2:箱庭の星達

 薄暗い洞窟のような廊下を歩いて、何分経っただろうか。何が待ち受けているのか、自分はもう、二度とここから出られなくなってしまうのではないか、と暗鬱な気分になっていくばかりだ。

 やがて見えた突き当たりには、壁ではなく仰々しい扉があった。

 どう見てもこの先がまともな住処とは思えない。新しい住処というのは、実の所、問題を起こしたフォイユみたいな人間を追いやる施設だったりするのだろうか。

 元よりあの青年は、何となくだが信用出来ない雰囲気を持っていた。騙されたならそれはそれで、避けられない結果だったと考えるしかないだろう。

 立ち尽くしても仕方ない、と扉に手を触れると、静電気のように、ばちっと手が一瞬だけ痺れた。

「いって……」

 軽く手を振って痛みを和らげつつ再度扉に手を触れると、見た目の重厚さに反して扉はすうっと内側へ開いていった。自動ドアのような滑らかさである。

 が、その先に踏み込んだフォイユは目を疑った。

「な、なんだ、ここは」

 どう見ても洋館だ。それも、豪奢な。

 フォイユが立っているのはエントランスだろう。そこを照らすのは、天上につり下がった大きなシャンデリアと、壁の燭台。床には黒い絨毯が敷かれていて、汚れてもいないようだ。

