4-2.魔物と人魚
「あの鏡はね、リリィの国のものなの」
ヘルベナ達が去った後、デザートのマフィンを食べながらリリィが口を開いた。
外の雨は一層強さを増し、窓硝子を容赦なく打ち付けている。その向こうに見える海はいつもよりも波が高く、いつもよりも暗い色をしていた。
「どういうこと?」
「魔界や天界の物が人間界にうっかり出ちゃうことって多いんだよね。あれはその一つみたい」
「そんなもの置いてあって大丈夫なの?」
「平気、へーき。ただの鏡だもん。人間が使っても全然問題ないよ。リリィが人間界のベッドで寝ても問題ないのと一緒」
「でも悪魔が使うものなんだろ?」
不安を滲ませて言うローテムに、リリィは不思議そうな目を向ける。
「なんで悪魔が使うものは嫌なの?」
「だって得体が知れないし。そもそも悪魔って人を惑わす存在だろ? その悪魔が使うものに同じような力がないとは言い切れない」
「得体が知れないのは人魚だって一緒だもん」
もんもん、と意味もなく語尾を繰り返しながらリリィはローテムのベッドの上に浮かび上がる。
「要するに先入観だよ、人間」
「まぁそれは否定しない」
「魔物だから殺していい。人魚だから信じていい。悪魔だから恐ろしい。天使だから怖くない。そんなのぜーんぶ、お前達の価値観であって、絶対じゃない」
「でも僕は人間だし、いちいち魔物や悪魔の気持ちになっていたら、何も出来ないよ」
「そう、その通り。リリィは悪魔だから、お前達の考えなんて知ったことじゃない。天使は嫌いだし、人間は美味しいし、人魚は胡散臭い。それを正すことは誰にも出来ない」
リリィは細い指をローテムに向ける。
「でもお前達ときたら人魚の価値観に毒されてる。自分達で何も考えようとしない」
「そんな言い方はないだろ」
気分を害して言い返したローテムだったが、それは一笑に付された。
「じゃあ聞くけど、人魚がいなくなったらどうやって魔物を退治するつもり? 仮にも王族ならそのぐらい考えてるよね?」
「それは……」
「力を持つ人魚を得たものが王になれる。元の王族としての素質なんか何も考慮されてない。人魚を失った王はどうやって治世を行うの?」
矢継ぎ早に問い詰められると、ローテムはあっという間に言葉を失った。
この国で王族は尊敬されているが、それはあくまで「魔物から民を護ってくれるから」であり、王というよりも人魚に向けられた賛美である。
仮に人魚が戦えなくなった時に魔物を倒すすべなど、誰も考えてはいない。人魚が退治してくれることは当たり前のことで、誰もそれに疑問を唱えたことがなかった。
「人魚がいなかったら、王族なんて何も出来ない木偶の坊だよ」
「……税金とか徴兵とか、治世に関することはちゃんと出来ていると思うけど」
「それ、誰が決めてるの?」
リリィは疑問符をつけながらも、答えを待つことはしなかった。小さな唇の端を吊り上げ、意地の悪い口調で続ける。
「シャーケードが決めてるんでしょ」
「た、確かにシャーケードは……いや、歴代の王の人魚は政治への助言を出来る立場にあるよ。リリィは人魚がその特権を利用してるって言いたいの?」
「言いたいの。人魚がなんでも決めて、人間に崇められて、好き勝手やってる。人間の意志なんて何処にもない、面白くってつまらない国」
淡々と感想を述べながら、リリィはその場で一回転する。大きく振るった尾鰭がベッドの天蓋を掠めて、少しだけ埃を撒き散らした。
それに文句を言おうとしたローテムだったが、宙にぶら下がるように逆さになったリリィに顔を覗き込まれ、言葉を飲み込む。
「この国を人魚の思い通りにさせていいの?」
「今のところ上手く行ってるなら、僕が手を出さなくてもいいと思うよ。現に誰も困ってないんだし」
「他種族に操られているような状況を「上手く行ってる」って言えるのは凄いね。リリィには全く理解出来ないよ」
「どうせ僕には何の力もない。シタンのこともラディアナの事も、リリィが全部やったことじゃないか」
投げやりに言った途端に、胃の辺りが忘れかけていた痛みを訴える。ローテムは両手で胃を押さえながらため息をついた。
