1-5.リリィの好きなもの
足音も立てずに静かに歩いてきたのは、ナルドと同じ年頃の男だった。髪と目の色はナルドと一緒だが、顔立ちは殆ど似ていない。
切れ長の瞳に通った鼻筋、整った輪郭は涼し気で、しかし口元の黒子が愛嬌を出すのに一役買っていた。
「第二王子のジーラと、その人魚のマリティウムだよ」
「人魚いないよ?」
左右を見回すリリィに、ローテムは天井を指さして視線を導いた。天井に殆ど張り付くようにして宙を泳いでいる人魚が見える。群青色の鱗は海の色のように深い。大きな尾鰭の左右から、細長い鰭が二つ生えていて、それが泳ぐのに合わせて揺らめくのが特徴的だった。
「綺麗な尻尾」
リリィが明るい声を出すと、人魚がその声に気付いて降りて来た。艶のある黒髪を少年のように短く切り、両耳を飾る沢山のピアスがその間から覗いている。
灰色の瞳を何度か瞬かせた後、その人魚は疑問符を上げた。
「何だ、この人魚? まだ子供じゃん」
「それ子供なのか? 小さいだけじゃなくて?」
ジーラはリリィの顔を覗き込んだと思うと、胸元に目を落とした。他の人魚達に比べて未発達なのを確認すると、大きく頷く。
「子供だな」
「おい、ジーラ。そういう下品な行動はアタシの前ではやめてくれ」
マリティウムは尾鰭を振って、ジーラを小突いた。その力に負けて、体格の良い王子が数歩よろめく。マリティウムは怪力の持ち主で、海岸の大きな岩を持ち上げて魔物を潰したことは、国の全員が知っていることである。
「そんなことを言われても、俺には人魚の年齢の判別なんか出来ないよ。ローテム、それがお前の人魚か? 随分可愛いじゃないか」
可愛い、という言葉を聞き逃さずにリリィは嬉しそうな声を出した。
「リリィね、リリィって言うの!」
「へぇ。可愛いな、こいつ」
男のような喋り方をするマリティウムは、その言葉遣いに見合う無作法さでリリィの頭を撫でまわす。髪型が崩れてしまったが、リリィはそれよりも褒めて貰ったのが嬉しいと言わんばかりに尻尾を振っていた。
「ねぇねぇ、なんで天井のほう泳いでたの?」
「あぁ、アタシは尾鰭がちょっと長いから、普通に泳いでるとジーラの顔とか照明とかに尻尾が当たるんだよ。痛いわけじゃないけど泳ぎにくくなるから、普段は天井近くを泳いでるんだ」
「リリィも大きい尻尾がいいな。小さいんだもん」
「そうかぁ? そのぐらいが使いやすいだろ」
二匹が仲良く話をしているのを見て、ジーラは満足そうに頷く。
「やっぱり人魚同士は仲良くないとな。誰が王になろうとも、人魚の力はあればあるほど良い」
「僕もそう思います」
ローテムが同意すると、ジーラが快活な笑い声を上げた。
「ローテムにも人魚が来たことだし、当面は王位継承のことは忘れて、魔物の退治に勤しもうじゃないか。何しろ最近は魔物の数も増えていて、俺とナルドだけじゃ骨が折れる。王位継承も大事だが、何より王族とは魔物退治のためにいるんだからな」
「はい、兄様」
王族として自分も数えられたことで、ローテムは嬉々とした声で答えた。第二王子のジーラは兄達の中では最も馴染みやすい。王族らしからぬ言動で庶民から人気があり、偶に町に行けば女子供達から熱烈な歓迎を受ける。
気位の高いナルドとは年子であり、小さい頃はよく似た顔立ちであったが、大人になるにつれて差異が出て来た。今では二人を間違える者はいない。
「なぁなぁ、ジーラ」
リリィを愛でていたマリティウムが興奮気味の声を出す。
「こいつ、ちっちゃくて可愛い。飼ってもいいか?」
「気持ちはわかるが、ローテムのだから返してやれ」
「えー。アタシ、小さい生き物大好きなんだよ。ほら、海には大きいのしかいなかったから」
「小さいのだっていたと思うぞ。気付かなかっただけで」
ジーラに離すように促された人魚は、渋々と抱きしめていたリリィを解放する。すっかり乱れた髪型のままでローテムのところに戻ってきたリリィは、何故だか複雑な表情をしていた。
「あれ……、どうしたの?」
「リリィ、子供だから」
自分の胸を見て溜息をつくリリィを見て、ローテムは思わず噴き出した。男勝りなマリティウムも、高慢なシタンも、立派に発育した身体を持っている。それに比べるとリリィは非常に平坦な体つきだった。
「そのうち大きくなるんじゃないかな」
「お前の心臓食べたら大きくなるかも」
「それはやめて」
小声でそんな会話を交わしてから、ローテムはジーラに向き直った。
「兄上、リリィを休ませたいので失礼します」
「ん? そうか。疲れているのに悪かったな」
ローテムは会釈をして、兄から離れた。ジーラとマリティウムは小声で何か話しながら逆の方向へ去って行く。
暫く歩いた先で、リリィが後ろから問いかけた。
「さっきの王様の話だと、王位継承権を持つのは、あと二人いるんだよね?」
「うん。その二人は今は城にいないけど、すぐに会うことになると思うよ」
「ふーん」
リリィは興味なさそうに相槌を打ったが、ふと思い直したように口調を弾ませる。
「さっきの人魚は好き」
「随分可愛がられてたからね」
「リリィはね、綺麗で優しいのが好きなの。頭撫でてくれたシャーケードとマリティウムは優しくて良い人魚。だからね」
リリィがローテムの両肩に手をかけて、頭上を乗り越えて顔を覗き込んだ。解けた銀色の髪が垂れ、影となった顔の中で赤い瞳が光っている。
小さな口唇が揺れるように開いて、落ち着いた声を放った。
「――殺すにしても後回しにしてあげる」
一瞬、どこからともなく風が吹いて廊下の照明を揺らした。
ローテムは何を言えば良いのかわからずに立ちすくむ。相変わらずリリィの顔は可愛らしい。だがその奥底にあるものは人間の感覚とはかけ離れすぎていた。
そこに人間の善悪などなく、人魚の契約すらもない。あるのはリリィの好奇心だけである。
「この国は色々面白そうだから、飽きるまでは付き合ってあげる。だから楽しませてね、人間」
リリィは悪戯っぽく言って、冷や汗の滲む額に唇を落とした。
ローテムは今日一番の大きな溜息をつくと、そのまま廊下に座り込む。悪魔を召喚してしまった王子の苦悩は、まだ始まってすらいなかった。
(to be...)
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