 上に続く両端からの階段と、真ん中に伸びる奥への廊下。どこを見ても、誰も居ない。このまま進んでもいいのだろうか。

「……ホントに、ここに住めっていうのか……」

 ろくな説明も無しに追いやられて、好き勝手出来る方がどうかしているだろう。フォイユはひとまず、声をあげてみる事にした。


「おーい! 誰かいませんかー!?」


 広そうな洋館に自分の声が響く。近くに誰かが居ればそれで出て来てくれたりしないだろうか、と思っていると、ひゅうん、と風が吹いてきた。

「え」

 空気が留まっていたはずなのに、どこから風が、と狼狽えるフォイユの前に、いつの間にか一人の少女が立っていた。好奇心に輝く瞳がこちらを見上げている。

「……き、君は?」

「あたし? あたしねあたしね、ティフよ! あなたは?」

「俺は、フォイユ……フォイユ・エトワール」

「まあまあまあっ! 素敵な名前! フォイユが今日からここのマスター?」

 マスターってなんだ、とフォイユは驚く。そんな事を言われた記憶はない。

 だがティフはお構いなしにフォイユに纏わりつくように動きながら、フォイユの手を取る。

 途端に体が淡く光り、ひゅうっとつむじ風が二人を包んで、フォイユはぎょっとした。

「うわっ」

「あっ!? すごいわすごいわ! こんな人、初めて! すてきすてき!」

 嬉しそうにはしゃぐティフは、フォイユの手を掴んだまま駆け出して階段を上り始めた。引っ張られて足がもつれるかと思ったが、何故か羽が生えたように軽い。

「こっちよこっち! マスターのお部屋はこっち!」

「え、あの、俺、マスターなの?」

「きっとそうだわ! だってあたしの魔力を綺麗に受け止めたもの!」

 さっきのつむじ風は、どうやら魔力だったらしい。それが出来る、ということは。

「君……レクシオなのか」

 薄い緑の髪、薄い水色の瞳。言われてみれば、確かに人間には持てない色彩だ。

「そうそう! そうなの! あたしは風のエルフなの!」

 エルフはレクシオという『人外生命体』の一種だ。魔力が高く、共存していた昔はよく悪戯好きで人を困らせる反面、懐いた相手には強い加護を与えてくれたという。

 エルフの成長速度は相当に遅く、人間の数倍は軽く生きるらしい。目の前の少女の実年齢は、全く想像がつかなかった。

 二階の奥の扉の前が、マスターの部屋らしい。ティフは扉を開けると、中に向かって告げる。


「ねえねえねえ! 新しいマスター、来たわ!」


 本当に自分がマスターでいいのだろうか。ともかく真偽が分かるまでは大人しくしておこうと思った矢先に、ティフに引っ張られて部屋の中へと入る。

「フォイユ・エトワール! ミロワールがおっきいの!」

「……またあの男は、懲りずに代わりを寄越してきたのか」

「あらぁ、前よりはマシそうだけどぉ?」

 まだ子供にしか見えない少女はこちらを睨みつけ、妖艶な美女はこちらを舐めるようにじろじろと見る。

 どっちも恐らくレクシオのようだが、あまり好意的には見えない。

「マスターとして来た、というよりは、いつも通り、何も知らされずに追いやられた、の方が合っているんじゃないか? 僕は歓迎しないよ。ご愁傷様」

「リュイってばぁ、辛辣ねぇ。ねーぇ、お兄さん? アタシとイイ事、しなぁい?」

 ぞくりとする何かを纏った美女が迫ってくる。嫌な予感がして、フォイユはさっと距離を取った。

「あらぁ、何よーぅ」

「わ、悪いけど、そういうのはちょっと遠慮したいんだ。……それより、ここは一体?」

「ここはね、エグザ!」

「ティフ、余計な事は言わなくていい。貴公はティフから離れろ」

 リュイと呼ばれた一際小さい少女が、不機嫌そうに言いながらフォイユの腕を掴む。途端にまた体が淡く光り、ぱしゅんっ! と音を立てて、水が一瞬二人を取り巻いた。

「…………ちっ」

 小さく舌打ちし、リュイは手を離すとソファを示す。

「座れ。……まったく、何て面倒そうなものを送り込んできたんだ」

「……今のは……水の力?」

「リュイはドワーフなの。水を操るのが得意なのよ」

「……ふん。触っただけで力を発動なんて、穴の開いた水がめと同じじゃないか。使えない」

 使われる為に来たわけではないが、確かに自分ではどうしようもないので反論出来ない。

「レクシオって分かっても逃げようとしないって事はぁ、あなた、人間側じゃないのねぇ?」

「いや、人間だよ。……そういう意味じゃない?」

「違うわぁ。今の人間はレクシオと聞いただけで怯えて逃げ惑うだけの、脆弱な存在。本物のレクシオを目の前にして怯えない人間は珍しいし、人間であっても人間と同じじゃないってこ、と」

 ふわふわとした足取りで近づく妖艶な美女は、立てた人差し指をフォイユの額に、とん、と突く。

 途端にまた体が淡く光ったと思うと、ぞくぞくとした感覚が全身を巡り、フォイユは目の前の美女を「欲しい」と思い始めた。

(な、何者なんだ、この女性……!?)

