アルブレヒト

 田中は自分の家の前まで車で送ってもらい、今その車を玄関前で見送っているところだった。あの後千歳からミスルトウの干渉について何か話しにくいことでもあるのか?などと何度か聞かれたがその都度はぐらかす必要があった。実際話しにくいことはあった。ここ数日の間に起こった非現実的なことの数々に説明を見出すことができるのではないかという希望があった。しかしそれは田中自身が否定したい仮説でもあったのだ。だからまずは自分で確かめてみなければならない。皆に説明するのはそのあとだ。

 家に入ると母がテレビを見ていた。母は今朝田中が早くに出かけたことは知っていたが、日が暮れかけている頃に帰ってきても「こんなに長い間どこにいたの?」などとは聞かなかった。母にしてみれば休日に一日子供がいなくても、夜遅く帰ってこない限りは大した関心をひかないらしい。

「あらおかえりー」

「ただいまー」

 テレビではワイドショーをやっていた。田中はしばらく母と一緒にそのワイドショーを眺めた。しかし取り上げられるニュースは現政権がどうだ、あの芸能人がこうだ、今こんな動画が話題になっています…などの内容ばかりでそこに今日のあの出来事が取り上げられることはなかった。アメリカ大統領が宿泊するホテルに猫の死骸と、人間じゃなかったSPの死体と、気絶した大統領補佐官(アルブレヒトの話ではミスルトウがダークセーバーによって切り離された場合、本人の意思が蘇るとのことだった)が見つかれば緊急ニュースで流れても良さそうなものなのに。誰かが、おそらくはダークレリジョンが隠蔽工作をしたのだろう。おかげでみんなの…千歳はなんと言っていたか、そうダークレジスタンスの存在が世間に知れることもない。だがあの作戦に本当に意味があったのかどうかはこれから確認しなければいけない。

 田中は「ちょっと休む」と言って二階の自室へ向かった。下から「もうちょっとで食事にするからねー」という母の声が追いかけてくる。田中は「はーい」と下に声を返してから部屋に入った。そして電気もつけずに扉を閉めてから一つ深呼吸をすると目を閉じて言った。

「いるんだろ?出て来いよ」


 田中の呼びかけに応じるように世界から音は消え、わずかにあった光の断片も消失し、完全なる闇の世界が広がった。以前の夢の中と同様体の感覚も消失している。田中はやり方を知っていたわけではない。芋虫は誰にも教えられることなくがさなぎになり、いずれその殻を破って空を飛ぶことができるようになることを知っている。それと同じような確信があった。しかし実際にうまくいって、正直驚いていた。そしてそれが中二病の代表的なセリフによって成しえたことに若干興奮してもいた。

 ふと田中は静かすぎることに気づいた。もしかしたら闇の世界には呼びかけた側からの許可がないとしゃべってはいけないというルールでもあるのではないかと考えた。そこで改めて呼びかけてみた。

「いるんだろ?何を黙ってるんだゼノウチス…いやエーリヒって呼んだほうがいいのか?」

 微かに笑い声がした気がした。そしてそいつは話し出した。

「ゼノウチスでいいよ。気に入ったんだ、お前がつけてくれたこの名前が」

 ゼノウチスはそう言って短く笑ったが、すぐにまた黙った。顔や表情は見えないが何か話したくないことをごまかそうとしているかのようだ。

「以前君は僕自身だといったけど、それは嘘だな」

 しばらくまた沈黙があった。そしてあきらめたようなため息が聞こえた後ゼノウチスは語りだした。

「そう、俺はミスルトウだ。ダークインフィニティの創設者にしてリーダーのエーリヒ。よくわかったな隆。だが俺がお前自身だというのはある意味嘘じゃない。というのも俺はお前が生まれた時から一緒にいるんだ。ずっとお前の無意識の領域の中にいたんだぜ」

 これが田中にとっての否定したい仮説だった。そして今それは事実になった。

「生まれた時から?冗談だろ」

 自分の中に他の誰かがずっといて、今までそのことに気づかなかったなんて考えたくもなかった。

「いいや本当だ。だがハイドリヒやアルブレヒトみたいに宿主のお前の意識を乗っ取ろうなんて考えたことはない。それはダークインフィニティの精神に反する」

 ここでゼノウチスは一度言葉を切った。

「ところで何の用があって俺を呼んだんだ?」

「それは聞かなくてもわかってるんじゃないのか?確か僕の考えは君には筒抜けだっただろ」

 そもそも以前の夢の中でゼノウチスの考えが田中に読めなかった時点でゼノウチスは自分ではないと気づくべきだったのだ。ゼノウチスはまたあきらめたような笑い声をあげた。田中はこいつはよく笑うやつだと思った。しかし話し出すとゼノウチスは真剣な声になった。

「そうだな、今回の一連の出来事の真相を知りたいって言うんだろ?だがそれには少し俺たちの歴史について話しておかなきゃいけない」

 そこでしばらく沈黙があったが、田中はゼノウチスが先をつづけるのを待った。ゼノウチスは語り始めた。

「ダークインフィニティは今から約二千年前に俺が中心となって結成した組織だ。組織の存在目的は単純に言えば世界平和の実現。だがそれにはまず世界平和という言葉の意味を確定する必要があった。何せこの言葉は使う人によって意味が違ってくるからな。それが世界平和を実現できない主たる要因なんだが…。まあいいさ、そこで俺はある状態を指すことにしたんだ。それは全人類がお互いに対話によって高めあい、闘争を否定することができる存在になれる状態だった。皆ついてきてくれたよ。何せ当時の俺はまだ三歳でそんなこと言ってたんだからな。まあ実際には七十年の人生を一度満了してたんだが。

 活動内容はいたって単純。ただ闘争をやめて対話によって高めあおうって言って回るだけ。そのためには人間や神は闇の意志なんだってまず理解することが重要だ。本質を知らなきゃ行動に意味を見いだせないのは人間の常だからな。そして俺自身がそれを証明する存在だと示した。俺はそれで人間がより高い次元で物事を考えることができるようになると考えた。なんせ永遠に生きられる可能性があるんだからな。おのずと未来に目を向けようと思うだろ?そうすれば世界平和を実現できるって本気で考えてたんだ。けどそう甘くはなかった。創設時のメンバーは悪魔が憑いた子供にそそのかされてるって言われて全員処刑されたよ。俺も含めてね。

