第3話 日常からの抜け出し方

「それで、お兄さんの名前は?」

 握手を交わし、ハギノが改めて問うてきた。

「ヤシロ」

「歳は?」

「二十五」

「そっか。なんとなくお兄さんのことがわかったよ。どういう人柄なのか、どういう人生を送ってきたのか。きっと真面目に生きてきたんだろうね。真面目に学校に通って、真面目に働いて、ギャンブルも女遊びも犯罪もやらずに」

「当たり前だろ」

「うん、わかるよ。だって凄くつまらない人生を送ってそうだもん」

「なに?」

 唐突なことを言われ、思わず睨み付ける。が、少女はまったく意に介していなかった。

「山も谷もない人生。日常シーンがだらだらと続くだけの物語。漫画だったらすぐに打ち切りを言い渡されるんだろうね。だから、もしもまともな大人が兄さんみたいな人を指すなら、私はまともな大人になれなくていいよ」

「……」

 なにも言い返せなかった。

 つまらない、飽きた、うんざりする。そんなことを考えながら過ごす日常を送っている身でどのような言葉を以て彼女の考えを否定できるだろうか。

「ねえお兄さん、煙草とか吸ったことないでしょ。なのに、なんで吸おうと思ったの?」

「理由を聞かれても……。そういう気分だったからとしか」

「そういう気分って、どういう気分?」

「どういう気分と聞かれても……」

「そうやって誤魔化すわけ?」

「べつに誤魔化してなんか……」

「じゃあ、また言い当ててあげようか?」

「言い当てるって……。さっき会ったばかりの奴に分かるわけないだろ」

「ほら、やっぱりちゃんとした理由があんじゃん」

「あ」

 まんまと引っ掛けられてしまい、腹立たしさからこの場を去ってしまおうと思った矢先、ハギノが言った。

「でも分かるよ、お兄さんのその気持ち」

「はあ? なにが分かるって?」

「お兄さんが煙草を吸おうと思った気持ち、もしくは理由かな」

 いやに確信めいた語調でハギノは言った。それだけに次に発せられる言葉はヤシロの核心を突くのではと警戒させられたのだが、相手はそんな考えをあっさりと裏切る。

「とは言え、私にそれを説明する義理はないか」

「え?」

「じゃあね、お兄さん。バイバイ」

「お、おい。ちょっと待て」

 ハギノは中途半端なところで会話を一方的に打ち切り、移動を始めた。無論、それを受け入れられるはずもない。ここで会話を終わらせては消化不良もいいところだ。ヤシロは後を追い、格闘ゲームで遊び始めた彼女の隣に腰掛けた。

「おい、ちゃんと説明しろよ」

「お兄さん、社会人でしょ。はやく帰って明日に備えた方がいいんじゃないの?」

「あんな意味深なことを言われたままで引き下がれるわけがないだろ」

「あはは、社会人としては良くないね、その判断は。でも、そこまで聞きたいなら話してもいいよ。――例えば、お兄さんはゲームとかやる?」

「まあ、そこそこ」

 言ってはみたが、ここ数年はまったく遊んでいない。思えば、いつからゲームをやらなくなったのだろうか。社会人になってからは休日など体力回復に消費し、ゲームで遊ぶくらいならば寝る日々だった。

「じゃあさ、遊び飽きたゲームはどうする?」

「普通に仕舞うけど」

「それは勿体ないね。遊び飽きたゲームにもまだ遊び方があるのに」

「どうやって」

「バグらせるんだよ」

「はあ?」

「飽きたゲームはさ、バグらせて遊ぶんだよ」

 曰く、制作側が意図しない行動を取ったときにゲームはバグるのだという。

 つまり正規ルートという常識を裏切ったとき、バグは見つかると。人生で言えば、慎重に物事を決めているのなら、大胆な決断を。興味がないのなら、あえて挑戦。今までの自分を否定することでバグるのであると。

「お兄さんが煙草を吸おうと思った理由はそれ。ちがう?」

「うっ……」

 図星だった。

 小学生の頃、普段とは違う帰宅道を歩いたことがある。ほんの些細な変化。しかし普段とは違う風景に少なからず心が躍ったのを覚えている。

 言ってしまえば、そういう変化を期待したのだ。普段とは違うことをすれば、ちょっとでも日常に変化が生まれてくれるんじゃないかと。

「なら良かったじゃん。こうして非日常的な行動の結果が出たわけでしょ」

「え?」

「お兄さんと私は普段どおりに日常を過ごしてたら出会うことはなかった。けど、お兄さんが煙草を吸おうと思った結果、こうして出会った。だから良かったねって言ったんだよ。一応は変化があったわけだし」

