最悪の仮説

 真っ暗な部屋で手塚美穂は目を覚ました。カチカチと時計の針が動く音が聞こえる。しばらくその音に聞き入った。規則的な音は心を落ち着けてくれる。十分に心が静まったところで美穂は体を起こして目の前の闇を見つめた。壁の向こうからぼんやりとこちら側を見つめる視線を感じる。それが誰だったかは思い出せなかったが、確か俳優かアイドルだ。口元は笑っているが目は笑っていない。富と名声のために造られた商業的な笑み、なぜこんなポスターを張っているのかはわからない。正気の沙汰とは思えない。それが心をかき乱したので、一つ深呼吸をしてまた心を落ち着けなくてはいけなくなった。二段ベッドから梯子を使って降りる時、できるだけ音を立てないように気を付けた。下の段では妹の手塚果歩が寝息を立てている。暗がりでよく見えなかったが、美穂はその寝顔を眺めて微笑んだ。そしてまたできるだけ音を立てないようにドアを開けて部屋を出た。電気をつけないまま廊下に出て忍び足で階段に向かう。手すりをつかんだ時、ふと目に頼るほうが危ないのではないだろうかと思ったが、考え直して、足元を確認しながら階段を下りた。

 手探りでキッチンにたどりついたころには幾分暗闇に目が慣れ始めていた。シンクの下を探ったが取っ手がない。どうやって開けるのだろうとしばし考えたが、軽く押してみると開いた。シンクの扉は磁石で引っ付いており、軽く押すことで外れる仕組みになっていたのだ。美穂は開いた扉にぶら下がっている包丁を一つ取り出すと目の前に持ってきて興味深げに眺めた。しかしすぐに興味をなくしたようにだらりと手に持つと二階の姉妹の部屋に向かって階段を上り始めた。また音を立てないようにドアを開けて部屋に入る。手塚果歩はあいかわらずすやすやと寝息を立てていた。その様子を見て美穂はまた微笑んだ。そして両手で包丁を握ると、果歩の胸めがけて力いっぱい振り下ろした。

 包丁は布団に深く突き刺さった。しかし手ごたえがない。美穂ははっと手塚果歩の顔を確かめようとしたが、そこに果歩はいなかった。さらにさっきまで握っていた包丁もいつの間にかなくなっている。

「ようジョニー。また会ったな」

 手塚美穂の無意識の領域に侵入したジョナサンは、さっきまで誰もいなかったはずの場所から声がしたので、慌ててそちらを振り向こうとした。しかしその時ベッドの上の段に頭をぶつけてしまった。ガーゴイルと違って人間の体は痛みを感じる。しばらく悶絶したのち、ようやく振り向いた先には、窓から差し込む街頭の光でうっすらと浮かび上がった二つの陰が立っていた。手塚果歩と田中隆の姿をしたエーリヒだ。エーリヒはダークセーバーを持っている。

「ジョニーでいいんだよな?それとも別の名前があるのか?あるいはただ‟神”と呼ぶべきなのか?」


「エーリヒ」

 手塚果歩に呼ばれて車の後部座席にいた田中の意識からゼノウチスが呼び出された。時間は停止し、ゼノウチスと果歩だけがその中で動いていた。

「果歩か、直接会うのは初めてだな、マリアの話を聞いて気づいたわけか」

 果歩はゆっくり頷いた。メールでやり取りしていた相手はもっと年上だと思っていたせいで半信半疑だったが、実際に呼び出してみて本人だと分かった。

「初めまして、手塚果歩です」

 果歩はメールの相手に敬語を使ったことはなかったが、初対面なので一応敬語で自己紹介をした。

「それで、どうした。わざわざ呼び出したからには何かあるんだろ?」

エーリヒの調子がメールの通りだったので、果歩も合わせることにした。

「ホテルのロビーでのこと見てたと思うけど、ジョナサンは姉ちゃんの頭に手を置いたんだよね。それってさ、姉ちゃんの中にジョナサンが分割した意思を移したってことだよね」