 それで次の人間に憑りついたときは考えを改めざるを得なかった。普通と違うものは拒絶されると知ったからだ。だから憑りついた人間の意識を乗っ取ることはせずに無意識の領域からヒントを送り続けた。そうすることでひそかに活動を再開したんだ。洗脳と思われるかもしれないが、たいていの奴は俺の存在に気づいてからも否定しないでいてくれたよ。俺のことを自分の一部だと認めてくれた。だが人間の人生は短いからな、俺の活動はなかなか広まることはなかった。

 そんな時に俺意外にも同じことができる奴がいることを知った。それがハイドリヒでありジョナサンでありアルブレヒトだ。他にもいるが、とにかく俺は活路が開けたと思ったよ。そこで彼らを説得した。永遠の命があるなら今まで誰も実現できなかった世界平和を実現させることに貢献しようってな」

「お前はなんで世界平和を実現したいんだ?」

 言わなくても伝わることはわかっていたが、そこはちゃんと答えてもらおうという思いから田中は質問した。ゼノウチスの話は想像よりスケールが大きかったので全体を把握するためにも詳細を知っておきたかったのだ。

「神に挑むためさ」

 ゼノウチスは何を当たり前のことをと言わんばかりにそっけなく言った。田中は「世界平和を願わない奴なんているのかよ」とでも返されると思っていた。いったい神に挑むとはどういう事だろう。一瞬考えて自分がかつてその考えに至ったことを思い出した。その時神は語り掛けることなくやり過ごすことができるだろうか…。

 ゼノウチスも同じ考えなのか確かめようとしたが、ゼノウチスは続けて質問をさせまいとするように話をつづけた。

「それで、多くのミスルトウが在籍するようになったダークインフィニティは以前よりも目的に近づくことができたと俺は思っていた。だが彼らは違った。どんなに少数の人間の意識を改革したところで、世の中にはびこってしまった普通という概念は覆せない。戦争も犯罪もなくならない。それは仕方がないことだよ。それが人間だから。それが普通だから。そうやって諦めていく人間を見すぎたんだ。そこで俺のやり方に見切りをつけて、力で人類を支配することで、世界平和を実現しようとしたのがハイドリヒだ。あいつは完全な管理社会を作ろうとしたんだ。管理社会は人間が人間を管理するから間違いが生じる。だったら永遠を生きられる闇の意志によって人類を管理し、管理されているとも気づかせないままにコントロールしようとしたんだ。俺に言わせれば人間を無知なままにしておくなんてとんでもないことだったし、奴のやり方は自由意志を殺しかねない。だが奴はそれで世界を平和にできると信じていた。だから止められなかった。そもそも俺のやり方で意識改革される人間が広まるよりも人類の増えるスピードのほうが速かったんだから何も言えない。

 そのころアルブレヒトはいつの間にかいなくなっていたし、ハイドリヒがダークレリジョンを創設したことで俺たちは結局バラバラになった」

「待ってくれ、ハイドリヒは本気で世界を平和にしようとしていたのか?闇の真理を知らないことが人類の幸福みたいに言ってた気はするけど、それも世界平和実現のためだと信じてやっていた?」

「そうだろうな。今となっては本人に聞くこともできないが俺はそうだと思っている。ハイドリヒのやり方は多数を活かすためには少数の犠牲も厭わないというものだった。そこで闇の真理に気づいた者との闘争を否定できなかったのが俺とあいつの決定的な違いだ。だが世界平和を実現しようという志だけは一致していた」

「じゃあ核戦争を起こそうとしているというのは…」

 田中は今まで感じていた不安の一つが形を得ていくのを感じていた。大統領補佐官と対峙したあの時、核戦争などという言葉は一度も使われなかった。

「まあ、そこはもうちょっと待ってくれ。

 とにかく俺たちは敵対することになったんだが、俺が闘争を否定していることをあいつも知っていたから全面対決するようなことはなかった。それでも闇の真理に気づいた者をあいつらが殺そうとするから俺たちダークインフィニティがそれを守るっていう形での衝突はしょっちゅうあった。俺はあいつらの自由意志を尊重していたんだ。いつか考えを改めてくれることを願いながらね」

「それじゃあ…」

 田中は自分が間違ったことをしてしまったのではないかと思った。やり方の違う二つの組織は世界平和を目指していた。どちらのやり方が正しいとかではなく、自分はその一つを否定して壊滅させてしまったのではないかと思ったのだ。

「気にするな。お前だけの責任じゃない。結局のところお前がジョナサンに気絶させられた時にあいつをぶちのめしたのは俺なんだし」

 確かにそうだと思った。ゼノウチスは闘争を否定すると言っていながらジョナサンとは盛大に闘争を繰り広げた。

「あいつはなあ…」

 田中の思考を読み取ったのか、ゼノウチスは恥ずかしいことを告白するように弱弱しい声で言った。

「いや、確かにそうだな。俺も悪い。それは認めるよ。だが言い訳させてもらえばだな、俺が今まで何千年も生きてきたうちに経験した数えきれない失敗を振り返ってみてもジョナサンは別だと思うね。あいつ死なないし。そのくせ殺すし」

 ゼノウチスは弁解をしたらしかった。結果的に田中もマリアもゼノウチスに救われたのだから責める気はなかったのだが、そういったところまでは読み取れなかったらしい。それよりもその時のことで田中にはゼノウチスに聞いておきたいことがあった。

「ところで君はあの時馬鹿みたいに大笑いしていたけど、あれはなんだったんだ?」

「ああ、あれか。まあジョニーとはたびたび衝突してたからな。俺たち二人の間では殺し合いが馴れ合いみたいになってて。あとそれと…マリアがいたから。お前のそういう一面を知っておいてもらおうっていうのもあったな。ほら闇論書いてるときお前高笑いしてたじゃないか」

 田中はあきれた。こいつはまだ以前の夢の中でのことを言っているらしいと分かったからだ。

「恥ずかしかったか?てことはマリアのこと意識してるんだろ?でも相手には自分のこと正しく知ってもらわなきゃだからなー」

 突然茶化したようなしゃべり方になる。田中はいらいらし始めた。そもそも自分の妄想で悦に浸って高笑いしているだなんて、他人に知られて得することなんてないだろう。あれは一人でいるとき限定なのだ。

