第5話 カウンセリング
玄関ドアを開けると灰色を帯びた乳白色の空が目に飛び込んできた。羽間は眩しそうに目を細める。薄明るい曇天の空が目に染みる。昨晩の出来事で体は鉛みたいに重く、目はしょぼしょぼとしていた。昨夜起こった怪異について思うことは無かった。もっとも昨夜の出来事は昨日が初めてでは無く、ここ数日間続いていた。何故あのような出来事が起るのか疑問を感じはしたが、怯えや恐怖とか脅威などの人として当たり前の感情を持つことは無かった。羽間にとっては昨日の出来事は何時もの日常と若干違う程度の認識でしかない。今日はカウンセリングの日だ。予定を消化すべくマンションの廊下をエレベーターへ向かい歩き始めた。
廊下の隅に髪の長い女が膝を抱え、俯きうずくまっている。油っぽくぼさぼさの長い髪のため顔は見えない。手には使い込んで傷だらけの携帯電話を握り締めていた。その女はいつもこの廊下に居る。黒いワンピースの裾から覗く足は裸足で膝に添えた手は煤け、爪はボロボロで真っ黒な爪垢が詰まっていた。羽間はその女の脇を通りすぎエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中は床一面に長い髪が散乱していた。一階に到着すると脇目も振らずエントランスを通り抜け、通りへ出る。空を見上げると相変わらず灰色を帯びた乳白色の空がビルの隙間に広がっていた。出勤時間だと言うのに通りには人影や騒音も無く、周囲の景色は
朝空の色に染まり、明るい灰色に見えていた。
羽間は足を引きずりながらも規則正しい歩調で通い慣れた道を駅へと向かう。十五分程歩くと前方に駅のサインが姿を見せ始める。視線を感じ脇の電柱を見ると影から血まみれの男がこちらを見ていた。交通事故らしい。電柱の傍らにひしゃげた車がめり込んでいる。男の頭は血で真っ赤に染まり目鼻の位置が分からないほど血でずぶ濡れになっていた。白いワイシャツも胸まで血で染まっており、真っ赤なてるてる坊主を思わせた。羽間が見つめていると鮮血でぬるぬるした顔の中からギョロリと目をむいた。白目がとても赤に映える。ぼそぼそと何か言うと消えてしまった。電柱にめり込んでいた車も事故の跡形もなく消え去り、ピンサロの張り紙だらけの薄汚れた電柱だけが立っていた。
羽間は視線を進行方向へ戻すと駅へ向かって歩を進める。未だに往来は人気や行き来する車も街の騒音も無くゴーストタウンの様相を呈している。街に人影は見えないのだが街中のあらゆる所から何かの気配だけは痛いほど感じられた。駅前の小さな公園では誰も乗っていないブランコが激しく揺れていた。人影は無いが、黒く粗い粒子の粉塵状の固まりが至る所に見受けられる。羽間にとっては近所で見掛ける野良猫並に見掛けるものだった。
一度、主治医の太嶋に黒い固まりについて相談したことがあった。太嶋は事故の後遺症かも知れない検査して見ましょう。検査の結果は特にこれと言った異常は認められなかった。今、この場では断言は出来ませんが恐らく後遺症から来ている幻覚かと思われます。貴方の症例は特異なケースだ。今後の経過を注意深く観察しましょう。と主治医である太嶋に言われた。以来、羽間は何を見ても事故の後遺症で見る幻覚だと思うようになった。異様な幻覚を見ることに疑問を持つことは無かった。これもすでに日常の風景になっていた。
羽間は発券機から切符を買い改札口を通り抜けるとようやく人を見かけた。駅員だ。帽子を目深に被り立っている。電車がホームに入って来ると駅員は電車へ向かって飛び込んだ。電車は何事も無かったように停車しドアが開く。羽間も何事もなかったように空っぽの電車に乗り込んだ。電車は次の停車駅をめざし動き始めた。羽間は気
づいていない、いや感じていなかった。駅に付くまで人や車と出会わなかった事、何の音も聞こえなかった事を。
線路の上では羽間の乗車した電車に向かって飛び込んだ首のない血まみれの駅員が見送っていた。
「ここ二週間で何か身体や精神面に変わった事や日常生活に変化は有りませんでしたか」
太嶋は表情の無い羽間とは目を合わせず、今日の検査書類に目を落としながら話しかけた。
羽間がいつものように無表情で首を振る気配を感じた。先程まで二時間近くかけて定期の検査を終え上がってきた検査書類は前回と比べ大きな変化は見受けられない。バイタルも正常値だ。
やりにくい。目の前の羽間が人間とは思えない。質問にも反応は薄い。言われた事に対して受け答えはするのだが、自発的に質問を発したり悩みなどを訴えたりする事は皆無だ。それを引き出すのが太嶋の役目だと言ってしまえばそれまでなのだが。
