第1話

 構内に休憩室はいくつかあるが、一階のここは壁がガラス張りになっていて開放感がある。

 三時限目が始まってしばらく経っても、室内で過ごすのは二人だけだった。


「…………」


 手が動かなくなり、はぁ、と口からため息が零れる。

 思い浮かぶのは昨夜のことばかり。


 ……また違う香水だった。つまり、この前とは別のひとといたということ。


「――――……」


 気にしたって仕方ない。今までにも何度もあった。よくあることだ。

 そう、分かっていても――。


「どしたのみゆー。元気ないね」


 不思議そうな声でハッとする。

 気持ちを落ち着かせ、私は向かいに座っている子に笑顔を見せた。


「そんなことないよ。大丈夫」

「んー……ならいいんだけどさ。なんかこう、心ここに在らずって感じだったから」


 ズバリ言い当てられ、よく見てるな……と私は苦笑した。

 上手かみてなぎさ。一年生の時から仲良くしてくれている、私の一番の友達だ。


「……もしかして、また、、?」


 返事がない私を見つめ、渚は少し顔を顰めて聞いてきた。

 よく相談している渚には隠そうとしても無駄だったみたいだ。

 私は曖昧な微笑を浮かべながら頷いた。


「うん……そうなの」

「やっぱり。みゆが元気ない時は大体カレのせいだもん。何があったの?」


 ――相変わらず直球だ。でも、そのおかげでいつも包み隠さず話せる。


「昨日さ、夜……帰ってきた彼がいつも通り抱きしめてくれたんだけど、……香水の匂いがしたの」


「香水」と口にした途端、渚が怪訝そうな顔をした。


「……どんな?」

「甘い、とにかく甘い匂いだった。多分、今までのどのひととも違うひとのだと思う」

「甘いかー……そっか。何してたのかは聞いたの?」

「……ううん。仕事で疲れたって彼、言ったから」


 私を抱きしめたまま、「落ち着く」って。


 ……女物の香水が染みついた体で抱きしめられて、私は全く落ち着けなかったのに。


「……元気出しなよ。そうそう、ちょうどこの前話した新しいカフェ、今日オープンなんだって!お昼そこで食べようよ!ねっ!」


 渚がにぱっと明るく、私を元気づけるように笑った。

 ……また気を遣わせてしまったな。


「うん。ありがとう」

「何が?おっ、先輩だ!ごめんサークルの先輩いるからちょっと話してくる!」


 渚は廊下を見て椅子から立ち上がった。

「了解」と返して、少し小柄な渚が廊下に出るのを見送ると、私は二度目の溜息をついた。




 ◇◆◇




 大学から徒歩八分のマンション。そこの最上階、十三階に彼と住んでいる。

 彼に貰った鍵で玄関を開け、中に入った。


「……ただいま」


 小さく呟いてみる。当然返事はない。

 理由は彼がまだ仕事をしているからで、日常的なことなのだが……何故か、温度のない静寂が胸に沁みた。


 不意にあの香りがフラッシュバックして、私はそれを脳内から追い払うように玄関に鍵をかけて靴を脱いだ。


『俺がいない時は絶対鍵かけてて。心配だから』


 彼に言われた言葉が蘇る。

 あの頃はきっと、私だけを見てくれていた。


 ……早く課題終わらせて、ご飯作らないと。

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