「まあまあそう気を悪くするなよー…けどな、マリアのことは考えておいてくれ。誰かを愛するっていうのは人間にとって重要なことなんだ」

 ゼノウチスの茶化したような話し方はすぐに真剣なものになった。そこで田中はこの話についてもう少し聞いてやろうと思った。

「お前が闇論を書き始めたのは俺がヒントを送ったからじゃない。お前自身がお前自身の意志で書き始めたんだ。でもだからこそちょっと修正を加えなくちゃいけない。それはな、神が孤独だったっていうところだ。あれは違う。今のこの状態でお前ひとりになったところを想像してみろ。それも生まれた時からずっとだ」

 田中には想像できなかった。ただ漠然と孤独に耐えられなくなると思った。

「孤独に耐えられなくなる?違うね。最初から一人しかいないなら他人という概念がない。つまり孤独という概念も存在し得ないんだ。もちろん一人しかいないわけだからお前が書いた通り愛や友情を知る事も出来ない。じゃあ神は何のために個を得ようと思いついたのか。正直言うが俺にはわからない。だから神に直接聞く必要があるんだ」

 さっきの神に挑むとはそういう事か。

「そういう事だ。神と対話したときに人間にしか得ることのできない概念を持って対峙したいんだ。それでこそ建設的な対話ができるってもんだ。そうだろ?孤独よりは愛を、悪よりは善を、野性よりは理性を、だ」

 創られた側でありながら、神に人間にしか得られないものを携えて対話しようとは、神を全知全能と崇める人間には到底思いつきそうにないなと田中は思った。

「もしかしたらそれこそが神が人間を創造した理由なのかもしれないな。想像でしか知る事ができないことを知るため。教えてもらうため。そう考えれば神もまた自らの存在を高めようとしているのかもしれない」

「確かにそうだな…ハハハ!すごいぞ隆!お前は俺が生きてきた数千年の間に得ることのできなかった視点を持ってる!だからマリアにはアタックしろよ!」

 まるで勢いで分かったというだろうと期待しているかのようにゼノウチスはさらっと言った。しかし田中は安易に返事をしなかった。そして考えを悟られないようにできるだけ無心になろうとした。

「まあいい、それはこれから考えてくれればいいからな。それより目下一番の問題はアルブレヒトだ」

 それはもっとも田中が気になっていたことだった。アルブレヒトを信用したことが正しかったのかどうか。田中がずっとぬぐうことができなかったアルブレヒトの言動に対する違和感の正体が何だったのか。それを知りたかった。


「アルブレヒトがダークインフィニティを抜けてから、俺は一度だけあいつと対話をしたことがある。もう気づいているかもしれないが俺たちミスルトウの間じゃ対話が最も重要だ。これを抜きにした闘争には厳罰が下る。だからあいつもしぶしぶその時は対話に応じた。

 俺はまず、なぜダークインフィニティを抜けたのかを聞いた。あいつが言うには俺のやり方は多様性を否定しているとのことだった。みんなが同じものを信じるのが正しくて、個人よりも全体を大切にしなきゃいけないというところが気に入らなかったらしい。俺はそんなつもりはないと言ったんだが、あいつは感情的になっちまってな。というのもあいつは感情を大切にするんだ。みんなで喜び合うのが正しいって信じてる。もちろん間違いじゃない。だが優先順位が逆なんだ。感情が先に来ると、時にそれは犯罪や戦争を正当化する言い訳になりかねない。それでもあいつは感情を優先した。俺は完全に拒絶されたよ。多様性を認めろって言われてな。俺は自分で決めたルールに従ってあいつとの闘争を避けるために関わりを絶った。それからしばらくたって、ある事件が起きた。それは四人の処刑人が消息を絶ち、ダークセーバーが盗まれたというものだった。処刑人っていうのは対話を否定して闘争に走ったミスルトウに対する抑止力だった。噂ではどうもアルブレヒトが怪しいらしい。この時ばかりは俺もさすがに怒りに震えたよ。だが事件を調べるうちにあいつの動機が分かってきた。あいつは感情を優先した人生で何度も何度も失敗を繰り返していた。それは長い間生きてきた俺やハイドリヒも同じだったが、あいつは失敗のたびに感情的になって時には怒りに任せて人を殺し、時には悲しみに暮れて自殺した。そして人間は感情豊かに生きることが幸福だと信じていたあいつは、世の中は喜びよりもはるかに負の感情が多いのだと知ったんだ。

 ここからは推測なんだが、あいつは人類に絶望したんだと思う。人類はどうせ幸福にはなれないってな。それでリセットすることにしたんだ。おそらく邪魔をするであろうハイドリヒを排除して、核兵器で人類を一掃することによってな。ハイドリヒは世界中の核兵器のスイッチを管理してたから巻き添え食ったんだ。その根拠として、世界中で同時多発的に闇の真理に気づく者が現れているとか、それを一掃するためにダークレリジョンが核戦争を起こそうとしているとかって話は、隆たちを利用するためのでたらめだ。実際には自分でそれをやるつもりでいるんだろう」

 このゼノウチスの推測は田中にとっては最悪のものだった。核兵器で世界を滅ぼそうとしていたのはハイドリヒでは無くアルブレヒトだった!?しかもあの時アルブレヒトはマリアをかばって死んだのだ!ということはゼノウチスの推測の通りなら、肉体を失ったアルブレヒトは次の肉体としてアメリカ大統領を選んだことになる。つまり核兵器の発射スイッチを握っているのだ!早く止めなければ、こんなところでのんきに対話をしている場合ではない!

