出す。
田の稲穂が黄金色に色づき始める頃、太嶋の近隣の町にはサーカスがやって来る。雅生はこのサーカスが来るのを毎年楽しみにしていた。太嶋といえばサーカスがあまり好きではなかった。もっとはっきり言えばサーカスが怖かった。よく父親に叱られると悪い子はサーカスに連れて行かれるぞと脅された。二昔も前なら人買いに連れて行かれると言って子供を咎めたのだろう。寒村を渡り歩く人買いのいた時代の話だ。それが全国各地を回るサーカスに変わったのだ。もっとも太嶋が子供の頃でもこんな話は誰も信じてはいなかった。しかし、太嶋はこの話がとても怖かった。本当にサーカスが子供を攫って行くような気がしていた。
サーカス独特な雰囲気が太嶋にそう思わせていたのかもしれない。特にピエロがとても恐ろしく、いつの間にかピエロに連れて行かれると思いこむようになっていた。今日は珍しく雅生の方が誘ってくれた事もあり、その事がうれしくて思わず着いてきたが、内心では怯えと僅かな後悔で胸が重かった。
町はずれにある神社脇の空き地にサーカスはテントを建て始めていた。近所の友人達は早々と集まり、楽しげにテントの方を指さし何事か叫んでいた。太嶋と雅生は他の子供達に混じってサーカスの大きなテントの支柱が立ち上がる様子を眺めていた。金槌を打つ音やかけ声に混じり赤ん坊の鳴き声や動物の鳴き声も聞こえる。サーカスのゲートを飾るモールが初秋の柔らかい光を浴びキラキラと輝いている。その下では、まだテントも建っていないのに気の早いピエロがビラを配り始めていた。これから宣伝も兼ねたパレードで始まるのか綱をつけた象や檻に入ったライオンや虎などがゲート下へと引き出されている。キラキラした服を
着た人々の中にピエロも二人ほどいた。
ピエロ達はジャグリングをしたり、戯けたりして野次馬の目を引いている。赤いボンボンが付いている三角の尖り帽子、白地に赤、黄、青の水玉の服。袖とズボンの裾にはピンクのフリルがくっついている。白塗りの顔に赤い大きな口と目の隈取り、頬っぺたに涙が描かれた緑の髪のピエロを太嶋は怯えの混じる眼差しで雅生の陰から覗くように見つめていた。雅生は目をキラキラさせながらピエロの道化ぶりを目で追っていた。
派手なブラス・バンドの演奏が始まり、ライオンや虎の檻を載せたトレーラーがゆっくりと動き出す。いよいよパレードの出発だ。団員やピエロが兼任する六人編成の楽隊がクラリネットやらコルネット、シンバルなどをかき鳴らし行進が始まった。キラキラと金色に光る管楽器が目を刺す。藁を燃やす香りが漂っている。秋の匂いだ。サーカスの行列は秋晴れの澄んだ空気の中、桃色や薄紅色の秋桜や時季外れの向日葵が咲き乱れる小川の土手を進み、重そうに果実を実らせている柘榴の脇を通り、ススキがゆれる農道を目抜き通りへ向かい賑やかに練り歩
く。雅生は太嶋の手を引き、近隣の子供達や野良犬まで一緒にパレードの後を追いかける。ピエロが戯けながら打ち合わせるシンバルの音に太嶋は驚き、それを雅生や友達に冷やかされた。それでも太嶋はそれなりにパレードを楽しんだ。
サーカスのパレードが終わる頃、長い影が雅生達から伸び始めていた。日は傾き辺り一面が橙色に染まっている。雅生の顔も太嶋の顔も橙色に染まっている。
空気まで橙色だと太嶋は思った。地平線から空に向かって橙、薄紫、青鈍色へと変わるグラデーションが美しい。秋とはいえまだ暑く雅生も太嶋も顔には黒い汗の後を作っていた。サーカスのパレードに付いて歩き回った雅生も太嶋もへとへとになっていた。いつの間に雅生と二人っきりになっていた。歩き疲れ、サーカスのパレードの最後尾を遠くに見送りながら雅生が言った。
「父ちゃん、今年もサーカスへ連れてってくれるかな?隆生も行きたいよな」と念を押すように雅生は言った。
「う、うん・・・」と太嶋は生返事をする。太嶋は雅生ほど行きたいと思っていない。確かに空中ブランコや象の曲芸は観たかったが、ピエロを思い出すとその気も失せていった。あと数十分で日が沈む。空には青鈍色が広がり始め、一番星の瞬きが目立つようなってきた。ピエロを思い出し怖くなった太嶋は帰りを急ごうよと雅生に言いかけた時、異変に気付いた。音がしない。風の音も小川のせせらぎも、風に揺れる稲穂の葉擦れの音も。妙な蒸し暑さを感じ体中から汗が噴き出した。