 滅多に起きない感覚に身をうずくまらせる。絶対、手を伸ばしてはいけないと勘のような何かが告げていた。

「く、ぅ……」

「あらあらぁ、ほんの一瞬だけなのに、もう共鳴しちゃったぁ? アタシはサキュバスだから、お兄さんにはちょーっと辛いかしらねぇ」

「……ロット。わたくしの居ない隙に、何をしてるんですの?」

「ぅ……?」

 また新しい少女の声。一体ここは何なんだ、とフォイユは霞がかった頭の中で疑問を膨らませる。

「やだぁ、もう帰って来たのねぇ? ミエルってばぁ」

「深い魅了にかかってるようですけれど、この方、どなた? 新しい餌ですの?」

「違うもん! フォイユは新しいマスターなの!」

「ティフは誰彼構わず懐くから、この男も迷わず連れて来たんだ。全く、誰を寄越しても無駄だと僕は言っているのに、あの王ときたら」

「あら、リュイは相変わらず警戒してますのね。たかが人間如き、わたくし達レクシオが恐れる相手ではないでしょうに」

 ひやりとした感触が、火照った頬に触れる。次の瞬間、光を感じたと思うとすうっと体が冷えていき、周囲は白い霧に包まれた。

「うわっ!? 何だこれ……!?」

「まあ、何て正直な鏡ですこと」

 呆れた声でフォイユの頬に触れているのは、これまた美しい少女だった。だが、可憐な唇からのぞく鋭い犬歯が、またも人間でない事を示している。

「せっかく、ロットの魅了を解いて差し上げただけですのに、増幅して霧を出すなんて。無駄遣いですわ」

「ごめん。……その、どうしたらいいか、知らなくて」

「鏡のみならず当人も正直ですのね。お気の毒ですわ」

 ぱん、と少女が手を叩くと、霧は消えて元の風景に戻る。

 周囲では他の少女達が、思い思いの顔でフォイユを見ていた。

「生憎だが、人間には逃げ場が無くてね。うっかりその二人のどちらかに餌にされた方が、楽に死ねるよ」

 リュイが冷たく言い放つが、別にフォイユは死にたいわけではないのでその案は却下するしかない。

「大丈夫よ、フォイユ。ミエルちゃんは元々箱入りお嬢様だから、血もそんなにいっぱい要らないし、相性が良ければ仲間になれるから」

「……いや、俺はそういうのもちょっと遠慮したいかな」

 フォローのつもりでティフは言っているのだろうが、恐らく吸血鬼であろうミエルの仲間になりたいとは思っていない。

「逃げ場がないってことは、ここから出る事も出来ない、って事でいいのか?」

「人間には出られないわねぇ。アタシ達レクシオはそれぞれの手段があるけどぉ」

「ちなみに、これまで来た人間って」

「全員、何らかの理由でわたくし達の誰かに殺されましたわ」

 理由は追及しない方が良さそうだ。レクシオという存在がどれだけ恐ろしいかは、御伽噺でも大げさなくらい描かれている。

 可能な限り生き延びたいが、人間社会にすら馴染めなかったフォイユでは、ここでの生活もそう長くないのかもしれない。そう思うと、逆に気が楽になった。

「何でレクシオの君達が、ここに集まってるんだ? 保護されているとか?」

「保護! ものは言い様だな。人間に裏切られた僕達が、好きで人間の住処に居るとでも?」

 リュイの返答は悪意に満ちている。彼女が一番、この中で自分に殺意を抱いているのではなかろうか。真っ先に殺しにくるのは彼女かもしれない。

「じゃあ、捕まってる? でも外に出られるんだよな」

「仕事の時だけねぇ。それ以外で外に出ようとすると、厄介な結界に魔力を吸い取られて、半日は大人しくさせられるのよぉ」

 げんなりするように話すロットは、何度か試したことがあるのだろう。そうでなければここをとっくに抜け出してそうな性格だ。

「仕事してるんだ。レクシオが仕事って不思議なイメージだな。どんな仕事をしてるかは聞いてもいいのか?」

「そんなもの、貴公に何の意味が――」

「あのねあのね! 私たちのお仕事は、悪いレクシオを倒すの!」

「こら、ティフ!」

 止めようとするリュイだが、ティフはフォイユに向かって楽し気に目をキラキラさせているので、フォイユはそのまま喋らせる事にした。

「悪いレクシオ? そんなのが居るのか」

「そうよ! 他のレクシオや人間を騙して仲間にしているの! そんなレクシオは倒しちゃえって、王様が――」

「ティフ。王の話は駄目ですわ」

「あっ……ご、ごめんなさい……。でも、フォイユは王様が連れて来たんじゃないの?」

 だから王って誰だ、と思ったフォイユは、ふと一人だけ思い当たる節を浮かべた。

 社長だと言っていた彼が、フォイユを見つけてここへ送り込んだ張本人でもある。魔力云々の話もしていたし、何よりこうしてレクシオが複数集まる場所を作ったとなれば、まず間違いないと思っていいだろう。

「王様って、社長の事か? 色々おかしいとは思ったんだけど」

「……社長ねぇ。会社を経営しているって話だったかしら? 人間社会には興味ないけれど、アナタのような人間を見つけるには、相応の虫かごが必要だものねぇ」

「虫かご……」

 元々争い自体を好まない性格のフォイユは、自分の力が露見したらすぐ逃げてしまう人間だ。立ち向かって自分の居場所を確保するような強さは持っていない。

 となれば、おびき寄せられたのだろうか。そんなつもりはなかったが、ミロワール持ちは基本的に戸籍を調べたら簡単にバレる。大企業ともなれば、裏取りくらいはしていたのかもしれない。

