ep4.動かないおわり

4-1.王子の休息

 雨の音で目を覚ましたローテムは、何か非常に冷たいものが額にのっているのに気付いた。

 平たくて、質量があって、しかし表面はなめらかではなく微妙に起伏がある。ローテムはまだ微妙に覚醒していない頭で、それが何であるか考えた後、右手でそれを摘み上げた。


「何の真似?」

「人間は具合が悪いと頭を冷やすんでしょ?」

「それは熱がある時ね。僕は熱はない。ただ非常に胃が痛いだけで」

「大変だね」


 ベッドの枕元に座っていたリリィは、ローテムの額の上から自分の尾鰭を退かす。


「大変だね。じゃないよ。誰のせいでこうなったと思ってるんだよ」

「ラディアナのせい」

「それは対外的な話だろ。実際に毒を盛ったのはリリィじゃないか」


 三日前、リリィは別の人魚を陥れるためにローテムに軽量の毒を飲ませた。勿論、死なない程度の量にしていたし、実際にローテムが被った被害は嘔吐と腹痛程度である。だがその二つのせいで碌な食事が摂れないローテムは、数日経った現在も自室から出れずにいた。


「心臓を取られるよりマシでしょ。それとも毒殺されたかった?」

「勘弁してよ。……まぁ堂々と公務をサボれるのはいいんだけどさ」


 怠惰が服を着て歩いているかのような王子の弁に、リリィは呆れたような表情を浮かべる。大概身勝手で自由奔放な悪魔でも、この怠惰ぶりにはついていけない。


「まぁ、喉の方も回復してきたし、今日一日はゴロゴロしてるかな。リリィは退屈じゃないの?」

「リリィ、色んな人に遊んで貰ってるから大丈夫。それにお前の部屋の本、結構面白いし」


 ベッドのサイドテーブルには、リリィが本棚から勝手に抜き出してきた本が山積みになっている。子供向けの絵本から、小難しい歴史書まで、その範囲は様々だった。


「字が読めない振りしてたくせに、そんなの読んでたら疑われるよ」

「外では読んでないもん」


 リリィは本の山から絵本を一冊抜き出し、それを手にしたまま宙に浮かぶ。色鮮やかな表紙には、虹色の鱗を持つ人魚が描かれていた。


「この国には人魚のお話が多いね」

「一番なじみ深いからね」

「でもどれも陸の上に来た人魚のお話ばっかり。海にいる人魚の話はない」


 ページをめくりながら言うリリィに、ローテムはベッドの上に起き上がりながら視線を向ける。


「ラディアナは海に逃げなかったって聞いたけど、それに関係あるのかな?」

「理由を聞いたら、リリィが人魚じゃないってわかったみたいだから、多分他の人魚もそうだろうね」

「海に入れない……。契約の問題かもしれないな。もしかしたら人魚は契約した時点で海に入れなくなっているのかもしれない」


 その仮説に、リリィは尾鰭で宙をかき混ぜるような仕草をしながら考え込んだ。絵本を手慰みに開いては閉じることを、何度か繰り返した後に口を開く。


「……元から海に入れないとしたら?」

「えぇ……。それはないでしょ。だって人魚は海から来るんだよ」

「じゃあどうして召喚しなきゃいけないの。海からそのまま這い出てくればいいのに」

「それは歩き回れないから……」


 幼い頃から聞かされてきた人魚の生態を口にしかけたローテムだったが、違和感を覚えて口を閉ざす。

 もし人魚の目的が地上で動き回ることだけならば、わざわざ召喚するよりも海の表面に顔を出して、王族を呼んだほうが早い。それに効率的でもある。


 そして人魚を呼び出すのには適性が必要だと言われるが、その適性が具体的にどんなものであるかは、どこにも明記されていない。あるのはただ「人魚を呼び出せた者の中から王位継承者が決まる」ということだけである。


