第12話 悪者討伐計画
ヤシロが去った車内では、体を押さえつけようとしてくるナガセに対し、ハギノは抵抗を試みていた。しかしならが男女では腕力に差がある。しばらくの攻防の末、上からのし掛かられて押さえ付けられてしまう。
そうして自由を奪われた状況にてハギノは思った。
何故、こんなことになってしまったのか。
やはりナガセの顧客と取引しようとしたことが間違いだったのか、あるいはヤシロを巻き込んだことが間違いだったのか、もしくは計画を立てたこと自体が、はたまたトキワと友人関係になったことが、ひょっとすれば両親の意に反して勉強だけの日常をやめた時から間違いは始まっていたのかも知れない。
反省しようにも、反省点が定まらない。
ならば反省は後。今は現状から脱出を考えるべき。
では、どうすれば良いのか。
隙を見て逃げるか。――その隙はどうやって作るのか。
股間でも蹴り上げれば隙は出来るだろう。――押さえ付けられて自由がないのに、そんなことが可能なのか。
現実的に逃走が難しいのならば、いっそのこと受け入れてしまうか。――選択したくはないが、そういう事態も想定すべきなのかも知れない。
一応、叫んで助けを求めるという選択肢が無いわけではないが、他人に頼らないために始めた此度の計画を思うと、どうしても抵抗があった。
しかし。
相手の自由を奪ったナガセは、次にベルトを外してズボンを下げ始めた。その光景にハギノはおぞましい結末を想像し、ぞっと血の気が引くのを感じた。それが思考よりも感情を優先した。口から叫び声が発せられる。まさにその間際、ナガセの手が塞いた。
「こんなことで叫んでるようじゃあこれから苦労するぞ」
ナガセがにやけながら言った。これから待ち構えている日常は、こういった出来事の連続だと。
そのことを正しく認識した瞬間、胸中に渦巻き出した嫌悪感と絶望感。頭がくらりとした。脳が重く、目の前が真っ暗に感じる。吐きそうだ。そんな日々を過ごすなど堪えられない。嫌だ。絶対に嫌だ。
強烈な拒絶感がハギノを衝動的に動かした。
顔を激しく振って口を塞ぐ手を振り払う。が、ナガセは往生際が悪いぞと怒鳴りながら再び口を塞ごうとしてくる。だからハギノはその手に噛み付いた。
「
ナガセが手を引っ込めた。その隙を逃さずにハギノは叫ぶ。
「助けて!」
一人で生きていく。
誰にも頼らない。
ハギノの決意は、あまりにも生々しい現実の前にあっさりとへし折れてしまったのだ。
助けてと、ふたたび叫ぼうとするが、今度はナガセの手が許さない。噛まれたことに対する怒りによって血走った目がぎょろりと見下ろしてきている。一方的な暴力が降り注ぐだろうとハギノが覚悟した瞬間、ナガセの背後の窓で人影が動き、次にはドアが開いた。いったい誰だと車内の二人の目が向く。そこにいたのはヤシロだった。彼は拳を握り込むと、予想外の事態に驚くナガセを思いっきり殴りつけ、直後に「逃げろ!」と怒鳴った。ハギノはこれに反応。本能が体を動かした。殴られて怯んだナガセをはね除け、側のドアを開いて車外へ。そのまま走って逃げていく。ナガセに捕まれば今度こそ助からない。それが分かっていただけに、誰かが追ってくるかを確認することなく走った。が、ふと足音から気付く。誰も後に続いていない。それはナガセが追ってきていないことを意味していたが、同時にヤシロも付いてきていないことを意味していた。では、彼はどうしたのか。それは背後へと振り返って明らかになる。
ヤシロはナガセと路上で取っ組み合いをしていたのだ。
「なんで」
なんで捕まっているのか。
だって今なら簡単に――。
「もしかして」
ヤシロの考えに気付いたハギノは、逃げるか否かの判断に迫られた。そうして瞬間的な葛藤の末に決断する。
ハギノが決断を下した頃。
取っ組み合いをしていた男二人だったが、結局は力負けしたヤシロの体が地面を転がった。
「せっかく見逃してやったってのに、正義のヒーローにでもなったつもりか? ボケが、大人しく帰ってればこれまでどおりに過ごせただろうによ!」
ナガセの怒声を受けながらも、ヤシロは立ち上がって毅然と応える。