 ――どんなに、フォイユが隠そうとしても。

「君たちの誰かと一緒なら、俺も出られるのかな」

「あら、やはりレクシオと居るのがお気に召しませんかしら?」

「だって俺は歓迎されてないんだろう? ただ殺されるのを待つのも何となく嫌だし」

「仕事以外は出られない。そう言ったばかりだが? 貴公は頭が悪いのか?」

「その仕事に乗じて、って話だよ。君が一番、俺と居たくないんだろう?」

 殺される前に別々になった方がお互いの為ではないか、とフォイユは思っただけなのだが、リュイの顔はものすごく不機嫌そうだ。

「あの王が連れて来た人間なんて、どいつもこいつもろくな奴じゃない。持ってるミロワールの力に怯えて、僕らに命乞いをするような奴らばかりだった」

「……みんな、泣いたの。泣いて、助けてくれって言って、それで怒ったリュイとか、ミーヌちゃんとかに殺されたの」

 しょげかえるティフの言葉に、ちくりと心が痛む。自分も同じように見えたのだろうか。

「この力に怯えるのは、仕方ないんだ。自分の意思じゃどうにも出来なくて、よく周りの人を傷つけて……ああ、今日もそうだったな」

「そういえば、どのような力だったんですの?」

「前触れも何もなく、いきなり部屋のガラス窓が全部割れたよ」

 あれは防ぎようが無かった事故とも言えるが、自分が部屋の中央に立った途端に割れたのだけはいただけなかった。

 もっとも、ミロワールの暴走という時点で、どのみち避けられない結果ではあっただろうが。

「トリガー結界か。条件に該当する人間が結界の中心に入ると、ミロワールの力が暴走する。……これまで来た奴らと同じ現象のようだ」

「じゃあ、あの社長が仕組んだのか!」

「そうなんじゃなぁい? 災難よねぇ」

 黒幕は社長、で良さそうだ。何とも迷惑な話である。それとも、ミロワール保持者を彼女たちの餌として放り込む為に作ったのだろうか。

 ミロワールが暴走したからといって、フォイユは別にレクシオに怒りは抱かない。それを目の当たりにして怯える人間にも、とうに何も思わない。

 しかし社長の目的は分からないが、さすがにちょっとばかり迷惑だ。

「……俺は、何でここに連れてこられたんだ?」

「それを知って、どうするんですの? 逃げたいのではなくて?」

「内容にもよるけど、知ってからじゃないと逃げようがない気がしてきた」

「いいんじゃないか? どうせ誰かに殺される結末なら、ね」

 リュイが肩をすくめて、ふっと口元だけで笑った。その冷たさに、少しだけフォイユはひやりとする。


「貴公は僕達の中の誰かと契約し、次の女王の鏡となる為にここに送られたんだよ。フォイユ・エトワール」


 理解するまで、十秒ほどかかった。

「契約? 鏡? 女王って……つまり、レクシオの女王……実在したのか!?」

 御伽噺では悪の親玉と言われる程、強く恐ろしい存在。今の世界になる直前、世界の王が捕らえて殺したか封じたかとされている、幻や伝説並みに真偽が定かでない存在だ。

 その後継者が、この中の誰か、ということか。そもそも女王に後継者がいる事も初耳だ。

「……実在してますわよ。今も」

「人間って、本当に無知になったのねぇ。女王の存在すらあやふやなんてぇ」

「えっえっ!? 女王様を知らないの!? 人間は女王様を忘れちゃったの!?」

「自分たちの手に負えない存在なんて、居ない方がいいんだ。人間はね」

 多種多様な彼女たちの存在意義は、十分に分かった。だが、そうなると人間側が問題ではなかろうか。

「女王と契約ってことは、相当なミロワールの持ち主じゃないとダメ、ってことだよな? 俺、大丈夫なのか?」

「は!? まさか貴公は、その役目を全うするつもりか!? とんだ狂気の沙汰だな!」

「いや、あくまでも条件的な意味で。あの社長がそのつもりだとしても、君達にとって不足なら、成立しようがないだろうし」

「そうですわね、鏡らしい正直さでは群を抜いてますわね」

「器だけ大きくても、穴だらけじゃ意味がないだろう。まるでザルだ」

「フォイユは綺麗に全部受け止めてくれたけど、でもでも、触っただけで魔力が使われちゃうのは……困るの」

「そうねぇ、共鳴しやすいって意味では適合してるけどぉ……ちょーっと、ノリが悪いのよねぇ」

 まあ、そんなもんだろうな、とフォイユも頷く。何も高評価が欲しくて訊いたわけではないので、素直な感想でありがたい。

「つまり、最低条件は突破してるわけか」

「そうですわね。だからと言って、わたくし達にも選ぶ権利がありますわよ?」

「選んでくれとは言えない立場だから、そこは置いておくとして。気が変わったから、とりあえずここに置いてもらっていいかな」

「は?」

 威圧感たっぷりにリュイに睨まれるが、何もしないので頼むから落ち着いて欲しい。

「単純に行く所が無いのもそうだけど、俺は元々家族にも捨てられた身だし友人も居ないから、君達が俺を殺すまでは平穏に過ごさせて欲しいかなと。俺が死んでもまた誰かが送られてくるだけなんだし」

「何を馬鹿な事を仰ってるんですの? わたくし達と本当に共存できるとお思いかしら?」

「共存って、互いに助け合うんだろ。俺はそんなの出来ないから、ひっそり静かに過ごしたいんだけど……駄目かな」

「それは寄生だ。やっぱりろくな奴じゃないじゃないか」

「あらぁ、リュイってば人間が嫌い過ぎて、ちょっと知能下がっちゃったぁ?」

「何だと!?」

「だってぇ、今までに比べたら随分マシじゃなぁい? アタシ達の邪魔はしないって事でしょぉ?」

 ロットの言葉にフォイユは頷く。手伝えることがあれば手伝うが、レクシオという存在の時点で人間が何か出来る事などほとんどない。

「そ、れ、にぃ? ……アタシ達を見ても、ぜんっぜん興奮しないくらい、枯れちゃってるみたいだしぃ?」

「……君はともかく、他の子達はどう見ても子供だよな」

「人間の子供と同じように見られてたのか! とんだ節穴だな!」

「ティフやわたくしは、百を超えてますわよ? リュイはその二倍かしら」

 人間の倍は生きてる発言に、むしろ感心すら覚える。ますます、自分は大人しく余生を過ごした方が良さそうだ。

「それはすごい。うん、全然興奮しないな」

「本当に枯れてるのねぇ……」

「そこは人生を諦めた結果だよ。この力がある限り、結婚どころか恋人すら出来ないしね」

 ミロワールに遺伝は関係ない。そう分かっていても、見つかった人間の傍に居たくないというのが普通の人間達の考えで、そしてフォイユはその一人にされている。恋愛感情など抱きようがなかった。

「契約……マリアージュは、文字通りレクシオとの婚姻だ。貴公にはその覚悟も無さそうだな」

「誰も選ばなければいい話だ。そうだろう?」

「何て腰抜けだ! 探求心も無ければ向上心もない。現状を打破するつもりもない。ドワーフ族にとって、最も忌み嫌うのは停滞だ。貴公みたいな奴は、生きているだけで僕達への侮辱となる!」

「……君は前に進めるだけの理由と力がある。俺はそれを全て取り上げられた。その違いだよ」

 イライラされてたのは、それが原因だったらしい。無理もないが、フォイユは残念ながら迎合するつもりもなかった。前に進む意味も気力も、フォイユにはとうに残っていない。

「取り上げられた? じゃあ何で取り戻そうとしない! ただ逃げ回っていただけなんだろう!?」

「そうだ。俺は逃げる事で自分を守ってきた。争わず姿を消せば誰も追わなかったし、それ以上咎められる事も無かった」

「ちっぽけな生き方をしてきたのねぇ」

「何となく、死ぬのだけは嫌だなと思って生きて来ただけだよ。ミロワール持ちの人間が出来る事なんて数少ない。だから会社に入る時も、ミロワール持ちだというのは隠したつもりでいたんだ。……結果はこの通りだけどね」