「だろうな、なんでそれを分かっててダークセーバーで切らないんだ?」

「テレサからの提案なんだけどジョナサンと対話してほしいんだって」

「はあ?」

 エーリヒはあまりにもめんどくさそうに言った。ジョナサンは唯一エーリヒが対話で分かりあうことを諦めている相手なのだ。

 対話においては時に相手に譲歩することも大事だ、譲れるぎりぎりまで譲って妥協するという事もある。しかしジョナサンは下手に出れば出るほど調子に乗ってくる。おまけに先手必勝と言わんばかりの物理的な先制攻撃。出会えばまず殺し合いになる。

「なんで今更?」

 エーリヒはなおもめんどくさそうに言う。

「姉ちゃんは腕っぷし強くないし、今までみたいに殺し屋やガーゴイルを相手にするわけじゃないから対話に持ち込めると思うって」

「へー、でもそれだけじゃないんだろ?」

「その通りです」

 突然果歩の声が変わったのでエーリヒにはそれがテレサであることが分かった。

「果歩は美穂のボーイフレンドの千歳義孝を経由して、ハイドリヒのネットワークに組み込まれていました。そのためにずっとダークレリジョンに監視されていたのです。ですが襲撃されたのは今日です。おそらくそれまでは脅威とみなされていなかったのでしょう。ではなぜこのタイミングで襲撃されたのか。それはおそらく果歩が数日前に書き始めたある仮説のためだと思うのです」

「ある仮説?」

「そう、それは果歩が言うには‟最悪の仮説”です。おそらくはそれが事実だった。だから知られると都合の悪いその事実を葬るために、ジョナサンは果歩を消しに来たのだと思うのです。その証拠に我々の仲間がアメリカにダークインフィニティの本拠地があるという偽情報を流したにも関わらず、あのガーゴイルは果歩を襲撃しに来ました」

 その後テレサから‟最悪の仮説”の内容を詳しく聞かされた。それはゼノウチスにとって本当に最悪のものだった。


「お前の能力は自らの意志を分割して別の肉体に移すことで同時に複数の意志を存在させることができるというものだろ?今までまったく考えたことはなかったが、果歩はその能力を使える者をすでに知っていることに気づいた。それはこの世界を創造し、人間を創造し、その肉体の中に自らの意志を分割して移すことで個としての存在を獲得した神そのものであるってな。お前はハイドリヒの監視の中で果歩がその仮説を書き始めたことに気づいた。そしてそれが事実だったからわざわざ殺しに来たんだろ?」

 暗闇の中でジョナサンは二人の影を眺めながら笑った。二人にはそれが事実だと認めたようにも、とんでもない仮説を笑い飛ばしているようにも見えた。

「そんなことを聞くためにわざわざこんな小芝居をして私をだましたのか」

「だまそうとしたのはお前の方だろう」

 ゼノウチスはまだジョナサンが神そのものであるなんて信じていなかった。しかし間違っていると否定するには根拠がない。

「状況からすれば果歩の‟最悪の仮説”は事実なんだろ?つまりダークレリジョンの現状維持が世界平和とかいうくそみたいな考えは神の意思だったわけだ。本当に最悪だよ。ハイドリヒは知ってたのか?」

「何を言っているのかわからないね。そもそもエーリヒ、お前は私の言うことは何一つ聞き入れてこなかっただろう。ハイドリヒともアルブレヒトとも対話をしてきたが、私とは闘争しかしてこなかった。それなのに今更そんなとんでもない仮説でもって対話を持つことができるだなんて本気で思っているのか」

 ゼノウチスをにらみつけるジョナサンの視線は鋭かった。そこには自らの信念を貫く覚悟とゼノウチスという最強の能力を有しておきながら敵対している者への嫉妬が見えた。ゼノウチスはテレサの方を見た。それはテレサから見て美穂の姿をしているジョナサンが黒いオーラをまとっているのかどうかを知りたかったからだが、テレサはジョナサンを見たまま話しだした。