「だからだよ。俺は今まで問題を起こさず、また問題に巻き込まれないように生きてきた。けど、ここで引いたら今までと同じ。それだと意味がないんだよ」
「なに言ってんだ、てめえ?」
「お前が分かる必要はない」
ヤシロは拳を握り込み、ナガセへと殴り掛かっていった。
しかしそれは喧嘩というには、あまりにも見るに堪えない光景。
ヤシロは遮二無二に拳を振り回すが、ナガセはそれを容易に
「おら、どうした! 威勢良く戻ってきてその程度か?」
「ぐッ」
ヤシロは殴り付けられてふらりと後退。口元の血を拭いながらハギノが走っていった方向を見る。
すでに彼女の姿はなくなっていた。どうやら逃げ切ることは出来たようだ。
その姿を見ていたナガセは、合点がいったと納得。何故、ヤシロは頑なに向かってくるのか。その目的が見えなかったが、今ようやく理解できたのだ。ゆえにその心をへし折ってやりたくなった。これは彼の性癖だろう。
「泣ける話だな、女のために捨て身になるなんてよ。だが、その女はてめえを散々に利用した挙げ句、見捨ててさっさといなくなったわけだ。本当に泣けるな」
ナガセは嘲笑うように吐き捨てる。これで心はへし折れると確信していたのだ。が、ヤシロはにやりと笑っていた。それが苛立ちを呼ぶ。
「なに笑ってんだ、コラ!」
「ははは、怒鳴るなよ。お前はなんで相手を脅す? なんで凄む?」
「ああん?」
「理由は簡単だよな。弱い犬ほどよく吠えるってやつだ」
「……俺が弱いだと?」
ナガセは堪らず相手の胸ぐらを掴み、拳を振り上げた。が、止まる。ヤシロの笑みが崩れなかったからだ。
「今日、コンビニで弁当を買おうと思ったら、高校生くらいの子が煙草を買おうとしてたんだよ。だけどなかなか売ってもらえなくて、さっさと売れと店員を脅してた」
「だから何が言いてえんだ、てめえ!」
ナガセの怒声も余所にヤシロは喋り続ける。
「っで、俺は助けに入ったんだが、どうやったと思う? 簡単だよ。警察を呼ぶぞって言ってやったんだ。それだけでたじろんでたよ。まあ、当然だよな。なんて言ったって立場的に悪者なんだから。俺が何を言いたいかというと、悪者っていうのは立場が弱いってことだ。なのに人は悪者に怯える。なんでだと思う? 殴られるから? ちがうね。日常が壊されることを恐れてるんだ」
「まさか……」
「やっと気付いたか。遅いんだよ、ばーか」
ヤシロは腕時計を見やる。
「俺が意味もなく殴られてたと思ったか? 俺の目算が正しければ、そろそろ到着だな」
「到着?」
ナガセはハッとした。遠くから車が接近してきていたのだ。
「日本の警察は優秀だよな、通報からすぐにやってくるんだから」
「てめえが呼んだのか」
「ああ」
「このッ――」
ナガセは吐き出しそうになった暴言を飲み込み、ヤシロの胸ぐらを放して逃走を図る。今は怒りをぶつけている場合ではないと悟ったのだ。しかし不意に背後から襟首を掴まれ、次いで背中から押し倒されてそのまま地面に組み伏せられる。無論、犯人はヤシロ。ナガセは叫ぶ。
「てめえ、状況を理解してんのか!」
「当然」
「だったらわかんだろ! 俺だけじゃねえ、てめえも強盗に空き巣でヤバい立場なんだぞ!」
「いいや。それが問題ないんだよ、これが」
強盗の犯行現場はトイレの中。店内には監視カメラはあるだろうが、トイレの中までは設置されていないだろう。また、空き巣を働いたナガセのマンションは古く、監視カメラが設置されていなかった。その上、どちらも目撃者がいない。
「つまりお前がどれだけ俺の罪を告発しようと、証拠も無しに警察が信じるはずもないんだ。そりゃそうだよな。ルールを守って真面目に生きてきた俺と、ルールを無視して好き勝手をしてきたお前とでは、向けられる信用に雲泥の差がある」
「てめえ、そこまで考えて……」
「ルールも守らずに生きてきたお前の負けだ。これで、つまらないと嘆いてきた人生にすこしくらいは意味を見出せそうだよ。ありがとう。だから最後にこれだけは言わせてもらえないか、ナガセ」
ヤシロはそっとナガセの耳元に近付き、小さく囁いた。
「一般人を舐めるなよ、クズ野郎」
と。
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