羽間の症例は特異過ぎる。著しい脳の損傷で感情を失い、痛覚は感じてはいるが、自身の痛みと感じていない。頭部の断層写真は何度見ても信じられなかった。前頭葉の一部がきれいに無くなっている。何故、生きている。何故、然したる後遺症が無い。生きている事自体が奇跡だ。おまけに社会復帰まで果たしている。羽間の特異な症例は太嶋にとって奇跡の研究対象であり貴重なサンプルだった。新しい大脳生理学の発見があるかも知れないのだ。この貴重なサンプルに太嶋の野心は日増しに膨れあがっていったが、太嶋は自分の野心以上に、羽間に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。死人と対峙していような感覚に何時も捕らわれる。死臭すら感じる時がある。自分が羽間に対する先入観念の所為かもしれないと太嶋は思うのだが嫌悪感は払拭出来ない。羽間を見ていると何故か子供の頃の忌まわしい思い出を喚起するのだ。記憶の奥底に閉じこめた出来事を、いや夢だったのだ。あの出来事は。
太嶋はルーチンワークになった質問を続ける。
「時間表通りに生活は出来ていますか。怪我や病気はしていないみたいですね」
「ええ・・・」と羽間は短く答える。いつもと同じく最小限度のコミュニケーションしか取ってこない。この状態の羽間から有意義な情報を引き出すのは手間が掛かる。同じ事を聞くにしても質問のパターンや言い方を数種類用意しなければならないしタイミングも大切だ。言われた事にしか答えないのだ。羽間はそう言う受け答えしか出来ないのだ。
「気になる事がある・・・」羽間は呟くように言った。
「どのような事ですか。何でも仰って下さい」と言いながら太嶋は、はっと気付いた。
自発的に発言した。羽間が自発的に発言を・・・これは前進だ。ここ、一年近くも羽間とのカウンセリングが膠着した状態だった。いつも太嶋が一方的に質問し羽間は「ああ」とか「うう」とか言う受け答えしか帰ってこなかった。太嶋は逸る気持ちを抑え羽間に「気になる事」の内容を促した。
羽間が帰って小一時間が経とうとしていた。太嶋は羽間の「気になる事」を聞き終え、頭を抱え込んだ。何かと思えば羽間は世間一般で言う心霊現象について話を始めたのだ。
深夜足音がしたり、後ろから誰かに抱きつかれたりと、まともな人間が取り合ってくれない話しばかりだった。以前、黒い何かが見えると訴えた事があった。その時、太嶋は直ぐさま念入りに検査を行った。特に異常は認められなかった。最も羽間は脳の一部が欠損しているのだ。それだけでも異常なのだが。何があっても、何を見ても不思議はない。その時は後遺症が原因で見る幻覚だと言った記憶がある。その後、羽間からは何の訴えは聞かれなかった。もしかしたら羽間はあの時以来、幻覚を見続けていたのかも知れない。ただ言わなかっただけか。羽間のことを思うと考えられることだ。
しかし今日の羽間は能動的だった。良いことだと思うが、積極的に話してくる話題が奇妙だが。自分の体調や精神状態にはまるで興味を示さないで最近自宅で起こった怪気現象の事ばかり話していた。羽間が今している仕事の影響が多分に考えられる。一応、傾聴はしているが私にお化けや心霊現象の話をしてもうまく話題を合わせられるはずがない。何故、羽間は心霊現象みたいな胡散臭い話しを積極的にしてくるのか。意外だった。事実はどうあれ心霊現象に興味を持つなんて。
胸の底からどす黒い何かがこみ上げてくる。心霊だのお化けだのと言う単語は太嶋のおぞましい記憶を呼び起こす。
太嶋はそのおぞましい記憶を振り切るように羽間の問題に思考を戻す。興味か・・・太嶋はピンと来た。好奇心だ。今回、羽間に自発的発言が見受けられるのは好奇心がキーポイントとなっている可能性が高い。太嶋の中では何か羽間の状況が進展しそうな予感が湧いてきた。それが何かは言葉に出来なかった。その予感と共に吐き気を伴いこみ上げてくる思いがあった。倦怠感の溢れる昼下がりの光が作る部屋の片隅の影が気になる。その影の黒さがどんどん濃度を増している。すでに、羽間の事など頭の中に無かった。太嶋は突然、机の上のカルテや書類を部屋中にばらまき頭を掻きむしり椅子から転げ落ちた。
「にいちゃん・・・」太嶋は吐き気をこらえ呟いた。
それは太嶋が一番思い出したくない記憶だった。頭の内側で何かが突き破ろうと蠢いていた。
「いやだ・・・いやだよぅ・・・」思い出したく無いのだ。
不意に脳裏に真っ赤な顔が浮かぶ。「ヒッ!」太嶋は小さく悲鳴をあげた。抗うこともできずに忌まわしい記憶は頭の中で強制的に再生を始めた。
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