「初めましてテレサです。いきなりで申し訳ありませんが、あなたにとって人類とは何ですか?」


 ジョナサンは手塚果歩の中にミスルトウがいることは知らなかった。この女の能力は一体なんだろう。エーリヒが今まで存在を隠し通してきたことを考えるとなかなか厄介な存在なのだろう。もしかしたら相手の考えていることを知る事ができるのかもしれない。それは最悪の能力だ。個別化された闇が相手の考えを知る事が出来てしまうならもはやそれは個であり全体である。もしそんな存在が現れてしまっては人間としての本質が価値を失う。大事なのは本質だ。

「人類は希望だよ、未来への希望」

「は!どうとでも取れるようなこと言うんじゃねえよ!」

 まさにその通りだ、わざわざそんな風に言ったのは心を読まれた時に備えてのことだ。しかしエーリヒに指摘されると腹が立った。

「私はテレサに言ったつもりだが」

 テレサはエーリヒを見た。おそらく黙っていろというアイコンタクトなのだろう。エーリヒは肩をすくめて「はいはい」と言って視線を逸らせた。

「人類は希望ですか…では、これからあなたが神であるという前提で話させていただきます。あなたにとって善とは何ですか?そして悪とは何ですか?」

「では私は自分が神であるという前提で答えるわけだな。そうだな、君たちがよく議論を交わす何が善で、何が悪かという疑問だがね、答えは単純だ。善も悪も存在しないんだよ。存在するのは本質である闇としての人間だけだ。個別化された人間は自分の行動に第三者からの価値を求めた。その価値の判断基準として善と悪という名前を付けたに過ぎない。人間はそのことに気づかないが、気づかないからこそ善と悪という概念が存在しているかのように語ることができる。そうすることで人間の存在や社会の存在を実感できるんだ。だからこそ人間の価値はそれぞれが個別化された闇であることに気づかないことで保たれる」

「では愛とはなんですか?」

 テレサは答えを咀嚼する様子もなく、さらっと続けて質問した。

「孤独ではないという事だ。これも人間が自分は個別化された闇で、もともと同じ存在であったのだと気づいてしまっては価値を失う。隣人を愛していたつもりがただ自分を慰めているだけだと知りたい者はいないだろう」

「理性とは?」

「倫理で物事を考えられるという事だ。これもまた相手や社会を意識できて初めて価値を持つ。だからこそやはり自分が個別化された闇であると知ってしまっては価値を失う」

 この答えはすべてダークレリジョンの精神であり、ハイドリヒからも聞いているはずだった。つまりテレサが相手の考えていることを知る事の出来る嘘発見器だったとしても嘘は答えていないのだからばれるはずもない。しかしテレサは怪訝な表情をした。いったいどう答えるのが正解だというのか。

「それが神の答えですか、残念です」

 何が残念なんだ?ジョナサンにはテレサが言っていることはまるで理解できなかった。親の言うことを聞かない子供がだだをこねているようじゃないか。たかが被造物の分際で。

「言っておくが私が自分が神だと言い切らないのはエーリヒ、君のためでもあるんだぞ。君は神の創造理由を知りたくて、世界平和を目指そうなどと言っているんだろう?つまりそれを私が答えてしまうと君は生きる意味を失うんじゃないのか?」

「どうだか…それでテレサ、どうなんだ?」

 エーリヒはジョナサンの言ったことに動揺することもなく、興味なさげにテレサに聞いた。この時もまだジョナサンには二人が何を言っているのかわからない。

「彼は真っ黒よ、すべて思い通りにならないものを無責任に葬るための言い訳に過ぎない」

 これを聞いたエーリヒは待ってましたと言わんばかりにダークセーバーを振り上げた。これでようやくジョナサンは悟った。このテレサというミスルトウは勝手に悪を定義してしまったのだ。そしておそらく、それを勝手な基準で推し量ることができる能力を持っているのだ。悪というものが時と場合によって揺らぐ概念であるにもかかわらず!