「まあ落ち着けよ隆。焦るのはわかる。自分の責任だと思ってるんだろ?あいつの計画に手を貸してしまったと。だけどまだそうだと決まったわけじゃない、今のはあくまで推測だ。あいつに直接聞いてみるまではな」

 田中にはなぜゼノウチスがこんなに落ち着いていられるのかがわからなかった。ことは一刻を争うだろうに。

「アルブレヒトと対話をするにしても、計画を阻止するにしても、どうやるんだ?僕はただの高校生だし、相手はアメリカ大統領なんだぞ!?近づくことだってでいない!」

「ああ、そんなことか…俺の能力についてはまだ教えてなかったな。安心しろよ、俺は最強だ」


 ゼノウチスのように、宿主の無意識の領域に巣くったミスルトウは、宿主が眠っていたり、気を失ったりした時にその意識を表に出すことができる。さらにもう一つの方法がある。それは田中がやったように、宿主がミスルトウとの対話を求めてその意識を認識できるようになった時、その宿主に許可を得るという方法だ。今この方法によって田中の体はゼノウチスの意識が支配していた。

 見た目はただの高校生が歩いている帝国ホテルまでの道は、さっきまで木枯らしが吹き、枯れ葉が舞って、たまに道路には車が行きかっていた。しかし今は風も音もなく動いているものはゼノウチス以外になかった。時間と空間への干渉。それがゼノウチスの能力だった。時間も空間も闇の被造物だから干渉できないはずはないのだ。

 ちなみに空間に干渉できる以上ゼノウチスは田中の部屋からホテルの部屋まで一瞬にして空間を超えることができた。それでもあえてそうせずにホテルまでの道を歩いているのには理由があった。ゼノウチスの心境は田中との会話では感じさせなかったが動揺していた。あえて歩くのはその動揺を鎮めるためだった。ゼノウチス自身も幼稚なことをしているとは思った。鶴野正義に「やるべきことをやって、やらなくていいことはやるな」と言われかねない行為だ。それでもアルブレヒトに対峙したとき自分が冷静でいられるかどうか自信がなかった。そのためにはこれはやるべきことなのだと自分に言い聞かせた。たとえ何千年生きていようと、感情に負けない精神を得るのは難しい。

 帝国ホテルの前まで来たゼノウチスは意を決して空間に干渉し、閉ざされている扉全てを超えてアメリカ大統領の目の前に現れた。大統領も他の人たち同様、止まった時間の中で静止している。その表情からは何を考えているのかまるで分らなかったが、ゼノウチスはそれがアルブレヒトであることを瞬時に見破った。

 ゼノウチスは大統領の額に人差し指で軽く触れた。これでアルブレヒトの意識だけを止まった時間の中に呼び出すことができるのだ。アルブレヒトからすれば一瞬にして目の前に田中が現れたように見えたので、ひどく驚いてその姿をまじまじと見た。


「田中君?なぜここに…いや…ああ…なるほど」

 アルブレヒトはきょろきょろと周りを見渡して時間が停止しているのを確認してから、あきらめたようにゼノウチスに向き直った。その間ゼノウチスは黙ってその姿を見ていた。

「エーリヒか…ずっと田中君の中にいたんだね。だからジョナサンを撃退できたのか。その時気づくべきだったな。まったくもう…まさか偶然なんて言わないよね」

「いいや偶然だよ。ただお前について変な噂が流れてたもんだから、できるだけお前の近場に潜もうっていうのは十八年ぐらい前に思いついたけどな」

「つまり監視してたんだろ?そういうのは偶然って言わない」

 アルブレヒトは首を振った。高校生がアメリカ大統領と対等に話しているこの空間ははたから見ればあまりにも奇妙な光景だろうと思った。そして思い直した。対等じゃない。この見た目だけは高校生の男は、また多様性を無視して考えを矯正しようとするに決まっているからだ。そしてエーリヒにはその力がある。今までそうしなかったのが不思議なくらい絶対的な力が。

「俺はな、お前が言うように多様性を認めようとしていたんだ。だから今回も黙ってお前の作戦を陰で見てた。自由を侵害されるのが嫌いなんだろう?だがな、行動には責任が伴う。これ以上お前がやろうとしていることを見過ごすわけにはいかないんだよ」

「わかったようなことを言うなよ。僕が何をやろうとしているか知っているのか?」

 アルブレヒトは吐き捨てるように言った。

「俺はな、お前が自分がやっていることの間違いに気づいてくれるのを待ってたんだ。だが核兵器で人類を滅ぼすんだろ?さすがにどうかと思うぜ」

 これを聞いてアルブレヒトは笑い出した。しかしすぐに真剣な顔になった。

「人類を滅ぼす?違うね、これは救済だよ!僕は君たちの誰もがたどり着けなかった真理を知ったんだ!人類は肉体を持ったままでは幸福になれない!容姿、民族、人種、性別、思想、文化、言語、生まれた環境、過去の過ち!人間は肉体を持ったままではあらゆる理由を持って他人を軽蔑できるんだ!分かり合えるはずがないだろう!?そもそもが肉体を持った人間が完成された最後の姿だと思っているのが間違いなんだ!君だって知っているだろう、ミスルトウが生きる闇の世界を!そこでは相手の思考も感情も知る事ができる。相手の立場になって考えることができる。肉体を持たないから見た目で相手を判断することも殺しあうこともない。さらには時間は無限にある。だからこそいがみ合っていた人たちが分かり合うのに必要な時間は十分だ!そう、ミスルトウこそが人類が到達すべき姿なんだ!それでしか世界平和は成しえないんだよ!」

 大統領の額には汗が浮き出ていた。興奮して頭に血が上り顔は真っ赤になっている。しかしその様子とは裏腹にゼノウチスにはその言葉を本気で言っているようには思えなかった。

 アルブレヒトは感情的になりすぎる…。

「まあ一理ある…と言いたいところだが、誰だってミスルトウとして生きられるわけじゃない。お前は自分をシード化する方法を誰かに教えられてやったか?それを誰かに教えられるのか?それができなきゃ人類はただ死ぬだけだぞ」

 アルブレヒトは口を開いて反論しようとしたがゼノウチスはさらに続けた。

「それに俺たちミスルトウには宿主が必要だ。つまり誰かは生き残らなくちゃいけない。その役目は誰が果たすんだ?今お前が入ってるアメリカ大統領か?自由意志はどこに行ったんだ。それに全人類に肉体を手放す許可は得たのか?」

 一度開いた口を閉じてアルブレヒトは黙った。そして首を振って静かに言った。

「わかってない…」

「だったら分かるように説明しろ。今お前は俺と対話をしている、対話ができるのは人間だけだ。お前はまだ引き返せる。化け物になるな」

 ゼノウチスはアルブレヒトが答えるのを待った。アルブレヒトはまた首を振りながら何事かをぶつぶつつぶやいて、ついには笑いながら涙を流し始めた。

 アルブレヒトは感情的になりすぎる…そして感情は時に無責任な行動を正当化するための言い訳になりかねない。

 アルブレヒトは涙声を押し殺しながら言った。

「エーリヒ…今の君の言葉でようやく気付いたよ。僕はね、感情豊かに生きることで人を愛せると思った。人からも愛されると思った。それでこそ素晴らしい人生を送れると信じた。でも結局のところただ愛がほしかっただけなんだ」