「リリィは前に王族を「寄生するのに都合が良い」って言ってたよね。それが人魚に対する適性ってこと?」

「多分。まぁあいつらに聞くわけにもいかないから推論だけどね」


 ふとそこで、リリィは口を閉ざす。そして絵本を抱えたまま宙で反転すると、部屋の出入り口の方に顔を向けた。


「お前の可愛い妹が来たよ」

「また? もう来なくていいって言ってるのに」


 廊下を歩いてくる音が近づいてくる。一緒に聞こえるのは、食事を載せたワゴンの音だった。乗せているものが軽いのか、妙に車輪の音ばかりが響いている。

 やがてローテムの部屋の扉が開かれると、そこには白いドレスを身に纏った異母妹が立っていた。


「お兄様、おはようございます。お身体の調子はいかがでしょう?」

「もう大分いいよ」

「それは良いことですわ。食事の用意をさせましたの。お食べになりますか?」


 後ろからワゴンを押して入ってきた二人のメイドは、恭しく礼をする。ローテムはそれを一瞥してから、妹であるヘルベナに視線を戻した。


「なんで毎日此処に来るんだ? 公務も忙しいんでしょ?」

「えぇ、お兄様と違って。ですが、私の人魚のためにお兄様が倒れたのも事実。お世話をするのが務めでしょう」

「放っておいてくれたほうがいいんだけどなぁ」


 溜息をつくローテムの頭上を、リリィがゆっくりと通過していく。目的はワゴンの上に乗っている数々の食事だった。

 まだ本調子ではないローテムのために、肉や魚などは除外されている。パンとサラダ、スープなどの消化に良さそうなものが並ぶ中で、リリィの目は果物籠に釘付けとなっていた。


「果物ー」

「リリィさんのために美味しそうなものを揃えさせましたの。お兄様が食欲がないということでしたら、このまま戻りますが」

「それって、僕に断るなって言ってるよね」


 ヘルベナは笑ったまま答えない。だがその後ろで、尻尾を仔犬のように振っている悪魔は、ローテムが断ることなど一切想像していないようだった。


「……食べるよ」


 断ったら後で何をされるかわからないので、ローテムは渋々と承諾する。それを待っていたかのように、リリィは果物籠に手を伸ばして、林檎を掴んだ。


「リリィさんは本当に果物が好きなのね」

「大好き。この国の果物はとっても美味しいね」

「それは光栄だわ。でも飛びながら食べると、絨毯が汚れてしまうから、椅子に座ったほうがいいわよ」


 リリィは言われた通りに、ベッドの横の椅子へ腰かける。それは本来は見舞客のために用意されていたもので、ヘルベナが使う予定であったが、誰もその行動に文句は言わなかった。


「お兄様はパンにつけるジャムは何が良いですか?」

「何でもいい」


 面倒くさい、とついでに付け足したローテムだったが、ヘルベナは聞こえぬふりをして、苺のジャムを用意するようにメイドに言いつけた。

 その様子を見て、ローテムは溜息を吐きながら首を左右に振る。


「変わったね、ヘルベナ」

「そうですか?」

「今までは、誰かが何かしてくれるのを待ってるだけだったのに」

「それは小さい頃の話です」


 ヘルベナは形の良い眉を吊り上げて、不満そうな表情を見せた。


「それと、ラディアナがいた間だけですわ」

「何だよ、それ」

「ラディアナを手に入れたことで、少々傲慢になっていたのかもしれませんわ。成長するにつれて抑制されていたものが、一気に噴出しましたの。最初に人魚を手に入れたから、お父様は褒めて下さったし、上のお兄様達も称賛してくれた。それで、きっと勘違いをしてしまったのです」