「馬鹿なことをするな、私を殺して何になる!?今お前たちがやろうとしていることは私がやろうとしていることと何が違うというのだ!多数のための少数の犠牲、それが私にとっては闇の真理を知る者であり、お前たちにとっては私であるというだけだろう!お前たちは闘争を否定して対話を重視するのではなかったのか!」

 エーリヒは一度振り上げたダークセーバーを下すと黙った。三人の間にしばし沈黙が流れる。最初に口を開いたのはエーリヒだった。

「一つだけ教えてくれ。なぜお前は人間を信じられない?闇の真理を人間に知られないようにしているのは恐れているからだろう?神である自分を人間に越えられるかもしれないと思っている。違うか?」

 ジョナサンは笑い出した。

「貴様は確かに昔からそう考えていたな。神に挑むとかなんとか…それを聞かされるたびに笑いをこらえるのが大変だったよ。神が人間を恐れる理由などあるはずがないだろう。人間はいつか必ず死ぬ、そして死ねば例外なく外的な闇の一部となる。つまり神自身へと返るのだよ。そして人間が死ぬまでに得た全てを神が得るのだ」

「例外なく…ね」テレサが口をはさんだ。

「ミスルトウのことを言いたいのか?お前が何年生きてきたかは知らないが、まだそんなに短い時の流れでしか思考できないのか。呆れたものだ。人類はいつか滅亡する、光に照らし出されているこの世界に永遠はないんだよ。そうなった時、宿主を失ったミスルトウもまた神へと返るのだ。この宿命にあらがうことができる者はいない」

「だったら別に人間に闇の真理を知られてもかまわないんじゃないのか?死んだらみんな一緒なんだろ?」

「私の話を聞いていなかったのか?それは個別化された闇の価値の話だ。闇の真理を知った上での人生で得たものは、神がすでに持っているものに他ならないんだぞ。そんなものに価値はないだろう」

「なんでそうなるのかよくわからん。神ってのはやっぱり人間と対等に話ができるもんじゃないのか?」

「逆だ。人間が神と対等に話をしようとするから理解できないのだ」

 ジョナサンはここではっとした。いつの間にか神であることを認めるようなことを言ってしまっていた。感情的になってしまっていた。

「もう対話は十分だろう。お前には心底失望した」

 対話は十分?何も解決していないのにこいつは何を言っているんだ。

「分かった、この際だからなぜお前達が間違っているのか教えてやる。お前たちがやろうとしていることは破壊だ。私が築き上げてきた普通や常識といった概念を破壊しようとしている。革新派を気取っているのだろうがそうじゃない。普通や常識という概念の価値を理解できない愚か者に過ぎない。

 以前君は言っていたよな。恐怖とは知らないという事だと。それは正しい。だからこそ人間は誰もが知っている普通や常識の中で生きてこそ、恐怖のない幸福な人生を送ることができるんだ。それは別に誰もが同じにならなきゃいけないという事じゃない。個としての存在を認識するために必要なことなんだ。同じ価値観を共有するから分かり合えあるんだ。他の誰かと安心感や愛情や友情を共有できることが人間にとっての幸福なのだ。それなのにお前たちは真理を広めてその価値を奪おうとしている。それに普通や常識のない世界で誰が自分の行動に責任を持てるというのだ。人間が闇の真理を知ればより高い次元で思考できるなどというのは幻想にすぎない。今よりもっとひどい闘争の種をまくことになるだけだ」

 ジョナサンはなぜこんな当たり前のことを力説しなければいけないのかわからなかった。なぜそれを理解できないのかがわからなかった。なぜもとは同じ存在だったのにこうも考え方が異なるのかがわからなかった。なぜ、なぜ、なぜ!

 個別化によって求めた結果は間違ってもこんなものではない。理解できない、分からない、知らない、それらの感情は恐怖を生む。恐怖は孤独を遠ざけるための手段。そのための普通であり常識。その中に納まってこそ幸福だ。なのになぜそれを拒むのか。

「それが正しいやり方だから俺たちが間違っているって?笑わせるなよ。お前が言っているのは誰もが普通や常識を身に着ければ他人に認めてもらえるようになるって言ってるのと変わらない。それは普通や常識の枠の外にいる奴は差別しても軽蔑しても無視しても良いって言ってるようなものじゃないか。だから差別される側じゃなくて差別する側になりましょうってか?