 アルブレヒトの頬を涙が伝った。ゼノウチスは以前アルブレヒトが「喜びだけを知って生きていたい、世界中の人がそうであってほしい、だからこそ他人に悲しみの涙を見られるなんて最悪だ」と言っていたのを思い出した。つまりこれは感情に任せて言った言葉ではなく本心だということだ。

「失うと分かっているのに愛を欲した。そしていつの間にか永遠にそれを繰り返す化け物になっていたのさ。世界平和なんてどうでもよかった。ただ愛されたかった。でももう…疲れた。もう…疲れたんだ」

 ゼノウチスは全く同情できなかった。こんなことでいちいち世界が滅んでいたら世界がいくつあっても足りない。そしてアルブレヒトが自暴自棄になって自らの価値を貶めたことには憤りを覚えた。ゼノウチスは人間はお互いに高めあうことで世界平和を目指せると考えている。それなのに自分で自分を過少に評価するなんてあってはならないことだと思った。自分を過少に評価する者は自分より才能がある者、権力がある者、金を持つ者を恨む理由を持つことになる。そして自分を高めることも相手を高めることも考えず、恨みから無責任な行動を正当化しかねない。だからアルブレヒトがかたくなに他のミスルトウたちを拒絶したことが悔しかった。たとえ距離を置いてでも助け合うことができていれば…。

「アルブレヒト…言ったろ?お前はまだ引き返…」

「それだよ僕が気に入らないのは!なぜそうも無感情に闘争を否定するんだ!?自分勝手に生きている僕を罵れよ!闘争の先に人間の成長がないってなぜ言い切れるんだ!感情をぶつけ合って分かり合えることだってあるだろう!それが人間らしさだろう!」

 ゼノウチスは違うと即座に否定したかった。罵りあうことが人間の成長につながるなんてまるで思っていなかった。だが否定は闘争を生む。問題はそこではない。論点がずれている。

「結局のところ、お前はこの後どうするんだ?人類を滅ぼして孤独になるのか?」

 アルブレヒトは答えることができなかった。しかしゼノウチスからすれば答えを待つ時間はいくらでもある。

「何もかも終わらせて、新しく何かが始まるのを待つか?それも一つの手ではある。俺たちは長く生きすぎたのかもしれない。疲れるよな」

 アルブレヒトは疑わしげな目でゼノウチスを見る。この男が自分に同情するはずがないという目で。そして本心を探る。平凡な男子高校生の顔に表情はない。この男はいつもそうだった。そして表情のない顔でいつもアルブレヒトのことを疑っていた。

「なあアルブレヒト、俺たちはさ、長く生きすぎたせいで引きずる過去が多すぎるんだ。でも生きているのは過去じゃなくて現在だ。そして未来を変えようとしている。よりよい未来を築くことができたら、それが長く続けば、それもいずれは過去になる。だったらこれからは引きずらなくていい過去とそれよりもっと良い未来のために生きてみないか。

 別に過去の苦しみを忘れろって言ってるわけじゃない。事実を否定しながら生きることはできないからな。ただ苦しみを知っているからこそ、どんなことで人が苦しむかを知っているからこそ、よりよい未来を目指せるってもんだ。そうだろ?」

 これがゼノウチスに言える限界だった。今やるべきことはアルブレヒトを否定することではない。お前は間違っているから今すぐやめろとは言わない。ましてや苦しんだのはお前だけじゃないんだと感情をぶつけることでもない。進むべき道を示して、その道を行く姿を見せて、アルブレヒトが確かに自分は間違っていたと認め、目先の絶望から未来の希望へと向いてくれることを願うだけだった。それは誰かに言われてやるのでは意味がなく、自分自身が心の成長とともに理解しなければならない。ゼノウチスはそう確信していた。それこそが人間としての成長だと信じていた。

「きれいごとだな…」

 アルブレヒトのこの返しはいつものことだった。しかし今回は少し違っていた。

「しかし、だ。まったく…その顔で話されるといつもよりいらいらさせられるのはなんでだろうな。逆に理性的に反論しなきゃいけない気にさせられる。

 田中君はずっと僕のことを疑っていた。だからこそ僕は彼を操らなかったんだ。今まで疑われることってほとんどなかったからね、その理由が知りたかった。でもなんとなく分かった気がするよ。彼はずっと僕が苦しみや憎しみを動機に行動しているのを感じていたのかもしれない。君が無意識の領域に潜んでるなんて気づかなかったから、そんなはずないって思う事さえなかったな。今考えれば君にそっくりだ。それにティーンエイジャーはどうせみんな馬鹿だと思っていたし」

 アルブレヒトは短く笑った。ゼノウチスはアルブレヒトのジョーク好きで愉快な面は好きだった。しかし今はジョークを言ったつもりはないらしい。それよりも長年説得できなかった相手が十八歳の少年のおかげで考えを変えたらしいと知って驚愕していた。

 アルブレヒトからは、さっきまでの感情に任せてものを言う姿勢はなくなっていた。

「エーリヒ。僕は君の考え方に同意するつもりはない。だが君がのんびり目指しているより良い未来を否定するつもりもない。正直に言えば、誰もが対話で高めって闘争をしない未来って想像できないんだ。だからそれを手伝うつもりもない」

 ゼノウチスはふんと鼻を鳴らすと(アルブレヒトにはそれが残念がっているようにも、幼稚な決意を茶化して、笑いをこらえているようにも見えた)しばらく視線をさまよわせてから眉毛を片方だけ上げて「それで?」と先を促した。

「僕はしばらく消えるよ。当事者でい続けるから疲れるんだ。しばらく傍観者になるさ。それにこの体の彼の仕事を代わりにやるのはしんどそうだ」

 アルブレヒトはアメリカ大統領の体を見下ろして言った。それはつまりアルブレヒトが核兵器で人類を滅ぼす計画をやめたことを意味している。口先だけの約束かもしれない。だが信じるしかないだろうとゼノウチスは思った。しかし保険はかけておいた。

「お前が考えを変えてくれてうれしいよ。あ、そうそうこの先誰かが核兵器を発射しようとしても、俺の仲間のテレサは人の悪意を探知できる。人類を滅ぼそうとするやつの悪意は相当だろうからすぐにわかるだろうな。そうなったらそいつのところに俺が参上することになるだろう」