 ベッドの上に簡略式のテーブルが用意され、その上に次々と朝食が並べられていく。ヘルベナはそれを油断なく見守りながら話を続けた。


「幼い頃のように、我儘に振る舞っても誰も文句は言わない。だって私は王位継承候補だから。そう思ってしまったのでしょう。今思えば、恥ずかしいことです」


 自己嫌悪を滲ませながら話すヘルベナの様子を見て、ローテムはそれが嘘ではないと察した。

 ヘルベナが今まで、他者に察してもらうことで快適に生きてこれたのは、自分が思ったことや感じたことを態度で示せたからである。周囲に察してもらうことが、ヘルベナにとっては大事なことであり、それを隠すことには慣れていない。


「まぁ、僕にはどうでもいいことだけど」


 ローテムは正直な感想を述べて、用意の終わったテーブルに向き直る。湯気の立ったスープの香りが、嗅覚を緩く刺激した。

 ロールパンを手に取り、それに苺のジャムを塗る。王族らしからぬ大口で食いつくと、苺の酸味が舌を満たした。


「そうですわね。お兄様だけは変わりませんでした」


 ヘルベナは反省の表情を一転させ、今度は責めるような目でローテムを見やる。


「お兄様はいつもそうです。私が何をしても、何を言っても、面倒そうにしているだけ。昔はもう少し遊んで下さったのに」

「それこそ小さい頃の話じゃないか。大体、先に僕を邪険にしたのはそっちだろう」

「別に邪険になんてしていませんわ。あれは……」


 何故か言い淀んでしまったヘルベナの代わりに、リリィが林檎を齧りながら口を挟む。


「お姫様はローテムと仲良くしたいんだよ。どうしてそのあたりがわかんないのかなぁ?」

「そんなわけ……」


 ないだろう、と言いかけたローテムは顔を真っ赤にしているヘルベナを見て絶句する。苺ジャムよりも一層赤い頬を押さえている様子は、実年齢相応の仕草に見えた。


「……えーっと、ヘルベナ? どうしたの?」

「な、なんでもありませんわ!」

「何でもないって顔じゃないけど」


 ローテムは今言われた言葉を、パンを咀嚼する動きに合わせながら反芻する。柔らかくなったパンを飲み込むと同時に、非常に単純な感想がその口から零れ落ちた。


「じゃあヘルベナは僕のこと嫌いじゃないんだね」

「いつ嫌いなんて言いました? そういうところが嫌いです!」

「今言ったよ」

「言葉のあやです!」


 何やら立腹したらしいヘルベナは、眉間に皺を寄せて顔を背けた。しかし、ふと思い出したように瞬きをすると、リリィの方へ振り返る。色々な方向に首が向く様子は、振り子人形に似ていた。


「リリィさん、お部屋のことですが好きな時に使っていただいて構いませんわ」

「本当?」

「えぇ。早朝や深夜などは遠慮していただければ、なお結構です」

「わーい、嬉しいな。あのお部屋大好き」


 無邪気に喜んでいるリリィを見て、ローテムは首を傾げる。どうやら寝込んでいる間に何かがあったようだが、一切の報告を受けていなかった。


「あのね」


 不思議そうにしているローテムに気付いたリリィが、弾んだ声を出す。


「リリィ、ヘルベナの部屋の鏡が気に入ったからお化粧するのに使わせて、って頼んだの」

「お兄様のお部屋に持っていくと言ったのですけど、リリィさんが私の部屋を気に入ったと言うので」


 満更でもない様子でヘルベナが説明をする。


「鏡……? あぁ、悪魔が近寄らないって曰く付きの」

「えぇ。私には無用のものですし、リリィさんが遊びに来る口実になるのでしたら願ったりかなったりです」

「まぁ、ヘルベナがいいならいいけど……」


 ローテムがリリィを見ると、可愛らしい仕草で人差し指を口元に当てて「シーッ」と返された。鏡についてこれ以上話すなという意味だと理解したローテムは、大人しく食事へと意識を戻す。

 リリィが何をしようと興味もないし、止めることなど無理だとわかっていた。

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