4-3.ヘンルーダ王子
「やぁ、我が弟よ! 久しぶりすぎて、居たかどうかも忘れかけていたよ!」
大広間に響く少し低い美声。それを放った男は、椅子に腰を下ろして優雅に足を組んでいた。金銀の刺繍で豪奢に飾られた服は、この国でも有名な職人たちが作ったものであり、肩から羽織った真っ白なマントには外国から取り寄せた貴重な糸が使われている。
シャンデリアの光を浴びて輝かんばかりの男は、もう二十代も終えようとしているのに、非常に若々しかった。栗色の髪は女のように腰まで伸ばし、毎日櫛を通して手入れをしているのか、それが一枚のシルクのように見える。ハシバミ色の目は猫のように少し吊り上がっていて、そこにローテムの姿が映っていた。
「聞けば、人魚に毒を盛られたそうだね。ヘルベナが大層心配していたよ。僕の妹にあんな顔をさせるなんて罪な男だね」
大仰に手振りを交えながら、男は右手に持ったワイングラスを傾ける。中に入っているのは外国産の赤ワインであり、庶民には到底手も出せない代物だった。
「何も無理して部屋から出てくることなどなかったのに。随分と酷い顔じゃないか。えーっと……」
「ローテムです」
この兄に名前を名乗るのは何度目だったか考えながら、ローテムは声を絞り出す。リリィが放った会心の一撃は、当初期待した衝撃を遥かに上回っていた。
腹部を押さえ、憔悴した顔で答えるローテムに対して、兄のヘンルーダは相変わらずの自己陶酔の表情で続ける。
「これは済まないね、ローテム。お前の名前をついつい忘れてしまうんだ。お前が僕のように美しく、強く、聡明であれば忘れないのに」
「別に忘れられたままでいいんですけどね」
「何か言ったか」
「何も。兄上がお帰りになるのが見えたので、ご挨拶だけでもと伺った次第です」
第一王子ヘンルーダは、ローテムの存在を平素から忘れている。「第四王子もいる」という事実だけは覚えているが、顔や名前などは記憶していない。
ローテムが人魚を召喚しようと思い立った原因の一つが、このヘンルーダだった。人魚を手に入れれば、会うたびに名乗るという「面倒な作業」から解放されるのではないかと期待をしていた。
ヘンルーダがいっそのこと、第四王子の存在すら忘れていてくれれば、そのような事は思わなかった。ローテムは元々、非常に怠惰な性格である。父や兄への気づかいや敬意も、使わなくて良いなら一切使いたくない。従って、ヘンルーダが存在ごと忘れていてくれれば、部屋で寝ていても何も問題にはならないのに、どういうわけか存在だけはしっかり覚えられている。
よってローテムは面倒でも部屋から出て挨拶をしなければいけなかったし、こうして何度目かわからない名乗りを上げねばならなかった。
「そういえばヘルベナから聞いたよ。人魚を手に入れたそうじゃないか」
「えぇ、つい先日のことですが」
「そこにいる可憐な人魚がそうだね?」
ヘンルーダがワインを持った手で、ローテムの後ろを指し示す。広間の隅に置かれた花瓶から、勝手に百合の花を抜き取って髪飾りにしていたリリィが、その声に顔を上げた。
「えぇ、彼女がリリィです」
「リリィ! 百合の花がこれほど似合う名前もないね。是非とも挨拶をさせてほしい」
褒められていると判断したリリィは、宙に浮かび上がって、尾鰭を動かす。水中にいるかのような動きでヘンルーダの元まで移動すると、その場で一回転して床に着地した。
「初めまして。リリィのことはリリィって呼んでね」
「第一王子のヘンルーダだ。ローテムには勿体ないほどに可愛らしい人魚だね。しかし、僕の人魚も負けてはいないよ」
椅子から立ち上がったヘンルーダは、マントの裾を手で持って、大きく膨らますように翻す。真っ白な布地が波打って、そこに微細な陰影が流れた。
「おいで! 僕の人魚、パピルス!」
「はい、我が王子」
砂糖菓子のような甘い声と共に、ヘンルーダのすぐ隣の空間が歪んだ。まるで水面のように大きな波紋が生まれ、その中央から小麦色の両腕が現れる。腕はその波紋を掻き分けるかのように左右に開き、腕から肩、肩から顔、やがて尾鰭までが完全に外に出た。
肌の色を強調するかのような銀色の鱗が宙に踊り、同じ色の尾鰭が揺れる。丁寧に編み込まれた金茶色の髪には宝石や硝子で出来た髪飾りが並び、それらがシャンデリアの光を反射して輝いていた。