太嶋は見つけた。田圃の真ん中で動く案山子を。案山子はもぞもぞと動いているようだった。「兄ちゃんあの案山子、動いているみたいだ」太嶋が言いかけると同時に雅生も気づいたのか「隆生!あれは・・・・見る・・・な・・・」と言いかけ案山子の方を向き雅生は凍ったように動かなくなった。太嶋は目線を動く案山子へ向けた。その瞬間、尻の穴から頭の先まで大きな氷柱を差し込まれる程の悪寒を感じ、凍り付いた。今まで体験した事のない胸騒ぎで胸が破裂しそうに高鳴っている。案山子はもぞもぞとぶれるように律動し、ギクシャクと体を折り
曲げたり、首を左右に振ったり踊っているように見える。太嶋の目から涙がポロポロと流れ出していた。沈む寸前の夕日が最後の力を振り絞り、染め上げている沈んだ橙の光を浴びその案山子は狂ったようにグニャリ、グニャリ、カク、カクと不気味な舞を演じていた。
暮れなずむ夕日の中でそれは頭らしきものを太嶋の方へ向けた。太嶋は確かに見た。案山子に見えていた物はピエロだった。真っ赤な顔をしたピエロだ。その顔を見た刹那、太嶋の時間が停止した。あまりの恐怖のため何も考えられず体の芯から沸き起こる強烈な悪寒に嬲られるままになっていた。ピエロの体は正常な人間の関節ではあり得ないような動きをしているが、首から上は微動だにしていない。太嶋はピエロが首から下だけを動かしながら近づいて来る。いや違う。ピエロはその場にとどまっているのだが、丁度ズームレンズが被写体にズームするように太嶋達がピエロの方に近づいている。ピエロと太嶋の間の空間がどんどん縮み、じわじわとピエロが迫ってきた。顔も徐々にはっきりと見えてくる。赤い顔。顔の中から暗い赤が滲み出ている色。血を連想する色。わずかな夕日に照らされ、さらに赤く見えていた。
ずん。さらに近づく。ピエロは顔に満面の微笑みを浮かべ、近づいてくる。太嶋の顔は涙、鼻水、よだれでぐちゃぐちゃになっていた。
ずん。また近くなる。ニコニコとした顔が、微笑んではいるがその目は笑っている目ではない。半ズボンの股間に染みが広がり太腿から生暖かい液体が伝わり落ちてきた。失禁したのだ。いやだ!たっ、助けて・・・太嶋は極限の恐怖の中でそう思うだけで精一杯だった。激痛と共にベキッと音がした。音は太嶋の握り締めた拳からだった。太嶋に時間が戻る。体が弛緩し地面に崩れ落ち砂煙が舞い上がる。昼の太陽にあぶられた地面が熱い。恐怖にせき止められていた様々な思考、感情が一気に吹き出し太嶋の脳は今の状況を処理仕切れない状態に置かれる。
「だじげ・・・でっ!グフッ。にいじゃん!!えっ、えっ、どっギャ、お
がっ!・・イッヤっ!」恐怖と混乱の極みの太嶋は意味不明の言葉を叫びながら死に物狂いで、我武者羅に地べたを辺り構わず這いずり回った。膝小僧と掌が破れ、血が滲んでいる。手の中に猛烈な痛みと異物を感じ握り締めていた右手を開いてみる。そこには柄が折れ、手のひらに突き刺さっている血まみれの竹とんぼがあった。竹とんぼを暫く見つめていた太嶋は思い出したように叫んだ「にいじゃやーん!どごっ!」太嶋は雅生を捜し辺りを見回した。顔からは涙、鼻水ともよだれともつかない夕日色に染まる幾筋かの糸が弧を描く。目の前には黄昏時の薄暗い田圃が広がっているだけだった。雅生もあの赤いピエロも居なかった。ざわざわと稲穂を揺らす風が通り過ぎていった。雅生を捜すため何とか立ち上が
ろうとするが、腰が抜けている為に立ち上がれない。もがきながらもやっとの思いで顔を上げた。眼の前にピエロの顔があった。赤い、赤いピエロの顔が。ブリッブリッ!腰から下で音がする。脱糞と共に太嶋は意識を失った。
太嶋は大きく深いため息をつくとまた診療室を見回した。白く明るい部屋の片隅に影が落ちているように見える。まるで影のような黒い固まりが隅っこに溜まっているみたいだ。