 アルブレヒトにはテレサというミスルトウの存在は記憶になかったが、この男が無意味な嘘を言わないことは知っていた。なのでこの時間は何だったのだとあきれてため息をついた。

「まあそう落ち込むなアルブレヒト。重要なのは対話をすることだ。それに無駄になった時間を気にしたなら…」

「わかってるよ一秒もたってないっていうんだろ?まったくエーリヒ、君ってやつは…」

「そういえばまだ教えてなかったな。俺改名したんだ。これからはゼノウチスって呼んでくれ」

「ゼノウチス?なんだそれ」アルブレヒトが半笑いで聞く。

「特に意味はない。だからこそこの名前はな、これから意味を持つんだ。俺がこれから成すことによって、だ。世界平和を実現した者って意味になることを期待してくれ」


 気が付くと、田中はまた闇の中にいた。何も見えないし何も聞こえないがゼノウチスがいるだろうと思って話しかけた。

「どうだった?」

 しばらく静寂が続いた。田中は不安になった。ダメだったのだろうか。ということはすでに核兵器は炸裂して肉体を失っているのかもしれない。

 ゼノウチスがアルブレヒトと話している間、以前ジョナサンに気絶させられた時同様田中は水の中にいるような感覚で二人の会話を聞いていた。たまにはっきりと聞き取れることもあるが、ほとんどの声はぐわんぐわんと響くだけだった。それは映像も同じだったので何が起こっているのかはほとんどわからなかった。

「なあ、隆」

 質問に答えることなく突然ゼノウチスが話しかけてきた。その声は疲れ切っているといった感じだった。覇気がなく弱弱しい。田中は「なんだ?」と先を促しつつやはりだめだったのだろうかと思った。

「お前にとっての理想の世界ってどんなだ?」

 理想の世界…考えたこともなかった。なぜ考えたことがなかったのだろう。今まで自分は周りのこと、社会や世界について何を感じていただろう。そこで田中の妄想力が発揮された。目に見える世界が当たり前に存在していると思ったが、そこには創造主の意志が介在している。当たり前に存在していると思わされている。そこに視点を置いて妄想は飛躍していく。


光によって照らしだされている世界について。

 目に見える世界は神の意志によって見せられている世界である。よって本質の世界ではない。しかし人間はこれを疑うことはなく、それに満足し、その中で一生を終えることに何の不安も抱かない。

 それはなぜか。ここまで闇論を読んでくれた人ならすでに理解できていることと思う。人間が闇の真理に気づけないようにするためである。つまり光に照らされているすべては人間を欺くために存在しているのであり、本質的に価値のある物は何一つ存在していない。ここで言う本質的に価値のある物とは闇である。


科学について

 人間は科学によって発展してきた。しかし科学は闇の本質を知る事はない。なぜなら闇は当たり前にどこにでもあるからだ。そのせいで人間はその価値に気づくことができない。当たり前のものを研究しようと考える科学者はいないだろう。しかしこれは間違っている。闇の持つ本質的な価値とは人間の本質のことであり、闇を研究することは人間を研究することにつながるからだ。もし科学者の誰かがこのことに気づいて闇の研究をしているなら、人間は今より高い次元に到達できていたに違いない。誰も気づいていないから今も昔も人間は変わらず醜く争い合い、どうして争いがなくならないのだろうと首を傾げながら、自分では何もしないのが当たり前なのだ。そして科学は光の下に照らし出されるものにだけ焦点を合わせて発展してきた。それゆえに科学はいつか人間が使うものから、人間を使うものに変貌することだろう。本質的に価値のない物を発展させて、人間の本質である闇が発展することがないのだからいずれそうなる。


「待て待て脱線してる。現状を正しく理解しようという試みは大事だが、俺が聞いたのは隆、お前の理想の世界だ」

 田中は考え込んだ。自分にとっての理想の世界…考えたこともなかった。何故だろう。生まれてこのかた何を理想として、どう生きていたいか考えたことがない。

 ふと思い至った。それは社会という全体の中の一人に生まれたからだ。社会の中では人は他人と関わって生きていかなければならない。つまりは個人よりも全体が優先される。その中で個人の理想を語ることは時に悪いことのように扱われてしまう。

 別にそういう風に考えるように教えられたわけじゃないが、世の中の大半の人間にはそれが普通だという考えがおそらくあって、全体になじむことなく個人の価値を追求する人間はつまはじきにされる。それは田中が実際に経験してきたことだ。

 田中が神の存在を信じても、それを全知全能の絶対な善の存在だと思えないのはここからきている。個人を大切にしないのが当たり前の世界などくそくらえだと思っていた。

 田中の思考はまた脱線していたがゼノウチスは黙って田中が結論を出すのを待った。

「僕の理想の世界は…」

 田中は言葉をつづけることができなかった。しかしゼノウチスにはわかった。田中は感情的な結論を口走ることをためらったのだ。だからこそ安心した。

「いいんだ隆。自分の考えを恥じることはない。安心したよ。お前はアルブレヒトができないことをできる。決して感情に負けることがない。感情は無責任な行動を正当化する言い訳になりかねないからな。まあ、だからといって倫理を優先すれば間違わないかと言えばそういうわけでもない。御大層な倫理を語るはいいものの、結局は何もしないための言い訳にしてるやつもいる。重要なのは信じた理想のためにいかに行動できるかだ。そのためにお前の理想を知っておきたかったんだが…まあいい俺の口から言うのはやめておく。お前の理想だからな」

 恥じることはないといわれても田中は自分の考えを恥じた。社会は個人の集合体だ。だからこそ個人を大事にしなきゃいけないのに、それができないなら世界に自分だけになればいいと考えたからだ。理想の世界は自分だけがいる世界…一人しかいないなら個人の価値は社会の価値…しかしそれはあまりにも幼稚だ。

「隆、お前はこれからだな!ちなみにアルブレヒトは退場したよ。しばらく大統領の無意識の中に引っ込むらしい。それがあいつなりの倫理なんだろう。時には立ち止まって考えることも大事だ。とはいえあいつはそんなに頭良くないけどな」

