鮮やかな透明

@280

憂愁のオード

視界が滲む。人と風景がただのぼやけた光になって混ざり合う。黒と白と、緑。感覚を八割も支配している視覚を誤魔化して、一瞬だけ遠ざかった現実はすぐにピントが合わさって、黒い光は斜め横で男子の制服の輪郭を作って収束した。


「梔子、」



……いつの間に立っていたんだろう。


頭上で聞こえた声と、目の前の机に差し出されたノート。一昨日先生に提出したはずのそれに、思わず指先から腕を辿って声の主を見上げる。やたら高い位置から私を見つめる二つの瞳は、顔と名前が一致している数少ないクラスメイトのそれで。

……欠伸、見られたかな。


「さっき職員室行ったら、常磐に渡してって頼まれたから」


親しみも嘲りもない、淡々とした口調。それなのにどこか気さくに感じるから不思議だ。形の良い唇から、言葉が落ちる、というより流れていくようだった。一本の糸になって。透明な空気中に。


確かにこのノートは数学の常磐先生に提出したもので、明日から出張らしいと聞いていたから放課後までに取りに行こうと思っていた。職員室の机の上にでも置いてくれれば勝手に取っていくのに、わざわざ届けさせるなんて律儀な先生だ。黒い外枠とロゴだけに飾られたシンプルなノートから、先生がチェックしたのであろう付箋が3枚飛び出している。


「……ありがとう」

「いーえ」


気さくな、でもどこか気怠げな声。そういえばこの人はいつもこんな声をしている。表情も。決して騒がしい性格ではないのにクラスの中心にいるのは、きっと整った顔立ちのせいだ。まあ何にしても、なんとなく、この声は嫌いじゃないなあ。そういえば眠いんだった。



手元に戻ってきたノートのページを捲る振りをして俯くのと、目の前の男子が誰かに呼ばれて遠ざかるのはほぼ同時だった。堪え切れない欠伸がまた零れる。溢れた涙がまた一瞬だけ現実を遠ざけて――茶色と白と、赤青黄。あえて極力シンプルなものを選んで買ったノートに、わざわざカラフルな付箋を付けたのは気遣いのつもりだったんだろうか。ぼやけた現実がまだ鮮やかで、がっかりしてしまう。



昼休みはまだ20分もあるし、今はとりあえず眠ることにして。目を瞑って、机に突っ伏す。浮かれた喧噪が心地いい。遠くから誰かを呼ぶ大きな声。それに答える低い声。きゃあきゃあ可愛い女の子たちの鼻にかかる声に、遠くでは野球の金属音。鳥のさえずり。葉のこすれ合う音。

もう少しで太陽が私達を照らす音だって聞こえてきそうなくらい、穏やかな春の午後。


目を覚ますときの私はきっと、やわらかな夢を反芻して、浸っている。

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