第4話 診察室の影

白く清潔な部屋。真っ白な壁が室内灯を反射し、柔らかな光に満ちている。太嶋は診療室で羽間のカルテを見ていた。読んでいたわけではない。カルテの内容は熟知している。カルテを眺めていれば何か拾えるかもしれないと思ったからだ。読むことで理解を得るより、カルテに書かれている単語や文字からインスピレーションを得ようとしていた。太嶋はこれからの羽間の治療プランに行き詰まっていた。羽間の今の状態が納得できなかった。彼を診れば診るほど信じられない事柄ばかりだ。

 羽間は生きてはいない。これが太嶋の第一印象だった。医師としての経験上、脳にあれ程の損傷を負って生きていられるはずがないのだ。身体への後遺症も出ていないに等しい。右足を僅かに引き摺る程度で済んでいる。あのレベルのダメージを受け仮に生き延びたとしても体に重度の障害がのこるはずだ。まさに奇跡かとてつもない幸運だ。しかし羽間はその奇跡の代償に記憶と感情や生きる為の欲望を失っていた。喜怒哀楽が全く無くなってしまったのだ。離人症に似た症状が見受けられるが離人症の可能性は極めて低い。記憶や感情もない。これがどういう事か。感情に支配されず欲望に振り回される事もないのだ。聖人になれる。

太嶋は苦笑いを浮かべる。ただ、それ以外は常人と同じだ。生理的欲求も人並みに有る。空腹も覚えれば、睡眠欲、性欲も感じる。羽間はそれを人ごとのように感じているだけだった。自分の体の生理的欲求にも心理的欲求にも的確に答えることが出来ないのだ。体がどんなに空腹を感じても羽間自身が食事を取ろうと思わない限り食べる事はない。羽間がその気なれば餓死など簡単に出来る。飢餓感はあるがそれが我が事だと感じられないのだ。

 羽間が意識回復から数ヶ月後のリハビリ中の事だった。太嶋はリハビリ室での歩行訓練スケジュールを終了し、気分転換もかねて屋外での散歩も兼ねた歩行訓練に切り替えようと提案した。病院の中庭は庭園のような作りになっており健康トリムコースや散歩コースなどが併設され長期入院患者の気分転換やリハビリの為に運用されている。

 その頃の羽間は院内や園庭くらいなら自由に歩き回る事を許可されていた。羽間は理学療法士の付き添いでゆっくりと暖かい日差しの中歩き始めた。今の羽間の状態なら大丈夫と判断した理学療法士は一周したら病室へ戻って下さい。と言い残し羽間から離れた。数時間後、羽間は園庭のはずれで倒れているのが発見される。羽間は病み上がりで体力もたいして付いてないのに休まず歩き続けたのだ。何故、倒れるまで歩いたのかとの問いに「歩けたから」と答えた。体は辛くは無かったのかと聞くと、「体の節々に凄く痛みを感じたが歩けたのでそのまま歩き続けた」と答えた。

 太嶋は羽間を恐れていた。純粋に医者として羽間の症状には興味があったが、脳にあれだけの損傷を受けて生きている事が不思議でもあり、気味が悪かった。あれはゾンビだ。何よりも羽間は太嶋と話をしていると子供の頃の忌まわしい記憶が甦ってくる。羽間に会うまではあの日の出来事は一度として思い出した事はなかった。会わなければ思い出す事もなかった。完全に記憶は封印されてたいたはずだった。羽間の雰囲気や姿、形があの時の事を連想させる訳ではない。 

 羽間を見ていると何故かこの世のものとは思えない時がある。存在感がとても希薄に感じるのだ。まるで幻と話しているようだ。手応えが感じられない。太嶋は自分がもしかすると夢を見ているのでないか、羽間と言う人間は現実には存在していない。そんな思いに捕らわれる事が日増しに強くなっていた。

 羽間と対面する度に感じる思いはあの日見た・・・、子供の頃見た・・・黄昏時に夕日を浴びてブルブルクネクネと踊り狂う。アレに。

 窓から差し込む光が部屋の片隅に影を落としている。影が気になる。太嶋はその影をいつまでも見つめていた。

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