融けてやらない
春の雲に砂糖の入っていない生クリームを添えて人間の形に整えたら、きっと
初めて会った去年の春に、そんなことを思っていたのを思い出した。
窓の外にはどこが天井なのか分からないくらいにぼやけて白んだ水色の空が広がっていて、たとえば夏の空なら突き抜けたような天色をしているから空の果ての上限をなんとなく想像できるのに、春の空にはそれがない。低いのになぜか遠く感じる空の手前で、どの高さを漂ってどこからが雲なのか分からない、綿菓子を薄く引き伸ばしたような雲が、去年と同じにどこからか現れては浮かんでいた。
「祈、今日は寝ないの?」
背中の向こうから聞こえた先輩の声は、いつも体温より少しだけ暖かくて柔らかい。春は冬の残り雪を融かす。
「……寝ますよ。もう少ししたら」
「そう?なんかやけに熱心に空を見てるから」
「……」
そうかな。
そんなに毎日すぐに寝ていたっけ、と内心首を傾げながら、窓から部屋の中へと視線を移す。キャンバスに向かっている先輩以外には黙々と作業する生徒が二人いるだけの、静かで閉鎖的な空間。暗いと感じたのは最初だけで、鮮やかで強烈な個性が暗闇の中でじっと黙って身を潜めているのだと気づいてからは、この空気はなんとなく嫌いじゃない。
僅かに開けていた窓から顔を背けたせいで、部屋の空気に染み込んだ木や絵具や油の独特な香りが仄かに鼻腔を刺激した。
先輩の方はいつも通り、相変わらずの熱心さで何かを描いている。きっとそのキャンバスの中では天使や妖精が楽園で遊んでいるのだろう。先輩が描くモチーフはいつも決まっている。
「先輩って、季節にすると春ですよね」
「……うーん。そう?」
「それ以外に何かあるんですか?」
驚いてそう言うと、先輩は祈ってたまに攻撃的だよね、とキャンバスに向かっているままくすくす笑った。
ほら、そういうところだ。いつも穏やかで、刺すようなものがない。
「じゃあ、先輩の一番好きな季節は?」
「そう言われたらまあ、春かなあ。あったかいし景色もやさしいし、何もくるしくない感じがする。あと月並みだけど新しく生まれるイメージが好きだな。なんだか敬虔な気持ちになるから」
「先輩の楽園は、ずっと春なんですか?」
「え?」
「その絵」
私からは裏側しか見えないキャンバスを見つめて言うと、一瞬だけこちらを一瞥した先輩が理解したように柔らかく笑んだ。自分の作品を見つめる目が細くなる。そこに在るのは彼のために彼が作り上げた楽園だ。いつでも花が咲き乱れて、いつでも陽が降り注ぐような。
「そうだね。季節でいったら、確かに春だ。あんまり考えてなかったけど」
「ふうん……」
「祈こそ、好きな季節は?」
「……さあ」
そろそろ寝ようかな。
机に突っ伏して適当に答えた私に、祈は暑いのも寒いのも苦手そうだから、春か秋?という先輩の穏やかな声が追いかけてきた。
答えるつもりはなかった。人が好きなものについて語るとき、それは時折自分のことをも表している、先輩が春を好きだと言ったときのように。私は自分のことを話すのが好きじゃない。
正解は冬だし、苦しくないのは確かに何より生きられることだけど、春は冬を融かすから、ほんとうにやさしいのかは分からない。
少しして、おやすみ、と静かな声がした。
私は瞼の裏に自分を閉ざした。
鮮やかな透明 @280
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