「大体、良いも悪いもないだろ? 僕の心臓と人生のためには、人魚に死んでもらうしかないんだから」
罪悪感も躊躇いもなく言い切ったローテムに、リリィは大仰に肩を竦めながら身体を反転して元の位置に戻った。
「お前のそういうところは嫌いじゃないけどね。もう少しやる気に満ちてくれると助かるな」
「やる気?」
「前も言ったけど、リリィは怪我の治療のために、お前から生命力を貰ってるの。生命力が強ければ強いほど、怪我が治るのも早くなるんだよ。それがお前の生命力はものすごーくやる気がないから全然効かない」
怠惰な性格や思考は兎に角として、生命力にまで苦情を申し立てられるのは、ローテムは少々釈然としなかった。だがどうすれば生命力の性質を変えられるのかもわからないし、依然として胃も痛いので黙り込む。
一方のリリィは、言いたいことを全て言い終えたので満足そうにベッドから移動する。バルコニーへ続く大きな窓へ近づき、両手を硝子について外に視線を向けた。いくつもの雨が硝子に衝突し、水滴と化して落ちていく。濡れた硝子は冷たくなっていたが、常に体温の低いリリィにとっては心地の良い温度だった。
「雨ザーザー♪」
「話は戻るんだけどさ」
「何ー? リリィ、雨見るのに忙しいんだけど」
「そんな多忙は聞いたことないよ。魔界の鏡のことだけど、どうしてヘルベナの部屋に置いたままなの?」
リリィの性格からして、ローテムの部屋のインテリアに鏡が合わないとしても、それで諦めるようなことはない。ローテムの部屋を勝手に模様替えするか、あるいは鏡の方を加工して持ち込むに違いなかった。
その問いに対し、リリィは窓の外を見たまま「大したことじゃないよ」と返す。
「お城の中を動き回るのに、口実が欲しかっただけ。ずっとお前といるのも飽きるし」
「動き回るって、どうして?」
「他の人魚と何かあった時に、城の構造を知っていたほうが有利でしょ」
「……意外と真面目だよね、リリィって」
「リリィは負けるのが嫌いなの。……あ、雷!」
空を走る稲妻を見て、リリィが歓声を上げた。曇天を割る様な光が地上を照らす。それに伴って更に雨が激しさを増した。
「わーい、綺麗だな。このお城に雷落としてもいい?」
「駄目だよ……。そんなこと出来るの?」
「そんなに上手ではないけど、出来るよ。リリィ、魔族としての一般教養は持ってるもん」
「嫌な一般教養だね」
一般の概念が大きく異なるので当然と言えば当然だが、あくまで普通の人間であるローテムには理解が及ばない。
「あれれ?」
リリィがふと声を上げて、窓に頬を付けた。
「浜辺に人が沢山来たよ。黒い服着て白い大きな箱持ってる」
「……あぁ、流行り病で死んだ人の葬儀だよ」
ベッドから降りたローテムは、リリィの傍に近づいて窓の外を見た。魔物が現れる浜辺で、黒装束の人々が大きな棺を持っている。棺は鎖で固く封じられていた。
「この国には流行り病で死ぬ人が結構多くてね。それで死んだ人は、あぁやって海に流すんだ」
「どうして?」
「海の王様に浄化してもらうためだよ。流行り病は魔物の呪いと言われているんだ」
「お前の母親も流行り病で亡くなったって言ってたね。海に送ったの?」
ローテムは少し目を細めて、海の彼方を見た。
脳裏に幼い頃の記憶が蘇る。
厳重に封印された棺を抱えた大人たち。一様に押し黙り、砂浜に足跡を刻みながら海へと進んでいく。母様をどうするの、と泣きながら縋るローテムを家臣たちが押しとどめ、最後の別れを促す。
「うん。海に流したよ」
母親が流行り病にかかってから死ぬまでは、一ヶ月もかからなかった。ローテムは部屋に入ることを禁じられた。
「流行り病は別名「火傷病」とも呼ばれている。高熱が出て、全身が火傷したように膨れ上がって、水も飲めなくなって死んでいくんだ」
「治せないの?」
「今のところ、治療法はない。熱が数日で引く人と引かない人がいるんだ。引かなかったら、もう助からない」