 卑屈だろうが、生きる為だ。仕方ないと全て我慢してやってきた。それを今更責められても、怒りこそしないがどうする事も出来ない。

「こ、この……っ……」

 リュイがぷるぷると震えている。たかが人間一人の言葉にここまで過剰反応を示していたら、血管がいくつあっても足りないだろうに。

「! だ、だめだめだめ、リュイっ!!」

「あらやだぁ、ミエル、ちょっと離れた方がいいわよぉ?」

「当然ですわ。わたくし、水は苦手ですもの」

 おろおろして声を上げるティフに、さっと部屋の隅へ逃げるロットとミエル。

 何だ何だ、と怪訝に思っていると、がっ、と胸倉をリュイに掴まれた。

 漆黒の瞳が怒りに燃えているのが分かるくらい至近距離で見据えられ、さすがに心臓が委縮する。

 そしてやはりというか、フォイユの体は淡く光り、二人の周囲を水が取り囲み始めていた。

「貴公は、ここに来てもなお、停滞するのか。人間として生きる事を取り上げられてもまだ、無様な人間のままでいるというのか!」

「何も変わらないんだろう? 最後に君達の誰かに殺されるまでは」

「今の貴公など、殺す価値すらも無い! 頭を冷やせ!!」

 ばしゃあっ!! と、頭から水がすごい量と勢いで落ちて来た。当然だが、フォイユもリュイも水浸しになる。

 そして何より、凄まじく冷たかった。どこから出した水なのだろうか。

「……何で君まで濡れるんだ? リュイ」

「そうするだけの理由があったからだ。貴公には分からない、僕だけの理由が」

 手を離し、リュイは床に降り立つと歩き出した。

「着替えてくる。ティフ、そこの馬鹿に掃除でもさせるといい」

「えっえっ、リュイ!?」

 ティフの声にも応えず、リュイは部屋を出て行ってしまった。

 怒らせたのは分かるが、殺さないとは思わず、フォイユは立ち上がってティフに訊いた。

「とりあえず、掃除道具ってどこかな、ティフ」

「……うう、先にフォイユも着替えて欲しいの。それじゃ掃除してもまた汚れちゃうの」

「それもそうか。でも、スーツこれしかないんだよ。普段着でもいい?」

「何を着ようが構いませんわ。さっさとしないと、ソファが傷みますわよ」

「殺す価値も無い、ねぇ。更生の余地がある、の間違いじゃなぁい? あ、そっちの部屋で着替えてねぇ?」

 果たしてそれはどうだろうか。フォイユは内心でそう返しつつ、置いてあった荷物から着替え一式を出すと、ロットに言われた通り、隣の部屋に繋がるドアに入る事にした。

 が、全く予想だにしない光景が目に入ってきて、思わず硬直する。

「……ドラゴン?」

 部屋いっぱいに詰まっている感じのドラゴンが、不機嫌そうな目でこちらを見下ろす。

『先ほどから騒々しいのは、そなたか』

「……す、すみません」

『何の用だ。水を纏っておるようだが、リュイに水浴びでもさせられたか?』

「そんなところです。あ、えっと、お邪魔しました……今後は静かにしますんで」

『今後だと? まさかそなた、ここに来た新たな王の候補か』

「あ……一応、そうだと思います。あ、でも、そういうのは特にやりたいとかじゃないんで、行き場も無いし、ひっそり暮らしていくつもりですから」

 ドラゴン相手では、さすがにフォイユも敬語になってしまう。それだけの威圧感を持ち合わせているのだ。何より人型ではないというだけで、本能的に弱者である事を思い知らされる。

