ep3.動き出すはじまり

3-1.紅茶の朝

 気持ちの良い朝だった。城のバルコニーから見下ろす海は、朝日に照らされて金色に輝いている。潮風の匂いも決して不快なものではなく、いつもよりも爽やかだった。

 自室のバルコニーから海を見つめていたローテムは、手に持った華奢なカップを口に運ぶ。上品な味の紅茶は、いつもローテムの心を和ませる。健やかなる時も、病める時も、悪魔が首に絡みついている時も。


「リリィにも紅茶ー」


 首に冷たい両腕を回して、リリィが幼い声を出す。子供が親に飴玉でもねだるような口調に、ローテムは溜息をついた。


「これ、苦い紅茶だよ」

「大丈夫。リリィはお前の何十倍も長く生きてるオトナだもん」

「いや、なんか僕の勘だと、リリィには飲めないと思う」


 そう言われたリリィは頬を膨らませる。腰から上は幼い少女、腰から下は黒い人魚、しかしその実態は悪魔である。

 一ヶ月前に召喚してから毎日一緒に暮らしているものの、ローテムは日々振り回されている状態だった。


 見た目は可愛らしいリリィが「ローテムがお菓子をくれないの」と言えば、城の使用人たちはこぞって菓子を与え、そしてローテムに「忠言」をする。

 リリィの欲しがる「お菓子」がヤギの目玉であることを、ローテムは何度口に出しかけたかわからない。


「やだ、紅茶欲しい」

「わかったよ……。苦くても文句言わないでね」

「リリィは誇り高き伯爵令嬢だよ。そんなことしないもん」


 自信たっぷりに言うリリィに対し、ローテムは「はいはい」と適当に返事を返しながら紅茶のティーポットを手に取る。

 人魚に因んで、貝や魚が描かれたものは、この国以外では見ることが少ないデザインだった。


 同じ柄のティーカップに、紅茶を注ぎ、色を確認する。濃く淹れるのはローテムの好みであるが、海からの潮風が入り込んだ口の中を漱ぐ役目も担っていた。


「はい、どうぞ」

「わーい」


 リリィは無邪気な声を出すと、ローテムの向かいの椅子に腰を下ろす。黒い尾鰭がバルコニーの床について、濡れた音を出した。

 体つきも小さなリリィは、椅子に座ってしまうと体の殆どが隠れてしまう。両腕を伸ばしてティーカップを取る姿は、幼い子供が背伸びして貴婦人の真似事をしているようでもあった。


「お砂糖入れなくていいの?」


 ローテムが尋ねると、リリィは何か言おうとした。しかしそれを途中で辞めてしまうと、首を左右に振る。


「要らない。リリィはオトナだから」

「熱いから冷まして飲んだ方がいいと思うよ」

「人間の分際で、リリィに指図しないでくれる?」


 高慢な口調で言ってから、リリィは勢いよく一口目を飲む。しかしローテムの想像通り、直後に悲鳴が上がった。


「熱い!」

「ほら、言ったじゃないか」

「苦……苦くない。大人の味。ほろ苦い」

「必死だなぁ」


 涙目になりながらも、リリィは虚勢を張る。飲めると言ってしまった手前、それを覆すことは自尊心が許さない。だが、それ以上に苦くて飲めない。

 可愛らしい葛藤をしている悪魔を見て、ローテムは溜息をついた。


「リリィ、紅茶占いって知ってる?」

「占い?」

「うん」


 ローテムはレモンの載った皿を自分の方に引き寄せ、薄い輪切りを一枚紅茶の上に浮かべた。


「これに砂糖を乗せていくんだ。レモンがひっくり返ったり、沈んだりするまでに、何回砂糖を乗せられるかで運勢が決まるらしいよ」

「リリィもやる!」


 中身が幼いリリィは、占いにも年頃の少女と同じほどの興味を持っていた。

 早速レモンを紅茶に浮かべて、砂糖壺に匙を差し込んで中身を掬いあげる。


「回数が多い方がいいの?」

「そう言われてるよ」


 砂糖がレモンの上に載せられる。少しバランスを崩したものの、レモンは水面に浮かんだままだった。

 リリィは面白そうに、次々に砂糖をかけていく。小さな匙で五回目の砂糖を積み上げた時、とうとうレモンは重さに負けて紅茶の中に沈んでしまった。


「……むぅ。五回だった」

「まぁ、いい数字なんじゃないかな。八回以上は超幸運、五回以上は幸運らしいから」

「じゃあ今日のリリィは幸運だね」


 砂糖とレモンが入った紅茶を、リリィは上機嫌で飲む。甘くなった液体は、リリィの舌を刺激することなく、胃の中へ入っていった。


「美味しい?」


 ローテムが尋ねると、リリィは何度も頷いた。


「この占いは気に入ったから、今後も積極的にやる」

「そう」


 相槌を打つローテムに対して、悪魔は少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめながら釘を刺した。


「……別に、紅茶にお砂糖入れたいからじゃないからね」

「はいはい」

「リリィ、オトナだからね」

「わかってるよ」

「お前よりずーっとずーっとオトナだから」


 砂糖たっぷりの紅茶を飲みながら反論する様は、やはり子供にしか見えず、ローテムの微笑を誘う。

 悪魔であるリリィを人魚だと偽り続けて随分と経ったが、今のところそれに気付いている者はいない。そもそも、この国では人魚や魔物は身近な存在であるものの、悪魔は文献の中でのみ登場する存在だった。

 そのため、実物を見ることもなければ、知識も殆どない。仮にリリィが自らを悪魔だと暴露しても、それを信じる者はいないと思われた。


「ローテム王子様」


 部屋の外から声がかかる。ローテムが入るように言うと、背の高い執事が姿を現した。

 白を基調とした執事服を身に纏った男は、三十歳ほどの年齢を隠すかのように銀縁の眼鏡をかけている。短く切った栗色の髪は脂っ気がないものの、丁寧に櫛が通っていた。


「どうしたの? 紅茶のお代わりは要らないよ」

「いいえ、そうではございません。お知らせに上がりました次第です」


 執事は恭しく礼をしてから、涼しい口調で言った。


「ヘルベナ様がお帰りになり、是非ともリリィ様とお会いしたいとのことです」

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