 アルブレヒトは退場した。これは喜ぶべきなのだろうかと田中は思った。

「もちろん違う。最良の結果とは言えない。理想はあいつにも俺の計画に加わってもらう事だった。それが難しいのはわかっていたが、それでもな…」

 なるほど、ゼノウチスが落ち込んでいるように思えたのはそれが理由らしい。ところで計画とは何だろう。

「よし!ここからが本題だぞ隆。俺の計画っていうのは前にも説明したがダークインフィニティの創設理由と同じだ。闇の真理を広めることで人間をより高い次元で思考できる存在へと成長させる。そして個人が成長することで、家族が成長し、地域が成長し、国が成長し、世界が成長する。そうなった時おのずと世界平和は実現されるはずなんだ」

「それで具体的には?」

「闇論を書き上げてくれ。それが最も効率のいい俺の計画の第一歩なんだ」

 闇論を書き上げるのが第一歩?今まで闇の真理なんて言葉は何度も聞いたのにそれを言った何百年も何千年も生きてきた当の本人たちは一度もそれを文書にしなかったのか。田中には不思議で仕方がなかった。それはそうと田中にはゼノウチスの言い回しに覚えがあった。記憶を探っていると一つ思い当たった。マリアに届いていたメールの文面である。

「ん?まさか」

「ああそうだ、マリアにメールを送っていたのは俺だ。お前のパソコンのメーリングソフト起動してみろ。履歴残ってるぞ」

「そんな馬鹿な」

 田中はパソコンのメーリングソフトなど一度も起動したことがなかった。どうやら寝ている間にゼノウチスはちょくちょく田中の体を借りてメールを送っていたらしい。

「君は僕が寝ている間に他に何をやっていたんだ?」

「まあ俺は時間と空間に干渉できるからな…世界中であんなことやこんなことを」

「知りたいような、知りたくないような」

 これじゃまるで多重人格だ。ゼノウチスは田中の知らないところでジョナサンと殺し合いをしていたかもしれない。たとえそこでけがをしてもゼノウチス入りのこの体は驚くほど早く回復する。朝には何事もなかったように田中がベッドから起き上がるわけだ。

「とにかくだ、今までは俺の意志で計画を進めてきたが、闇論を書き始めたのはお前だ。お前の意志でやり遂げてほしい。それに、はっきり言わせてもらうがお前はまだ何一つやってない。ただ巻き込まれてただけだ」

 田中は一瞬むっとしたが確かに言われたとおりだと思った。

 今まで世界を平和にしたいなんて大それたことを考えたことはなかった。そもそも世界に居場所があると思っていなかった。だから妄想に逃げた。だが今の田中はもうただの妄想癖の中二病ではない。闇の真理を知っている。そしてそれを知っていながら争うミスルトウたちを見てきた。自分はそこから学ばなければならない。争いのない世界を目指さなければならない。

「いいぞ隆!それでこそが王の器だ」

「王の器?」

「そうだ。王はどんなに強大な力を持っていたとしても、ハイドリヒのように恐怖で民を支配するべきじゃないし、アルブレヒトのように民に絶望したからと言って根絶やしにするような暴君であってもいけない。正しい道を示し、導く者でなくちゃいけないんだ。俺はそういう王になるつもりでいる」

「そして民を率いて神に挑むのか」

「アッハハハハ!分かってきたじゃないか隆!俺とお前ならそれができる!そして王には王妃がいなきゃな!だからマリアにアタックしろよ!」

 また勢いで返事をするとでも思ったかのようにゼノウチスがさらっと言う。

「なんでお前はそんなにマリアにこだわるんだ。もしかしてお前の趣味なのか?」

「違う!!」

 突然ゼノウチスが叫んだので田中は驚いた。驚いたあまり心臓の早い鼓動が聞こえそうな気がしたが闇は静まり返ったままだった。


「それで計画はうまいこと運んでるか?」

「それがそうでもない…ダークレリジョンのことを言っているんじゃないぞ、それは君の領分だからね」

 男は申し訳なさそうに言ったが、そこには不満も含まれていた。アメリカ北西部に位置するここでは、乾燥のために夏の暑さはそれほどひどいものではなかったが、男と少年がいるこの部屋にはコンピューターの熱がこもっており、最低温度に設定されたエアコンの努力もむなしく、タンクトップ姿の男の額には汗が浮いていた。しかし男の不満は機密保持のために部屋を密閉して換気ができないことではなかった。

「ご機嫌斜めだな。もしかして子供にこき使われてる気がするか?」

「まさか、君が二千歳以上なのはわかってる。見た目で人を判断するほど私は馬鹿じゃない。とはいえマリアと同い年の少年になっているとは思ってなかったが」

 これを聞いて田中隆少年の体を借りたエーリヒはピンときた。

「マリアを日本に置いてきたことが気に入らないのか」

「まあ…そうだな。君が見守ってくれているのはわかっているが、やはり娘に会えないのは辛い」

 鶴野正義とその妻のエリザベスはダークインフィニティの一員であり、エーリヒの計画の一端を担う技術者だった。その技術とはいずれ世界中で主流産業になるであろう仮想現実の世界で、アクセスした人が好きな知識をインプットできるシステムの構築だった。エーリヒはこれによって今まで形のなかった知識というものが売り買いされる時代が来ると確信していた。もしかしたら教育という概念はなくなるかもしれない。しかし何千年も生きてきたエーリヒには肝心のその技術を開発できる知識がなかった。そこで以前から仮想現実を研究していた二人をダークインフィニティに引き入れて協力してもらっているのだった。しかし彼らが日本でシステムの開発を始めたころに問題が発生した。ダークレリジョンに二人の存在が知られたのだ。エーリヒは運よく襲撃の前に二人をアメリカに逃がすことに成功したが、エーリヒの判断でマリアは日本に置いていくことになった。幼いマリアはダークレリジョンに危険視されることはないだろうし、戦闘経験豊富な鳥山奏がついていれば安心だ。正義は頭ではそのことを理解しているつもりだったが、娘に出すことを約束していた手紙もダークレリジョンに知られるからとエーリヒに止められていたのでどうしても割り切ることができなかった。

「その辛さは俺にもわからないわけじゃない。俺にも昔娘がいたことがある…」

 正義は驚いた。それは別に七歳の少年がらしからぬことを言ったからではなく、今までの付き合いの中で、一度もエーリヒの子供の話が出なかったからだ。それでなんとなくエーリヒは子供がいたことがないのではと思い込んでいた。