太嶋が意識を取り戻したとき雅生は行方不明になっていた。太嶋が雅生の行方不明に気づいたのはあの赤いピエロと遭遇してから実に七年後だった。記憶喪失でも、七年間意識を無くしていた訳ではない。あの時、太嶋は糞尿にまみれ、放心状態でいるところを通りかかった村人に救われ、その日の内に意識を取り戻していた。それ以後は同じ歳頃の子供たちと同じように普通の生活を送っていた。ただ雅生の事については話すことはなかった。兄の事を聞かれると太嶋は恐慌状態に陥り話すことすら出来なくなっていたの
だ。村を上げての捜索でも雅生は見つからず、県警をも動員したのだが発見されなかった。唯一の手がかりである太嶋も発見時、崩壊寸前の精神状態から家族や警察、医者も事の真相を追求できず情報は皆無だった。
太嶋は兄の雅生が行方不明者リストに載ってから七年が経とうとする頃、突如として雅生のこと思い出した。
中学の夏休みも終わりのじめじめとした蒸し暑い風の吹く日だった。黄昏時、友人の家から自宅へと向かっていた。残照の空で赤い円をみつけた。近所の子供たち他が竹とんぼを飛ばしていたのだ。その竹とんぼは土産物の民芸品らしく鮮やかな彩色が施され、飛ばすと空に青や赤やオレンジの円が出来上がっていた。太嶋は子供の頃、よく兄に作って貰った竹とんぼを思い出していた。兄ちゃんの作った竹とんぼは良く飛んだよなと思いつつ夕暮れの空に舞う竹とんぼの描く円を見つめていた。
頭の中に目映い光が走り唐突に兄の事を思い出した。
「兄ちゃん!兄ちゃん何処!」太嶋は辺りを見回し自宅に向かって走り出した。太嶋はあの日の七歳頃の未熟な精神ではない。赤いピエロの事もトラウマになってはいたが七年の歳月がその事についてうまく折り合いをつけられる精神にまで成長していた。太嶋の心に深い闇を残した赤いピエロとの遭遇は七年間の歳月が薄氷を何層も積み重ねるように覆い、思い返すことのない記憶になっていた。全ては時間が解決していてくれた。しかし、それは出来たての瘡蓋のみたいに脆いものでもあった。少しでも亀裂が入ればそこからじゅくじゅくとあの恐ろしい記憶が膿のように滲み出てくる。あの体の芯から凍えさせる恐怖だけは胸に深く刻み込まれ消えることは無かった。太嶋は家に着くなり兄のことを尋ねまわった。
「兄ちゃんは何処!何処にいったの!」まるで幼児のように母親にしがみつき、問い質した。しかしピエロの事は話さなかった。話せなかった。思い出したように兄の事を口する太嶋に家族は驚き戸惑った。行方不明になっている雅生の事は行方不明から七年経った当時でも両親には悲しみの種だった。両親は錯乱状態の太嶋を精神科医に診させた。検査結果は記憶に混乱は見られるものの異常や障害は見受けられない。医師は何かのきっかけで蘇った過去の記憶によって引き起こされた一時的な錯乱だろうと結論づけた。安定剤を飲み安静にしていれば落ち着くと早々に家へ帰された。両親は医師から一つだけ忠告を受けた。トラウマの元となった辛い記憶を無理に思い出させない方いいと。無理に思い出そうとすればそれこそ精神に障害を残すようなことになりかねない。せっかく太嶋の心が辛い記憶を心の奥底に沈めたのだから、寝た子を起こすような真似はする事はないのだ。両親は太嶋に兄の事について一切触れないことを申し合わせた。以来、太嶋はあの日の記憶を封印して来た。太嶋は七年前に兄に何が起こったのかは思い出す事はなかった。あの日、兄の事を思い出してから数十年が過ぎても今まで生きてきた記憶は本当に自分の物なのだろうか。実は自分はまだ、田の真ん中で兄を探し彷徨っているのでは無いかと思う事が、多くなった。あの患者、羽間に出
合ってから。
部屋の隅に溜まった影が濃度を上げている。影に目をこらすと子供が膝を抱えうずくまっていた。その子が顔をあげる。ピエロのお面をかぶっていた。赤い、赤いピエロのお面を。
「兄ちゃん・・・・」鼻声で太嶋は呟いた。
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