「それはそうかもだけど……」

 変化にしてはあまりにも小さい。この程度で日常が変わることはない。

 そんな不満げな顔を横目に、ハギノは仕方なさそうに頭を掻く。

「まだ物足りないって言うなら、もっと強烈なことをするしかないよ。衝撃の度合いが強いほど、今の『日常』に亀裂が生じるもんだからね」

「強烈なことって、例えばなんだよ」

「う~ん、そうなだあ~」

 ハギノはゲームの手を止め、考える仕草を見せた。しばらくの沈思。ゲーム画面では操作されなくなったキャラクターが敵の攻撃を一方的に受けている。

 そんな様子を眺めていると、余所から不穏な空気が漂ってくるのを感じた。

 振り向くと、人相の悪いチンピラに肩を組まれ、トイレへと連れて行かれるトキワの姿があった。気になったのは、彼女とチンピラとの関係。その光景はナンパではなく淫猥な犯罪の予兆を感じさせたのだ。何故なら、トキワの目がすっかり怯えていたから。

 そうして二人がトイレへと消えたところでハギノが言った。

「ここでは時折見られる光景だよ。基本的には合意の上だけど、たまに脅迫紛いのことをしてを強要する輩がいる。さっきのはそれ」

「そんなことが……」

「まあ、平穏に暮らしたければ見なかった振りをすることだね」

 ハギノの言うことは尤もだった。

 事実、人がごった返す店内だが、トキワを助けようと立ち上がる者はいない。むしろ目を合わせまいとゲーム画面を凝視していた。トラブルに巻き込まれるのは御免なのだろう。それもそうだ。仮にトキワを助けたところで、いったい何を得られるのか。せいぜい感謝の言葉くらいだ。その代償にチンピラに目を付けられるのでは割に合わない。

「けど、本当にそれでいいのか?」

「良いか悪いかで言えば、悪いに決まってんじゃん。酷い目に遭いそうにな女の子を見殺しにするわけなんだから。でもね、これは現実なわけ。誰でも主人公ヒーローになれる妄想の世界じゃないんだよ。日常を守るためには、そういう判断が必要だって話」

「日常を守るため……」

 ふとハギノの言葉が蘇る。

 ――まだ物足りないって言うなら、もっと強烈なことをするしかないよ。衝撃の度合いが強いほど、現在の『日常』に亀裂が生じるもんだからね――

 もしかしたら、これは好機なのではないか。

 日常を激変させるような出来事など滅多に起きない。だから煙草を買うみたいな小さな変化を起こすくらいしか自分には出来なかった。しかし今、その機会が目の前にある。普段ならば関わり合いにならないような事件が起ころうとしている。

 これを利用しない手はない。

 そんなヤシロの考えを読み取ったかのようにハギノが言った。

「お兄さん、それはやめといた方がいいよ」

「なんでだよ。こうしてる間にさっきの子は……」

「うん、わかってるよ。でもね、チンピラと喧嘩になって勝てるの?」

「それは……」

 喧嘩となった場合、果たして勝つことが出来るのか。

 結論を言えば、無理だ。

 こちらは真面目に生きてきた。当然、殴り合いの経験など皆無。喧嘩となれば負けは必至だろう。

「それが現実だよ。ここは警察に任せておけばいいんだ。まあ、警察が来た頃にはなんて済んでるだろうけどね」

「なら、やっぱり俺が助けるしかないじゃないか」

 するとハギノは驚いたように目を丸くした後、ふっと鼻を鳴らした。

「らしくないじゃん。お兄さんはもっと無難な生き方をしている人でしょ?」

「確かにそうだけど、ここは行くしかないだろ」

 そうして立ち上がると、ハギノが袖を引っ張ってきた。まだ止める気かと振り返ると、彼女は怪しく笑っていた。

「うん、いいよ。お兄さんがそういうつもりなら、付き合ってあげる」

「え?」

「まあ、付き合うと言ってもアドバイス的な意味だよ。そこは勘違いしないでね」

「そういう冗談は要らない」

「あっそ。じゃあ本題ね。例えば、助けに行くにしても、もう少しだけ待った方がいいと思うんだ」

「なんでだよ」

「そうだねえ~……。あのさ、どうして漫画やアニメのヒーローがここぞというタイミングでピンチに駆けつられると思う?」

「今はそんなことを話してる場合じゃないだろ!」

「まあまあ。ヒーローはね、ここぞというタイミングが来るまで物陰で様子を窺ってるんだよ。じゃないと、あんなにも都合良くピンチに駆けつけられるわけがないんだ」

「だから、さっきからなにを言って……」

「このままトイレに突っ込んでいっても、お兄さんは喧嘩に負けるでしょ。結果、誰も救えない。でもね、もうすこし待つだけで女の子を救い出すことが出来るようになる」

「なんでそこまで言い切れるんだよ」

「理由を知りたければ、私を信じることだね」

「……」

 ハギノは理由を明かさない。なのに、そこには異様な説得力があった。ハギノのきっぱりと言い切る喋り方がそう思わせるのか、それとも言葉の裏側に確証があると直感的に察しているのか、それは判然としない。

 ただ。

「さあ、どうする? 私を信じるか、それとも信じないか」

「……」

 彼女の言葉を信じてもいいんじゃないか。

 ヤシロはそう思い始めていた。

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