 逆なんだよ。同じ価値観を共有しなくても違う考えの他人を尊重できるように人間が成長しなくちゃいけないんだ。それでこそ闘争のない世界を目指せる。それに俺たちは人間が真理を知ったら生きる価値を失うとは思ってない。たとえ神が馬鹿だと知ったとしてもな。お前はやらなくていいことをやりすぎたんだよ。人間を信じられなかったんだ。子供を産んだだけで親になったつもりでいた」

 エーリヒの声は冷たく響いた。そして再びダークセーバーを振り上げた。

「こんなことは間違っている。お前たちは後悔することになるぞ!」

 ジョナサンは逃げようとした。手塚美穂の肉体はまだ利用価値があると思ったのだ。しかしその時になって気づいた。いつの間にか体が動かなくなっている。周りを見ると時間は停止しており、その停止した時間の中に意識だけが引きずり込まれていたのだ。

 ミスルトウが持つ能力は個別化の影響によって生まれたものであり、全体である神が管理できるものではない。時間と空間に干渉するという絶対的な能力をなぜ神の意志に反する者が手にしたのか、ジョナサンにはわからなかった。なぜ、なぜ、なぜ!知らないこと、理解できないことは恐怖を生む。

「ちくしょうエーリヒ!お前たちの計画は必ず阻止する!それまで何度でもお前たちの前に立ちはだかってやるからな!」

 ジョナサンが言い切ったところで無情にもダークセーバーが振り下ろされた。手塚美穂の体から断末魔とともにジョナサンが切り離され、膝からがくりと床に倒れた。テレサは美穂に駆け寄ってその体を支えたが、エーリヒは冷たい視線を投げかけて言った。

「何度でも殺してやるよ」


 テレサは美穂の体をベッドに運ぼうとしたが、果歩の体はその体重を持ち上げることができなかった。

「エーリヒ、手伝ってもらえますか?」

 ゼノウチスは考え事をしていたが、はっと我に返ってテレサに手を貸した。気絶している美穂の顔から一筋の涙がかすかな光に反射して輝いた。

「なあテレサ、俺は…」

 ‟今お前の目にどう見えている?”テレサにはゼノウチスがそう質問しようとしていることが分かった。ジョナサンはゼノウチスがやっていることはダークレリジョンがやっていることと変わらないと言った。多数のために少数を犠牲にしていると。さらにアルブレヒトのようにジョナサンを殺すという行為を感情で正当化したようにも思える。しかしゼノウチスが言いとどまったのを見て先を促すことはしなかった。

「あなたはジョナサンが許せないのでしょう?人間は普通や常識の中でだけ生きるべきで、それ以外はすべて間違っているというような考え方だったから。でも見方を変えればそれは前進だと思いますよ」

 ゼノウチスは困った顔でテレサを見た。

「だってあなたは今まではジョナサンとは殺し合いをするばっかりで、それを楽しんでいるぐらいだったじゃないですか。でもジョナサンが神だと知った今、あなたは彼を許せなくなった。それって彼に関心を持ったってことだと思いますよ。少なくとも今後は今までよりも有意義な対話ができるのではないですか?」

「やつを殺すように仕向けておいてよく言う」ゼノウチスは笑った。

「あら、私は彼を殺せなんて一言も言ってませんよ?」今度はテレサが笑った。

「ああそうかい。しかしお前は俺よりショックだったんじゃないのか?神があんなのでさ。信じてたんだろう?」

「今でも信じてますよ。見方を変えればジョナサンは神に最も近いだけで、個別化された闇という点で見れば私たちと変わらないのですから。おそらく個別化の影響で考え方がゆがんでしまったんだと思いますよ。もっと理性的な神が上にいると思います。大事なのは希望を捨てずに関心を持ち続けることです」

