5-15.最後の人魚

 マリティウムはリリィの首を掴むと、宙に吊るしあげた。掴んでいるのとは逆の左手で己の首から滴る血を拭い取り、長い舌で舐める。


「よくもやってくれたなァ?」

「油断する方が悪い」

「ま、そうだな。てめぇも悪魔ならわかるだろ? アタシ達は勝った方が正しいのさ」


 指に力が入ると、リリィの首が締め上げられる。それでもリリィは強気な表情で相手を見下ろしていた。


「この程度で悪魔は死なないよ」

「だろうなぁ。でも殺さなくても身動き取れなくする方法なんて沢山あるんだよ。形はどうであれ「悪魔を倒した」って皆に思わせりゃいいんだから。シャーケードの死体と一緒に置いておけば、効果も抜群だろ?」

「なんでシャーケードも殺したの?」

「んあ?」


 変なことを聞かれたかのように、マリティウムは首を傾げた。


「邪魔だからだよ。決まってるだろ。アタシは皆に王サマの人魚としてチヤホヤされなきゃいけないんだよ。んで、少しでも長く王座にいる。だからお前さえ倒せば、アタシの目的は達成されるんだよ」


 高笑いを上げたマリティウムだったが、ふと思いついたように笑みを止める。


「あ、そうだ。もしジーラが殺されたらローテムに乗り換えよう。あっちのほうが若いもんな。どうせ人間なんて、アタシの思い通りなんだし」

「……人間を甘く見ると、痛い目に遭うよ」


 それはリリィにしては低めの、落ち着いた声だった。だがマリティウムはその言葉を冗談と受け取り、血のついた指でリリィを指さして笑う。


「悪魔が何言っているんだよ。この国を見ればわかるだろ? 自分で考えることも辞めて、人魚に縋って生きていくしかない馬鹿ばっかりだ。でもそれで幸せなのかもしれないな。何しろ人魚がいれば、この国が過ちを犯すこともないんだし」

「お前に支配されるのが幸せだって言うなら、そんな国はリリィが滅ぼしてあげるよ」

「どうぞ、どうぞ。ご自由に。でもこの国の人間はどう言うかね? これまで国を守ってきてくれた人魚サマに守ってもらうのと、どこから来たかわからない悪魔に滅ぼされるのと。まぁ全員、前者を選ぶだろうよ」

「選ばないよ。少なくともローテムは、その道を選ばない」

「一人が選ばないからって……」


 マリティウムの脳裏に、ジーラが二週間前に言った言葉が蘇る。「この国の全員が是とすることだって、自分が気に入らなければ否と言う」「究極の自分勝手」。


「お前にローテムを支配するのは無理だよ」


 重ねるように言ったリリィを黙らせようと、マリティウムは手に力を込める。しかしその時、二匹の周りを囲む砂塵の一部が急に歪んで、一本の剣がマリティウムの側頭部を目がけて飛来した。

 予想外の攻撃を、マリティウムは体を逸らして避ける。目の前を通り過ぎた剣は、ジーラがいつも腰に提げていた物だった。

 身体を逸らしたことで、リリィを捕まえた手の力が抜ける。リリィはその手に思い切り噛みついて引き剥がすと、マリティウムから距離を取った。二匹の間を剣は瞬く間に通過し、何処かに落ちる音だけが響く。


「今のは……」


 マリティウムが剣の飛んで来た方向を見ると、ローテムが立っていた。その更に向こうではジーラが呆然とした顔をしている。勝敗の結果は誰が見ても明らかだった。


「使えねぇ奴。だから中途半端は嫌いなんだよ」

「お前も中途半端だから仕方ないでしょ」


 揶揄する口調でリリィが言う。その尾鰭は砕けた石の破片を掬い上げていた。尾鰭を屋上に叩きつけると、衝撃波と共に石の破片がマリティウムに降り注ぐ。致命傷にはならないが、マリティウムの視界を遮る役割を十分に果たしていた。


「戦闘中に余所見をしたら、負けだよ」


 小石が目に入ったマリティウムが、反射的に目を閉じる。

 リリィは衝撃波を追いかけるようにして、全身の力を使って宙を蹴った。右手を伸ばし、マリティウムの顔を掴む。それと同時に指の爪が黒く変色して、猛禽類のように鋭く伸びた。

 五つの爪が顔に食い込み、マリティウムが悲鳴を上げる。だがリリィは眉一つ動かさずに指先に力を込めた。


「お前だけは悪魔らしく殺してあげるよ。感謝してね」


 爪が更に伸びて、マリティウムの頭蓋骨まで到達した。リリィは短い息吹一つと共に、思い切り腕を払う。固い物と柔らかい物が千切れる感触が指先から腕へ伝わった。続けて吹き出した血が、リリィの体を濡らす。


「あ……、あぁ……っ!」


 声にならない声を出し、マリティウムはその場に倒れた。落ちたと表現した方が近いような、生命力の感じられない動作だった。

 リリィは指に絡まった、マリティウムだった一部を放り投げる。元の持ち主の体の上に落ちた拍子に、濡れた音が小さく聞こえた。


「リリィ! 大丈夫!?」


 走り寄ってきたローテムが、マリティウムを見て息を飲んだ。


「うわ、えげつない」

「悪魔基準だと生ぬるいぐらいだよ。……マリティウム、まだ聞こえてる?」


 顔と骨を剥がされたマリティウムに、リリィは話しかける。まだ辛うじて息のあることを確認し、無邪気な笑みを浮かべた。


「勝った方が正しいんでしょ? リリィの勝ち!」


 マリティウムの体が大きく痙攣したと思うと、そのまま動かなくなった。剥き出しの内臓も微動だにせず、そこにあるのはただの肉塊に過ぎなかった。


「……終わった?」


 ローテムが尋ねる。それに対して、リリィは首を横に振った。


「これからだよ、ローテム。この国は、まだ始まってすらいないんだから」

「それもそうだね」

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