『ほう。謙虚な事だ。……だが、それが本当に出来ると思っておるのか?』

「もしかして……無理、ですか?」

『レクシオに囲まれて穏便な生活を営める人間なぞ、とうに居らぬはずだがな』

「ああ、そっちですか。いや、平気です。うかつに触れなきゃ問題も起きませんし」

 そろそろ着替えなければならない。ロットの言葉は恐らく嫌がらせなのだろうが、他に部屋は空いているだろうか。

「それじゃ、そろそろ失礼し……はっくしゅん!!」

『男の裸なぞに用は無い。早々に着替えて立ち去れ』

「え、でも」

『我の許可を要らぬと申すか』

「そんな事はないです。ありがとうございます。ええと」

『……ミーヌだ。そなたも名を告げぬか』

「フォイユ・エトワールです」

 許可を得たので早速服を脱ぐ。ついでに持ってきたタオルで軽く体を拭いてから、新しい服に手を伸ばし、そこで視線に気が付いた。

「あの、何で見てるんですか」

『用は無いが、興味はある』

「そ、そうですか……」

 残念ながら見せられるような体ではない。貧弱と言われる程には筋肉もぜい肉も無いので、面白みがないどころか病的とまで言われた事があったほどだ。

 なのでさくさく着替えて、タオルで濡れた服を包むようにして持つと、再度ドラゴンに頭を下げてフォイユは出て行く。

 そして戻ったフォイユを、周囲は驚愕の目で迎えた。

「……え、何」

「生きて帰ってくるか、死体になって帰ってくるか、賭けておりましたの」

「やぁーねぇ、ティフの一人勝ちだったわぁ」

「フォイユは絶対大丈夫だって、だから言ったのに!」

「……いや、賭ける内容、他に無かったのか?」

 そもそも賭けるような事だとは思えないが、無事に着替えられたので、まずはそれよりもソファの掃除である。

 雑巾とバケツは隅に追いやられて埃を被っていた。そして見渡す限り、水場らしきものが全く見当たらない。

「あの、ここ、水道が無いんだけど」

「ありませんわよ」

「お水はリュイが出してくれるの!」

「……そ、そうなんだ?」

 とりあえず水気をきっちり拭き取れば少しはマシだろうと、フォイユは雑巾の埃を払ってから拭き掃除を始める。

 隅々まで拭いては絞り、更に床も拭いては絞ると、思いのほか汚れている事が分かった。

「……掃除とか、してないんだな」

「最低限使えればいいのよぉ」

「あとはたまに、皆で一斉にやるの!」

「そうか……」

 ひとまずソファは大丈夫だろう。あとは雑巾を洗いたいが、水道が無いとなれば、どこで調達すればいいのだろうか。

 そこにリュイが戻って来て、ティフがぱっとそちらへ向かった。

「ねえねえねえ、リュイ! フォイユにお水をあげて!」

「また頭からかけてやればいいのか?」

「違う違う! フォイユのお片付けを手伝って欲しいの!」

「断る」

 二人の会話に苦笑を浮かべ、まあそうだろうな、と思いながらフォイユは扉に向かった。さすがに水を捨てる場所くらいはあるはずだろう。

 しかし、水の供給が無いとなると、生活に支障が出てしまうはずだ。彼女たちの力に頼るつもりはなかったが、むしろ頼らないと普通に餓死するのではなかろうか。

「うーん、干渉したくはなかったんだけどな」

 どこで捨てようかと迷っている間に、一階に戻って来た。せめて庭の一つでもあれば、そこの隅にでも捨てられると思うのだが。

 辛うじて見つけたのは、厨房らしき場所の奥にある小さい扉だ。開けてみると、庭のような場所に出る。

 その隅っこに水を捨てた直後、背後から頭を殴られた。

「浄化もしておらぬ水を捨てるでない!! 痴れ者が!!」

 さっきの声だ、と思って振り向くと、そこに居たのはドラゴンではなく可憐な少女。ただし、耳が大きくヒレのように尖っている。

「浄化って……?」

「何じゃ、知らぬのか! 我の属性を無知で汚すとは何たる失態よ! 浄化ならばリュイを頼らぬか!」

 口調からしてミーヌに間違いないらしい。しかし言われた内容は無理があった。

「いや、俺、リュイには特に嫌われてるみたいで……。他に捨てる場所が見当たらなかったんです……」

「それで我の大事な土を汚すと言うか!?」

 苛烈なまでに怒る少女の言い分は分かるが、そうなると八方ふさがりだ。自分が出来る事が何一つない。

「すみません……」

(やっぱり、ここに居る事も無理か……人間向きじゃないし、頼れそうな相手には嫌われてるし……どうしようもないもんな)

「ふん、ならばリュイを呼びつけるまでのことよ! リュイ! 出て来ぬか!」

 邸中に響く怒号は、一体どこから出ているのだろうか。声のみならず気迫まで響いた気がする。

 ややして、不機嫌そうなままのリュイがその場に現れ、ミーヌが叱責を投げつけた。

「そなたのせいで、我の土がこやつに汚されたではないか!」

「殺せばいいじゃないか、これまでみたく」

「そなた、頭を使うのを止めたか? そなたのせい、と我が言うておるのじゃが? その意味が分からぬと申すか?」

「……分かったよ。はい、これでいいかい? ……ところで、また草木が増えたね。ほどほどにしなよ」

 先ほどフォイユが捨てた水の辺りを的確に浄化したらしいリュイに、だがミーヌは不満げで。

「草木はたった今増えたのじゃ。そやつのせいでの。鏡の躾くらいせぬか、馬鹿者」

「何で僕が。こんな屑ほどの価値もない奴なんて、勝手に野垂れ死ねばいい」

「そうか。……まあ、外にも出られないし、それ以外に道が無いっていうのなら、仕方ないのかもな……」

 とりあえず掃除道具を片付けるか、と中に向かって歩き出すと、今度はミーヌが呼び止めた。

「フォイユ・エトワール。おかしな人間が来よったものよ。命乞いするでもない、逃げ出すでもない。さりとて己の役目を果たすつもりもない。そなた、己の人生は他人のものか?」

「……俺の人生は、他人に決められたようなものですね。俺の意思じゃ、どうにもならない事ばかりでした」

「して、ここでもそのつもりでいるか?」

「邪魔にならない程度にひっそり暮らそうかと思ってたんですけど、無理みたいなんでどうしようかなと。まさか水道が無いとは思ってなかったので」

「……その程度で諦めるとは、やっぱり頭がまだ冷えてないらしいな」

「いや、君が協力しないだろうと思ったからだよ。嫌われてるのに頼み込むとか、そんなおこがましい事まで出来ないし」

 他人の力をやすやすと借りれるとは思ってないが、頼み込んだ結果が最悪に終わるかもしれないと思うと、正直言って諦めた方がいいに決まっているではないか。

 フォイユを嫌う相手がフォイユの為にしてくれることなど、ありはしないのだから。

「貴公は、僕を何だと思っているんだ。というか、いい加減にはっきりしてくれ。生き延びたいのか、死にたいのか」

「より可能性が高い方を選ぶよ」

「そうなってからでは選びようがないだろう! 貴公はどこまで馬鹿なんだ!?」

「……人間。フォイユと言うたか。そなたは、何故リュイが怒っているか、理解しておるか?」

「いえ、正直よく分かりません」

 怒っている割に殺さないのは価値が無いからなのだとしても、それ以上に価値が無い相手にここまで怒るなんて、それこそ無駄ではないのかとフォイユは何となく思っていた。

 だから、ミーヌの言葉にぽかんとする。

「そなたが決めたそなたの道を、尊重させてもらえぬからよ」

「へ?」

「死にたくない、じゃなく、生きたい、その為に必要な事を覚えたい、と! 貴公がそう言うだけで、大きくここでの生活が変わる! それなのに、貴公は行き詰まった途端にこれだ! レクシオの力がそんなに忌まわしいか!?」