「王子様の命により、パピルス参上しました」
全身が宝石のような人魚は、着飾ることが好きなヘンルーダに相応しい姿をしていた。
派手な化粧を施した顔は、垂れ気味の緑色の瞳を蠱惑的な物にしている。その瞳がゆっくりとヘンルーダに向けられた後に、更に緩慢な動きでローテム達を見た。
「ローテム王子様、ラディアナに毒を盛られたそうですけど、御加減は?」
「もう殆ど良くなったよ」
「そうは見えませんけど。元々の顔色が悪いのでしょうか」
妖艶な話し方をするパピルスは、何処か同情するように笑って眉尻を下げる。そしてそのまま、リリィの方にも視線を向けた。
雨に濡れたのか、前髪が湿り気を帯びている。毛先から垂れる水は身に着けた装飾品の様々な色を吸収しながら床へと落ちていく。
「小さい人魚さん、こんにちは」
「ねぇ、どうしてそんなにキラキラ着飾ってるの?」
「綺麗なものが好きなの。だって我が王子はこんなに美しい」
細い腕をヘンルーダの肩に絡めるようにして、パピルスは妖しく微笑んだ。
「私も同じように美しくありたいの」
「嬉しいことを言うじゃないか、僕の人魚! そう、美しいことはそれだけで全てに勝る! 王族として美しくあることは当然のことだ」
自己陶酔の表情でヘンルーダはグラスを傾ける。ワインで唇を湿らせた後、ふと思い出したように瞬きを数度繰り返した。
「ローテム。人魚が二匹も失われた今、僕らはより一層力を合わせて魔物を倒さなければならない」
「はい、承知しています」
「しかしどういうわけか僕達は、あまり良好な関係とは言えないじゃないか」
嘆くように首を横に振り、ヘンルーダは出てもいない涙を拭う真似をする。
「しかし、ジーラとナルドは元々ウマが合わないようだし、ヘルベナは女だから国の行事以外で言葉を交わすことがない。お前にいたっては面倒くさがって部屋から出てこない」
「このキンキラ王子、意外と鋭いね」
リリィがローテムの耳元で囁く。その珍妙かつ絶妙な仇名に、ローテムは思わず笑いそうになるのを唇を噛んで堪えた。
「そこで僕は兄妹間の交流を深めるために一つの提案をしようと思う」
「帰りの馬車の中で言っていたことですね、我が王子」
パピルスが嬉しそうに言葉を繋げた。
「兄弟で衣装比べをするという」
「は?」
ローテムは思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を抑えた。
「衣装比べ、ですか」
「外交先の国でやっていたんだ。元は五つの小国が合体して出来た国なんだが、それぞれの伝統衣装や風習を寂れさせないために、年に一度国を挙げて衣装比べをするんだよ」
五つの地区で代表を決め、それぞれの民族衣装を元に華美な飾りや刺繍などを競う。投票により優勝した地区の衣装はその年の流行として取り入られるため、地区の威信を賭けた祭となっている。
ヘンルーダが説明した内容に、真っ先に反応したのはリリィだった。
「五人で衣装比べするの?」
「そうだよ、可憐なリリィ。衣装と言うのは自己の内面を表現すると同時に、環境も反映する。ローテムを見てごらん。地味だろう」
「地味だね」
「僕は王族と言うのは自信に満ちていなければならないと思っている。そんな木陰に埋もれて消えるような装いでは、国民からすぐに忘れられてしまう。そうだろう?」
真っ直ぐに見つめられたローテムは、視線を外しながら小さく息を吐いた。
「別に目立たなくていい……」
「そんなことでは駄目だ!」
シャンデリアすら揺らすような大声に、ローテムは肩を跳ねた。ヘンルーダは形の良い眉を寄せて、力強い口調で続ける。
「有事の際に見たことも無い、記憶にもない王族が出てきても国民はその言葉に耳を傾けない。お前に王族としての自覚がないのなら、せめて外見ぐらいは整えなければならない。それが第一王子であり、長子である僕の務めだ!」
「その通りですわ、我が王子」
何やら芝居じみたやりとりを前に、ローテムは「くだらない」と誰にも聞こえない声で呟いた。
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