第3話

 眠りから覚め、瞼を少しずつ開いていく。

 隣に陽はいなかった。もう仕事に行ったのだろう。


「いた……」


 上半身を起こすと、僅かに腰が痛んだ。これでも加減してくれた方だろうが、大学がないわけではないのに。

 しかも授業最後まで入れてるし、困る――――でも、痛みを感じる度に満たされる。


 この痛みは、陽が私を求めてくれた証だから。


「……っあ、やばい準備しないと」


 スマホで時間を知った私は、急いで支度をして大学へ向かった。




 大学の図書室に着いて辺りを見回す。渚は隅にある机で勉強していた。

 早足で近付き、向かいの椅子を引いて腰掛ける。


「みゆ!おはよ!」

「おはよう」


 私に気付いた渚が、顔を上げて明るく笑った。そして勉強道具を片付けながら聞いてくる。


「遅かったねー。なに?寝坊したの?」

「……まぁ、そんな感じ」

「そんな感じ?……あ、分かった。察した」


 渚の笑顔がにやにやとした笑みに変わる。


「カレとラブラブしてたんでしょ。いいなー、私も年上の彼氏ほしい!」

「な、渚、だんだん声大きくなってる……!」


 周りからの視線が……。大学生の無言のチラ見って何思われてるか分からなくて怖い。


「おっと。ごめんみゆ、テンション上がると声でかくなっちゃうのなかなか直らなくて」

「大丈夫、わざとじゃないって分かってるから。ただびっくりしただけで」

「そか、よかった!カレとも、よかったね」


 ひそっと私にだけ聞こえるように渚が言った。

 心配してくれてたんだ。昨日、私がカフェでもあんまり笑えなかったから……。


 優しい渚の言葉が、私の心に火を灯すようだった。


「……ありが」


 言い終わる前に、何気なく時計を確認した渚が焦って立ち上がった。


「やばっ、私次の授業みゆと別だったの忘れてた!!ここから遠いのに!やばい!」


 今更……?と思ってしまった。実は、大分前から渚が移動しないといけないのには気付いていたが、何か理由があるのだと解釈して伝えなかったのだ。が、単に忘れていただけらしい。


 ごめん渚、言えばよかったね。


「じゃあ私行くね!そういえばさっき何か言いかけた?」

「……ううん。大したことじゃないから気にしないで」

「わかった!じゃあまたあとでー!」


 ああ、そんなに走ったら危ない…………やっぱり、段差でこけかけた。あそこの段差忘れられがちなんだよね、小さいから。

 気を取り直して再度走り出した渚の後ろ姿を笑って眺めながらふと思う。


 ……お礼、言わなかったけど大丈夫だよね。きっと渚は無意識なんだろうし。


「今度さりげなくお返ししよう。陽との話とか聞くの好きだったはず」


 人の少ない図書室で呟いた私は浮かれていて、だから神様が遠回しに示してきたんだ。


 ――“気を抜くな”、って。




 ◇◆◇




 その夜、気分が弾むように良かった私は、テレビ画面上で展開されるお笑い芸人のトークに繰り返し笑っていた。


 鍵の開く音。陽が帰ってきた合図だ。


「ただいまー」

「おかえり」

「んー」


 ぎゅ、と大きな体で抱きしめてくる陽。

 夢の中にいるような、際限のない心地良さと、陽の温もりが私を包む。そんな時に信じたくなかった。


 ――陽がまた、浮気をして帰ってきた、なんて。

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