「いや、別に。便利そうだなとは思うけど」

「じゃあ暴発でも怖れてるのか!」

「それもまあ、無いわけではないけど、君達がレクシオなら対処できそうだし」

「だったら!!」

「――頭を下げ、レクシオの力を貸してもらいたい、と嘆願せよ。そなたが決める事ではあるが、そなたはその考えに行き着かぬのであろう」

 笑いを堪えながら、ミーヌが言う。フォイユはなるほど、と納得した。

 そしてそれを言えと強要しない辺り、リュイなりのプライドがあるのだろう。

 断られるかもしれないが、この場で言わないと話が終わりそうにない。駄目なら元通り、八方ふさがりになるだけだ。

 バケツを置いて、フォイユはリュイに頭を下げる。

「お願いします。ここで生きていく為の力を貸して下さい」

「…………いきなり敬語か。気持ち悪いな。ミーヌ、どうだ?」

「土を汚さねば構わぬわ。それと、我の眠りを妨げなければ、のう」

「貴公はそっちの方が大事だろうからね。フォイユ。貴公がここで過ごすなら、人間として面倒な事は全て、レクシオの力が必要になると思ってくれ」

「……ああ」

「そして、幸いな事に貴公のミロワールとしての力は相当なものだ。一度に複数の魔法を発動する事も可能だろう。使い方さえ覚えれば、特に不便はないはずだ」

「……え、あの、君はそれでいいのか? 俺を一番嫌ってるのに」

「嫌いだが、それとこれとは別だ。貴公は言われた通りにしたといえど、筋を通してこちらに依頼している。僕にとってそれを断るだけのメリットが無い。分かったらいい加減、顔を上げてくれ」

 割り切りのいい性格をしているらしいリュイがそう言い、フォイユは頭を上げてミーヌを見る。

「アドバイスをありがとうございました。……眠ってる時は静かにしますね」

「土を汚せばすぐさま目覚めるでの。ここを次に汚したら、命はないぞ?」

「はい……」

 釘も刺されたので、今後は一人で何とかしよう、というのだけはやめておいた方が良さそうだ。

 ミーヌが目の前で消えたのを見ても、もはや驚く事でもない。さて、とフォイユはバケツと雑巾を持ち直し、改めてリュイに訊いた。

「まずは、この屋敷の仕組みを教えてくれますか?」

「っ……ええい、敬語は気持ち悪いからやめてくれ! 僕はミーヌと違って、そんなものどうでもいいから普通に頼め!!」

「分かった。屋敷について最低限の事をまず教えてくれないか」

 改めて言い直すと、うんざりした顔でリュイは踵を返す。

「ついてこい。いちいち僕が浄化しなくてもいい方法がある」

「そうか、それは良かった」

「子供にしか見えない僕に頭を下げるのがそんなに苦痛か?」

 フォイユの一言一句を悪い方に解釈するらしいリュイに、フォイユは苦笑して否定した。

「いや、君の手を煩わせるのは本意じゃないっていうだけだ。仕事があるんなら、居ない事もあるだろう?」

「……ふん。どうだか」

 広い屋敷の中を歩いていくと、随分奥まった場所に、小さな空間としか言えない部屋があった。

 その中央には、青く光る大きな紋様が床に浮かんでいる。

「ここか?」

「そうだ。ここが浄化のための部屋だ。先に言っておくが、あくまでも物を洗浄する為のものであって、貴公が風呂代わりに使おうなんて思うな」

「そ、そうか。……お風呂って、あるのか? この屋敷に」

「あるぞ。物好きな住人が使うからな」

「……そうなんだ。ちなみにその水ってどこに流れていくんだ? 汚れた水はあの庭に流せないんだろ?」

「貴公は全部教えてもらわないと気が済まないのか? ミーヌは自分のテリトリーであるあの庭だけを守っているのであって、それ以外に流れていく汚れた水なんて、どうでもいいんだよ。だから排水溝は存在するし、下水管もミーヌの庭に影響していない。あの庭にはあくまで、僕が浄化した前提の水だけを入れるんだ」