「正義、これは誰にも話したことないんだがな、俺は十歳になる娘を残して死んだことがあるんだ。それで次の肉体に移った時どうしても娘に会いたくなった。父親だから当然だろう?けどな、向こうからしたら俺は見ず知らずのどこぞのガキで、しかも自分のことをなぜかやたらとよく知っている。そういうのは普通じゃない。普通じゃないものは拒絶されるんだ。たとえ実の娘でもな」

「会いに行ったのか?」

 エーリヒは答えなかったが、黙って正義の目を見返した。つまりイエスという事だ。正義の娘のマリアはまだ幼く、反抗期が来たことがない。正義は娘に拒絶されるなんて想像したくもなかった。しかもエーリヒの場合は反抗期とは違い、仲直りという概念は恐らくなかっただろう。正義は本当に想像したくもないと思った。

「まあ、俺が言いたいのはこの状況は一時の辛抱だってことだ。ずっと続くわけじゃない。全てが終わればまたマリアと暮らせる。約束するよ。だから別に俺が辛い思いをしたんだからお前もするべきだなんていいたいわけじゃないぞ」

 正義は苦笑いした。以前からこのエーリヒという男にはどこか言葉の端に引っ掛かるものがあった。そのたびに自分の信じる道理を聞かせる必要があった。やるべきことをやって、やらなくていいことはやるな。事実は否定するべきではなく受け入れて次の一歩を踏み出すためのヒントを得るよう努めること。そしてなによりも目先のことにとらわれず将来のことを考えて行動すること。今の状況なら言わなくていいことは言うなだろうか。しかし正義は何も言わずにおいた。何千年も生きてきてそんなこともわからないのかと怒鳴るのは、それこそ道理に反する。相手を気遣うことも忘れてはいけない。正義はそう考えることができることが人間の成長であり、世界平和の第一歩だと信じていた。そのためにはまず自分が実践しなければならない。

「すべてが終わったらか…」

 正義は独り言のようにつぶやいた。むしろ終わってからが大変なのだ。

 その時玄関のブザーが鳴った。正義は監視カメラにつながっているパソコンの画面で来訪者を確認した。そこにはウェーブのかかったブロンドの美女がこちらを見返している。エリザベスだ。表情を緩めて玄関に出ようと立ち上がったところで正義はある違和感に気づいた。

「エーリヒ、時間止めてないのか?」

「え?ああ、気づいてなかったのか。俺が時間を止められるのはせいぜい三時間程度だ。ずっと止めていられるなら、お前だけ止まってる時間の中に放り込んでシステムが完成するまで止めてるさ。気づかれてると思っていたが、一応秘密にしてくれよ」

 確かにそうだと思った。それに出会った頃のエーリヒはダークレリジョンを敵対視しすぎていたがために、出会ったら皆殺しにしてやると息巻いていたぐらいだ。永遠に時間を止めていられるなら、すでに一掃しているだろう。もちろんそのことについては正義が道理を教えてやることになった。誰かを恨みながら生きることは誰も幸せにしない。その結果に責任を負うことも、おそらくできない。

「正義、時間切れだ。俺は帰る。日本じゃそろそろ朝だからな」

「エリザベスに会って行かないのか?」

「よろしく言っといてくれ。それからマリアのことは任せておけ、俺が絶対に守る。それからお前たちのことは処刑人に任せてあるから」

 それだけ言うとエーリヒは、一瞬にして正義の目の前から姿を消した。そしてこれが二人にとっての最後の瞬間になった。


 闇の中で田中は鶴野正義の過去の記憶を見ていた。それはあまりにも生々しく、まるで自分がそこにいるかのようだったし、自分が鶴野正義本人になったかのような錯覚さえあった。そのうえ目の前には七歳のころの自分の姿をしたエーリヒ改めゼノウチスがいたのだからなお奇妙だった。

「今のは何だ?」

「事実さ、正義は本当にいい奴だった。そして俺は約束を守ることができなかった」

 田中はそのことを聞いたわけではなく、どうやって鶴野正義の記憶を見せたのかを聞いたのだが、改めて聞くのはやめておいた。

「つまりお前はマリアの両親を巻き込んでおきながら救えなかったことを悔やんでいるのか…でもそれとマリアをやたら僕に押してくるのとはどういう関係があるんだ?」

「似てるんだよ、お前と正義は。決して感情に左右されず、やるべきこと、正しいことは何かを考えて行動できる。お前みたいなやつにならマリアを任せてもいいと思ったから言ってるんだ」

 以前マリアからマリアの父親の話を聞いた時、田中は鶴野正義はとても立派な人だったのだと思った。その考えに共感もした。だがそれとこれとは話しは別だと思った。

「別じゃなーい!いいか隆!女の子っていうのはな、父親に似た男に惹かれるものなんだよ!」

「こじつけだろ」

「この野郎!俺が認めたんだからいいんだよ!」

「お前が父親じゃないだろう、面識もないくせに」

 ゼノウチスが奇声をあげ始めたので、田中はなんだかおかしくなってきて笑った。

「まったく、そうやって道理を並べ立てるところまで正義にそっくりだ。いいさ、マリアのことはもうちょっとお前が素直になったら考えてくれ。女を落とす手ならいくらでも知ってるからな、そのときは力になるぜ!あと、どっちにしろマリアを巻き込んだ以上今後は頻繁に関わることになるからな」

 田中はもう笑ってはいなかったが、まんざらでもないと思った。しかしゼノウチスにマリアを落とす手伝いをしてもらおうなんて微塵も思わなかった。その田中の考えを読んで、こいつはだめだと思ったのかゼノウチスは話を切り替えた。

「とにかく、結局のところお前はやるのかやらないのか?」

「やるよ!闇論を書いて広めるんだろ?正直言ってまだ世界平和を目指すとか神に挑むとかあんまり実感ないけど、普通の人がやらないし、考えないことが間違っているとは思わないからね。むしろ今まで間違いだらけだったんだから、そういったことの中にこそ正解があると思う。だからやる!」

「よく言った!」

 ゼノウチスがそう言うと同時に、闇はどんどん明るくなってきた。真理は闇の中にあり、光の下に照らし出された世界はすべて偽り…しかしそれでも白い光に闇が照らされていく光景を見て、田中は希望を見出した気がした。それはただの妄想癖の高校生だった自分に、これからは世界平和を目指す人間になったのだという価値と自信を見いだせたからだった。

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