「なるほどね、好きの反対は無関心か」

「それ言わないでくれます?」

 テレサは引きつった顔でゼノウチスを見て言った。ゼノウチスは「ひー」といって肩をすくめた。その言葉はテレサがかつて言いたくなかったにもかかわらず、言わざるを得なかった言葉だった。なので彼女の前でそれは禁句になっている。

 ゼノウチスはまたしばらく考え事を始めた。そして目を閉じるとゼノウチスに代わって田中が表れた。

「さすがにないと思うね」

 突然声が変わったので、テレサにはそれが田中であることが分かった。しかしそれが誰に向けられた言葉なのかはよくわからなかった。

「考えたんだけどね、宇宙ってほとんどが闇だろう?てことはこの宇宙そのものが個別化された闇なのかもしれない。僕の中にゼノウチスが入り込んでいる状況を考えても、一つの肉体に複数の意志が存在する可能性があるわけだから。もしかしたら僕らは誰かの頭の中で別々の意志として創られて、正しい道を探すために試行錯誤させられているだけなのかも。きっとそれは宇宙の外側にある世界にいる別の誰かのためにやってることなんだ。だからそれが正しいかどうかは宇宙の内側にいる僕らには判断できない」

 言い切ってから田中は自分が表に出てきていることにようやく気づいた。知らない人の家にいきなり上がり込んでしまっているからか、きょろきょろと周りを見渡して落ち着かなげにしている。テレサが部屋の電気をつけたので、田中は果歩の姿をしたテレサを見た。

「田中さんですね。はじめましてテレサです。今の話続けていただけますか?エーリヒは恐らく私に直接聞かせたくてあなたを出したのでしょうから」

 田中はしばらくうろたえたが、ようやく状況を理解した。手塚姉妹の部屋に来てから田中はゼノウチスを通して事の顛末を見ていた。そこで目を閉じたゼノウチスが語り掛けてきたので返事をしたところ、いつの間にか意識と無意識が逆転してしまったのだ。

「ゼノウチスと話してたんだ。いきなり‟ジョナサンが神らしい、てことはあいつがやってることが正しいのかもな”とか言い出すからそれはないだろうって」

「ゼノウチスって誰です?」

「えっと、エーリヒのこと…改名したって言ったり言わなかったりなんなんだあいつは」

 テレサは微笑みながら、ゼノウチスという名前の意味を考えてみた。しかし何も思いつかなかったので、あとで本人に聞いてみようと思った。

「とにかくジョナサンが神だから、やることに全部正しい動機を持っているかっていうとそうじゃないと思うし、そもそも個別化された時点でジョナサンは神とはイコールじゃないから、神の意思とも違うだろうって言いたかったんだ。その場合ジョナサンは神よりも天使って言った方がしっくりくるかな。

 それにゼノウチスはジョナサンが神だなんて思ってないと思うよ。以前神に対峙した時には、孤独よりは愛を、悪よりは善を、野性よりは理性を、なんて言ってたけど、そういう話一切してなかったから」

 これを聞いてテレサはなぜゼノウチスが田中を表に出したのかが分かった気がした。ゼノウチスは以前「最後の決め手になる闇の真理は、今を生きている人間に書いてもらいたいと思っている。それを理解できる人間がまず一人はいないと、今を生きている他の人が、システムで闇の真理を記憶に上書きされた時にちんぷんかんぷんになりかねない。それじゃ意味ないからな。そこら辺の基準は何千年も生きている俺たちじゃわからない」と言っていた。田中少年はまだ高校生だが、自分の考えを持つことができる。だからこそ彼に計画を任せてくれという事なのだろう。無意識に潜んでいたエーリヒ改めゼノウチスの影響を少なからず受けていたのは間違いないだろうが、それでも自ら闇の真理に気づいたのだから適正は十分だろうと思った。

「これからよろしくお願いしますよ。田中さん」

 田中は戸惑っている。まさか告白されたと勘違いしたのだろうかとテレサは思った。

 少し間があって、田中が「おう!」とぎこちない返事をしたので、二人して何度も頷いていた。知らない人の家で知らない人に「これからよろしく」なんて言われればまあこんなものかとテレサは思った。

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