 うんざりしつつも丁寧に説明してくれるリュイのおかげで、何となく屋敷の水回り事情は分かるようになってきた。

「つまり、さっきのバケツの水も、捨てるところはちゃんとあったって事か」

「そうだ。……それを貴公はいきなり庭に捨てるなんて、一体何を考えているんだ、まったく」

 結果として巻き込んだ感は否めない。ミーヌが寛容でなかったら、今頃どうなっていたのやら。

「とりあえず、そのバケツと雑巾はここで浄化していけ。中央の空間に置くだけでいい。置いたら陣から出ろ」

 言われた通りにバケツと雑巾を置いて元の位置に戻ると、ただの床だった場所から突如、中央だけ水柱が噴き上がり、天井近くまで到達した。

 恐ろしいくらいに澄んだ水の柱の中で、バケツと雑巾が躍っているのが見える。

 徐々に水柱の勢いは弱まっていき、完全に消えた頃には、水分すら消えた状態のバケツと雑巾が転がっていた。

「……これを回収すればいいんだな」

「ああ。一度発動すると、数分間は発動しない仕組みだ。だから、洗いものはまとめてここでやればいい。よほどのものでなければ、簡単には壊さないから」

 効率的なのは間違いなさそうである。今後とも世話になりそうだな、とフォイユは頷いた。

「分かった。水が欲しい場合は、あの水柱からもらえばいいのか?」

「役割が違う。無駄な事を考えるな。水汲み場はこっちだ」

 踵を返して歩き出すリュイのあとを、慌ててバケツと雑巾を回収したフォイユが追いかける。

 ほどなくして辿り着いた廊下の奥に、同じような部屋があった。

 だがこちらは緑の紋様が浮かんでいる。

「そのバケツを中央に置いてみろ」

 言われた通りに置いて陣から出ると、静かに、そしてすごい勢いでバケツの中に水が満たされた。溢れる程ではないが、その塩梅はどうやって決められているのだろう。

「あふれる事は決して無いから安心していい。それから、汚れた水の捨て場所はまた別にある。こっちだ」

 中身を入れたままだが、とりあえず付いて行く事にするフォイユは、よく考えたら汚れた水を捨てる時の予行演習をさせられているのだろうか、と思い直した。それなら納得である。

「一階と二階にそれぞれ、捨てる場所が決められている。今は一階だからそこだけ教えるが、二階は自分で探せ」

「分かった、そうするよ」

「……逆らえとは言わないが、物分かりが良過ぎて気持ちが悪い」

「それは悪いけど、昔からなんだ。ほら、ミロワール持ちの子供なんて誰も世話したくないだろ? 下手に逆らうと食事も抜きだったし、酷い時は物入れに一日中押し込められていたから、物分かり良く従っていた方が無難だったんだよ」

「…………人間はやっぱり愚かだ。数百年経っても、何も変わっていないじゃないか」

 怒っているのか、嘆いているのか、小さな背中からは判断がつかない。あるいは両方なのかもしれないが。

「人間に備わった力なのに、人間はそれを否定したがる。レクシオと共存していた時からずっと、人間はそうして異端な存在を僕らレクシオに押し付けていた。ミロワールを持つ子供の扱いは、何も変化していないんだよ」

「……レクシオと共存していた時も、俺みたいな子供が沢山いたのか?」

 せめて共存時代くらいは優遇されていても良かったのではないか、とさすがにフォイユも眉を寄せる。

 次のドアを開きながら、リュイは棘を隠さずにフォイユへ返した。

「ああ、居たさ。レクシオ相手にミロワール持ちの子供を高値で売りつけ、厄介払いする奴らを大勢見てきた」

 その部屋には紋様はなく、ただ奥に小さな枠組みだけがある。そこが排水溝らしい。

「……そこに捨てればいい。浄化も何もされない水だ。人間達の暮らす街の地下に流れる下水道に繋がっているらしいぞ」

「そうか。……勿体ないけど、これを捨てればいいのか?」

「別に。持って歩きたいならそのままでもいいんじゃないか」

「いや……筋トレは趣味じゃないから、お言葉に甘えるよ……」

 彼女は言いにくい事も、こちらの迷いも、容赦なく突き返す。フォイユは逆にそれがありがたかった。

 人間相手だと、何を言っても駄目な時もあるし、かと言って何も言わずに行動すると、さっきのように怒られる。それも、フォイユ一人の責任としてなので、さっきのよりもよほど酷い。

 分かっていても、ミロワール持ちだから仕方ないのだと、これまでずっと言い聞かせてきた。それしか自分を納得させられる理由が無かったからでもあるが。

「僕の案内はこれで終わりだ。二階の方は自力で覚えるんだな」

「助かったよ、ありがとう。リュイ」

「……礼が素直に言えるとは思わなかった」

 驚くリュイに、フォイユは苦笑を浮かべる。誰かに何かをしてもらって、お礼を言いたくなる事の方が少なかったのは確かだ。

(お礼を『言わされる』方が多かったもんな……実際)

「俺にとって、お礼を強要しない相手の方が珍しいから。……ミロワール持ちの子供は、半分奴隷みたいな扱いだから、何をしても、させられても、必ずこっちがお礼を言わないと……叩かれたんだ」

「貴公はいつまで過去に自分を置いているんだ? ここは貴公の子供時代じゃないだろう。そんなわけのわからない優越感の塊を持った奴らと同一視されるのは不愉快だ」

「……そうか。ごめん」

「謝るくらいなら、余計な事を言うな。……後は勝手にしろ」

 ふいっと消えたリュイに、フォイユは聞こえないと分かっていても、小さく「ごめん」ともう一度だけ謝る。

 とりあえず案内された場所を再確認しながら、二階へ戻る事にした。

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