「火傷病」に国民は皆怯えている。それが魔物の呪いであると言われるからこそ、皆人魚に自分達の希望を託している。人魚が魔物を全て駆逐すれば、この病気の恐怖から逃れられると、口に出さずとも全員がそう祈っていた。
「どんな富豪でも王族でも、心が美しくても醜くても、あの病にかかれば皆一緒だよ。どんなに足掻いても無駄なんだ」
「お前が怠惰なのって、そのあたりの感傷が原因?」
「生まれつきだと思うけどなぁ」
小首を傾げるリリィにローテムはのんびりと返す。
「僕は別に感受性が豊かなほうじゃないし」
「まぁそれはリリィにもわかるけど。ヘルベナの事と言い、お前って鈍感だよね」
「おおらかと言ってよ」
「絶対違う。お前は怠け者の鈍感王子だよ」
リリィはそう言うと、再び宙に浮かび上がる。黒い鱗の表面に、外の雷が反射して銀色に光っていた。
「働き者の可愛いリリィちゃんは、お散歩行きたいんだけど」
「勝手に行けばいいじゃないか。僕はもうひと眠りする」
「一緒に行こうよー」
「嫌だ。面倒くさい」
「だって、あれお前の兄弟じゃないの?」
リリィが窓の外を指さす。雷雨の中をゆっくりと進むのは、王家の紋章を付けた青い馬車だった。馬を操る御者は憂鬱そうに顔を伏せている。鞭の先の馬も似たような表情で足取りは重い。
ローテムはその馬たちを見ると、「まずい」と一言呟いた。
「一番厄介な人が帰ってきた」
「厄介?」
「第一王子、ヘンルーダ。挨拶に行かないと煩いから、顔だけ出してくるか」
「お腹痛いのに?」
「動けないほどじゃないし、無理して出てきましたって感じを出した方が、僕の印象も良くなる」
ローテムは窓辺から離れると、執事を呼ぶために壁に取り付けられた呼び鈴を大きく鳴らした。
「どんな王子様?」
「……僕とは逆かなぁ」
「働き者ってこと?」
「いや、そうじゃなくて。自分が大好きってことだよ」
大欠伸をしながらローテムが言った言葉に、リリィは驚いた表情を浮かべた。
「お前は自分が好きじゃないの?」
「逆に聞くけど、好きになる要素ある?」
「無いけど」
「でしょ?」
「自分を好きじゃないなんて変なの。リリィはリリィのこと大好きだよ。こんなに可愛くて強くて働き者の悪魔、いないんだから」
自画自賛も甚だしいが、リリィは自信満々に言い切る。
実際、リリィは魔界でも可愛がられて育ってきたし、能力も認められていた。首斬り伯爵の令嬢として持て囃され、称賛されるのが当たり前だったリリィに、ローテムの心情は全く理解出来ない。
ローテムはと言えば、そんなリリィを見ても何も思わなかった。その眩いほどの自尊心に目がくらむこともなければ、羨望することもない。自分を好きになりたいと思ったこともなければ、今後そうなる予定もないためだった。
「そう思うよね?」
「そうだね。リリィは可愛いよ」
半分義務のような調子で放たれたローテムの言葉にも、リリィは顔を輝かせて尾鰭を左右に振る。
「うん、リリィ可愛い!」
「そんな可愛いリリィにお願いがあるんだけど」
「何?」
「僕の腹を一発殴ってくれないかな」
唐突すぎる言葉に、リリィは大きな目を見開いて口を小さく開いたまま固まる。
「え、どうして?」
「いや、なんか話しているうちに腹の調子が良くなってきたみたいなんだ」
「良かったね?」
「僕が臥せっていることは、ヘルベナあたりが兄上に伝えるだろう。そこに出て行くんだから、見た目からして衰弱していないと、まるで回復したのにサボって寝ていたように見える」
「サボって寝ようとしてたよね?」
「だから腹を殴って貰えば、程よく衰弱出来る」
リリィは呆れたようにローテムを見て、短い溜息を数回連続して吐き出した。
「お前、王族でよかったね。庶民だったら野垂れ死にしてるよ」
「だから王族の特権を余すところなく使ってるんじゃないか」
「こんなのが王族で、国民が可哀想」
悪魔らしからぬ同情を口にしつつ、リリィは小さな手を握り込む。そして息吹一つと共に、大きく振りかぶった。
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