星の鏡は月の夢を映す

宮原 桃那

1:狭間の迷子

 周囲には割れたガラス破片が散らばり、何人かは怪我をしている。

 ここは地上十階に位置する、とある会社の一室だ。

 その中心付近に呆然と佇んだままのフォイユ・エトワールは、「やっちまったな」と諦観を抱いたまま、凄惨な現場を見渡す。

 誰も彼に近付かない。ついさっきまで親し気に声を掛けてくれていたはずの同僚たちは、今や怯えた顔で壁際に張り付いてこちらを凝視していた。

 これはフォイユがやったわけではないが、フォイユが居たからこうなった、と言われれば否定はできない。

「レクシオの呼び子……」

「ミロワールの暴走……」

「狭間の迷子――エレジー……」

 聞き慣れた差別用語が耳に届く。いつものパターンだ。そしてここにはもう、居られない。

 床に散らかったガラス破片を踏みしだきながら、フォイユは自分の机から手荷物を取ると、入り口へ歩き出した。

 その時、開けようと思った扉が向こうから開かれる。

「ああ、ここだったか」

 入って来たのは、全く見知らぬ青年。若くも見えるが、とても年を取ったようにも見えて、フォイユは目をこすった。

 その手を掴まれて、ぎょっとする。

「ふむ、君だな。よろしい。こちらへ」

 踏みとどまる理由は無いが、フォイユは不安を抱いた。こんな展開は初めてだったからだ。

 そのまま部屋を出て、腕を引かれるままにエレベーターへと連れていかれる。彼が最上階へのボタンを押すのを見て、慌てて問いかけた。

「あ、あの、もしかして……社長、ですか」

「そうだ。だが、その肩書きは今は関係ないと思ってくれ」

「じゃあ、どうして俺を……」

「気が早いな。話とは落ち着いてするものだ」

「そうですか……」

 とりあえず、まずは付いて行くしかないらしい。独身寮の少ない荷物を持って今日から野宿になるので、早めに終わって欲しいのだが。

 程なくしてエレベーターが止まり、扉が開いた。掴まれたままの腕を引かれて、フォイユは奥へと進む。

 重厚なソファに座らされ、その向かいに青年は座り、置いてあるベルを小さく鳴らした。

 ややしてメイドらしき女性がカートを押しながら奥の扉からやってきて、お茶を淹れ、二人の前にそれぞれ置く。

「まずはそれを飲んで落ち着く事だ」

「……は、はい。……いただきます」

 ハーブのような香りのするお茶を一口飲むと、清涼感が体に広がって軽くなる。一体どんな代物だ、と驚いていると、青年は低く笑いをこぼした。

「魔力に馴染みやすい体質ならば、たちどころに回復する特殊な茶葉を使った。……その様子だと、覿面だったな」

「!?」

 平然と何言ってるんだ、とフォイユは目を剥いて青年を見る。このご時世、魔法や魔力などを人間があからさまに推奨・賞賛する行為は避けられている。それらはレクシオに繋がるとして、口にした人間を蔑み、あるいは排除される傾向にあるのだ。

 だが、こんな大会社の社長に面と向かって言える人間はほとんどいないだろう。というより、聞く機会すらあるまい。

「君がこの先どうなるかは、火を見るより明らかだ。まずは会社を、そして独身寮を追い出され、住む家も無く彷徨い、ところどころでミロワールの力をうっかり使い、また居場所を追われ、最後には野垂れ死ぬ」

「…………」

 追い出す側の言葉に、フォイユは言い返せない。例え土下座して頼み込んだところで、人間扱いされない自分に、救いなど今まで無かったのだから。

「しかし、それも今日までの話だ。君の価値は今、これより変わる」

「価値なんて……そんなもの」

 この体質にどれだけ苦労してきたことか。そして、価値どころか不利益しかもたらさない自分を、誰もが厭ってきたというのに。

「私が見出した。あれだけの派手な暴走は滅多にない。君なら、彼女たちの支えになってくれるはずだ」

「……彼女たち……? あの、俺……は、どうなるんですか」

「今日これから、すぐにでも新しい住処を用意しよう。もっとも君に拒否するだけの余裕があるとは思えないが、どうだろうか?」

 足元を見られているな、と思ったものの、行く当てもない今、確かに願ってもない申し出ではある。問題はその裏側に何を企んでいるか、なのだが、目の前の青年はそれらを一切読み取らせようとはしてくれないようだ。

「分かりました。そこへ行きます」

 色々と必死で乗り越えてきたのに、またも失敗したのだ。この先を展望するだけの気力は、とうに失せている。フォイユは二つ返事で頷いた。

「話が早くて助かる。では、早速準備をしようか」

 得体の知れない青年はにこやかに言って立ち上がり、フォイユに手を差し出した。

「……あの?」

 遅れて立ち上がったフォイユは、どういう意図か判断出来ずにその手を見つめるが、青年は「握手だ」と言ってフォイユの手を強引に掴む。一体何なんだ、と思いつつ、フォイユはいつの間にか控えていたメイドに連れられてそこを出た。

 一言も喋らないメイドは、全く別のエレベーターを使ってフォイユの独身寮まで付いて行き、荷物の確認だけを口にすると、続けて別の場所へとそのまま向かう。

 そして突き当たりにぽつんとあるエレベーターで、今度は恐らく最下層まで下りる事になったようだ。

「あの、俺はどこへ行くんですか」

「この先でございます」

「えっと、詳しい場所なんかは」

「お教えする事は、許可されておりませんので」

 にべもないメイドの受け答えに、フォイユは「そうですか」と引き下がるしかなかった。

 やがて着いたエレベーターの扉が開くと、メイドが告げる。

「この先は、お一人でお向かい下さいますよう」

「……ひ、一人で、ですか」

「左様にございます」

「は、はあ……どうも、お世話様でした」

 さっきより薄暗い廊下が続くそこへ踏み出すと、背後の扉が閉まり、エレベーターは昇って行ってしまった。

 出かける時はここから行くんだろうか、と思ってボタンを探したフォイユは――だがしかし、それが無いと知って愕然となる。

「えっ……う、嘘だろ……?」

 一方通行、片道切符のエレベーター。もう引き返す事は不可能だ。

 幸い、進む事だけは出来そうである。フォイユは仕方なく、歩き出す事にした。

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