ノット食用

「――実は私、来月から産休に入ることになりました」


その知らせは本当に突然のことだった。

恥ずかしさからかはにかんで頬を染める英語の教師は一応このクラスの副担任で、それまでの静寂が嘘のように教室内がざわめき出す。俺達のクラスにとってのビッグニュース、しかも性に敏感なお年頃としては当然だ。


前後左右の奴ら同士で顔を見合わせるクラスメイトは、秋風に揺れる稲穂のようだった。煩いけれど豊かな実りの込められた波。おめでとう、と一人の女子生徒が発した声が徒競走のピストルかのように、他の女子も口々に祝福の声を上げる。一番最後に声を出す一人になりたくないとでもいうようなその気迫。心から祝福できる性格の良い人間ですってアピールは、大きな一打ではなくあくまで少しずつ蓄積されていく。減点式のゲームに巻き込まれた教師はありがとうと心の底から幸せそうに笑った、ここは素直に俺も祝福の波に乗るべきなのかもしれない。



はあ、と周囲に悟られないように溜息を吐いたところで、方位磁石か何かみたいに恐ろしく正確な角度で真正面を向いている背中が目に入ったのは決して偶然ではなかった。


前後左右の友達同士で笑い合う教室の中で、先程からピクリともしていないその背中の主、奇人と名高いこの女子生徒が視界に居ると、悪目立ちして仕方ない。それでも真っ直ぐに担任の方を向いている彼女が果たして本当に先生のことを見つめているのか、ここからでは確認できないのがなんとなく残念でもある。



――梔子くちなし いのり


夕日の朱に透ける長い髪は、色素が薄くて茶色に見える。暑いからか珍しく結んでいるポニーテールから覗く細くて長い白磁色の首は、それだけでも彼女の不健康さをよく表していた。


いつだって世界を透かしたその奥を見つめているような梔子は、光に当たると自分こそが透けているようで。危うい、と思う。存在が。

さながらこの稲の大海原の中で区画分けのために埋ち込まれた杭のように、梔子は周囲の感情を受け流して、今日も今日とて空気に溶け込む気は一切ないようだった。


収拾のつかなくなった教室を担任がなんとか落ち着かせて、教室を出ていった後もそのままぼんやりと梔子の後姿を見つめていた俺は、その背中が何の予備動作もなく反転したのを確認して数秒、我に返って目を反らす。

視界の端で梔子が立ち上がる。目を反らすほんの一瞬前に目が合った気がして、気恥ずかしさを歯の奥で噛み殺しながら鞄に荷物を詰め込む。この後すぐにバイトが入っているのだ。のんびりしてる暇はない。



そうして席を立ったのとほぼ同時に。

隣を通り過ぎるとばかり思っていた梔子が、俺の目の前で立ち止まった。


「……」


すらりとした細い指が、静かにプリントの束を机に乗せる。――『風紀委員の今後の活動予定について・改』?


「今日の昼休みの委員会の」

「……は?」

「読めば分かるはずだから」

「昼休み?って、そんな連絡あったっけ?」

「……」

「うわー悪い。全然知らなかった」


こくり、と頷いて身を翻す梔子は、返事を返してくれるだけ、きっと少し機嫌がいい。すぐに身を翻して席に戻った梔子を見ていると、コミュニケーションがいかに大切か本当に身に染みる。ああ、もう時間ないし。


とりあえずプリントを机の中に入れておいて、気を取り直して鞄を持って。

委員会あったなら行く前に教えてくれれば、なんて悶々とするけどとりあえず、


「ありがとな!」


扉に近い梔子の席を駆け足で通り過ぎながら礼を言うと、感情の籠っていないアーモンド型の瞳を瞬かせて、梔子は小さく首を傾げた。



さらり、と似合っていないポニーテールが揺れた。

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